咸陽宮の馬鹿従者
愚楽が従者となってから数日。咸陽宮の日常は、確かに変わり始めていた。
宮廷は本来、息をひそめるような厳粛さに包まれていた。儀礼のたびに廷臣たちは列を揃え、一言の失言すら死を招くと囁かれるほどの緊張感に満ちていた。
ところが――。
「おい、愚楽! 陛下のお召し物を落とすでない!」
「ひぃっ!」
ある朝、始皇帝の衣を運ぶ役目を任された愚楽は、豪奢な絹衣を腕に抱えて歩いていた。だがつまずいて転び、見事に床に広げてしまった。
衣には埃がつき、廷臣たちは一斉に蒼白になった。だが始皇帝は衣を拾い上げ、愚楽の頭を小突いた。
「愚か者め、だが余の衣もこうして地に触れたのだ。天子も土の上に立つ者にすぎぬな」
そして大笑いした。廷臣たちは苦い顔をしつつも、帝が笑っている以上は罰することもできなかった。
また別の日。
「陛下に献上する御茶を用意せよ」と命じられた愚楽は、誇らしげに茶碗を差し出した。
「お待たせしました! これが粟茶です!」
ところが茶碗の中身は、茶ではなく粟粥を薄めた汁だった。
「お、おい愚楽! それは……!」
廷臣たちが止める間もなく、始皇帝は茶碗を口にした。
一瞬、広間が凍りついた。だが帝はごくりと飲み込み、鼻を鳴らした。
「……ふむ、これはこれで悪くない。新たな飲み物か!」
愚楽は胸を張った。
「はい! 腹にもたまります!」
廷臣たちは頭を抱えた。だが帝は再び大笑いした。
さらにある日の晩餐。
始皇帝の前に並んだ膳を愚楽が整えていると、羊肉の香りに釣られて思わず手を伸ばし――指先を焦がした。
「熱っつ!」
思わず肉を放り投げると、肉は宰相の冠にべちゃりと落ちた。
広間は凍りつき、宰相の顔は蒼白に染まった。廷臣たちは「これこそ首が飛ぶ」と確信した。
だが始皇帝は目を見開いたのち、声をあげて笑った。
「はははは! 冠に肉とは、宰相も働きすぎで飢えておるのだろう!」
宰相は必死に笑顔を作り、愚楽は頭を掻きながら「すみません、俺の指が先に食いたがっちゃって……」と謝った。
こうした失敗は数え切れなかった。
始皇帝の剣を磨こうとして刃を欠けさせそうになったり、使者を迎える場で転んで巻物をぶちまけたり。
宮廷に仕える誰もが、心臓に悪い日々を過ごすことになった。
だが同時に、重苦しい空気が和らいでいることも否めなかった。廷臣たちがひそかに口にした。
「陛下があれほど笑うのは久しぶりだ」
「愚楽という名は、あながち間違いではないな……」
愚楽自身は何も分かっていない。ただ、食べたいときに食べたいと言い、思ったことを口にし、ドジを繰り返すだけだった。
しかし、その愚かしさが確かに始皇帝の心を軽くし、宮廷の空気を変えていたのだ。
こうして咸陽宮の日常に、笑いという異物が入り込んだ。愚楽は馬鹿でありながら、始皇帝の傍らで確かな存在感を放ち始めていた。




