港町到着と料理人イザベラ
長い放浪を経て、愚楽はついに草原を離れ、大海に臨む町へと辿り着いた。
東方の草原と砂漠を越え、ペルシャの商人に紛れて隊商とともに西へ。イベリア半島の果て――ポルトガルのリスボンである。
十三世紀から十五世紀へ。時代は移り変わり、大航海の幕が開こうとしていた。
港には無数の帆船が並び、マストは林のように聳え、海風は香辛料と魚の匂いを運んでいた。黒人奴隷の姿もあれば、アラブ商人、ユダヤの金貸し、インドや東洋から来たと思しき異国人まで混ざり合い、まさに「世界が出会う町」であった。
愚楽は鼻をひくひくさせて叫んだ。
「うおおお! 草原の干し肉と乳とは違う匂いだ! 魚! 貝! 油! 酒! これは絶対に旨いに決まってる!」
港から続く石畳の路地を歩くと、魚の市場が広がっていた。銀色の鱗を光らせた鯖、樽いっぱいの鰯、氷の上に並んだ鱈。貝殻を山と積んだ牡蠣やムール貝、赤い海老に、まだ跳ねるイカやタコまで。
愚楽は口を開け、よだれを垂らしながら近づいた。
「くぅー! 俺の舌が震えてる! これは絶対に忘れない味だ!」
その勢いで辿り着いたのが、港近くの小さな食堂だった。白い壁と青い扉、木の看板には「イザベラの台所」と記されている。
店の中から魚を焼く匂いが漂い、愚楽は我慢できずに飛び込んだ。
カウンターの奥には、黒髪をスカーフでまとめた女性が腕を組んで立っていた。
大きな瞳に勝気な笑みを浮かべ、客に向かって威勢よく叫ぶ。
「今日の鰯は最高だよ! 炭火で焼けば皮はパリパリ、中はふっくら! 食べたいなら並びな!」
愚楽は椅子に飛び込むように座り、両手を叩いた。
「おおおっ、鰯! それだ! 頼む! 焼いてくれ!」
女性――イザベラは眉を上げて彼を見やった。
「見ない顔だね、旅の人?」
「名は愚楽! 馬鹿でも旨い飯の味は忘れない! 料理博士だ!」
突然の名乗りに、店内の客たちはどっと笑った。
イザベラは呆れたように肩をすくめ、魚を串に刺して炭火に乗せた。
じゅうじゅうと脂が落ち、香ばしい煙が立ちのぼる。
愚楽は待ちきれず、鼻を突き出して深呼吸した。
「くぅぅぅ! 香りだけで腹が満ちそうだ!」
「まだだよ、馬鹿博士。焦げる前に返すのがコツなんだ」
イザベラは軽やかに串を返し、塩をひと振り。
焼き上がった鰯が皿に盛られる。レモンを絞れば、香りがさらに立ち上る。
愚楽は手を伸ばし、骨ごとがぶりと齧った。
「うまいっっっ!!!」
炭火で焼かれた皮は香ばしく、脂が舌に染み渡る。レモンの酸味が後味を爽やかにし、次のひと口を呼ぶ。
愚楽は涙を流しながら叫んだ。
「これは! 草原では絶対に味わえねえ! 俺はこの味を一生忘れねえ!」
次に運ばれてきたのは、鍋いっぱいの魚介スープだった。
白身魚の切り身、ムール貝、海老、玉ねぎやサフランが溶け合い、赤く煮えたぎっている。パンを浸して口に運ぶと、魚介の旨味が爆発する。
「う、うま……! これも忘れられん!」
愚楽は夢中で食べ、皿を次々と平らげていった。
イザベラは腰に手を当てて笑った。
「まったく、どんだけ食べるんだい! 馬鹿みたいに……いや、馬鹿なんだったね」
「そうだ! 俺は馬鹿だ! でも旨い飯の味は忘れない!」
その日、愚楽は鰯を十匹、魚介スープを三杯、さらに茹でダコと焼き魚をたいらげ、最後には腹をさすりながら床に転がっていた。
「……もう動けねえ……でも幸せだ……」
店内の客たちは大笑いし、イザベラは頭を振ってため息をついた。
「全く、とんだ客を拾っちまったよ」
こうして、港町の食堂の女主人イザベラと、馬鹿げた旅人愚楽の奇妙な縁が始まったのである。




