小蓮商会の誕生
チンギスの幕営で処刑を免れた愚楽と蓮明は、しばらく軍の陣に留め置かれることになった。
だがそれは決して牢獄ではなく、むしろ試験のようなものだった。
蓮明は商人としての才を、愚楽は……なぜか「料理博士」としての舌を、ハーンの兵たちに見せることを求められたのだ。
草原の陣営では、日ごとに乳の香りが漂った。
朝は発酵させた馬乳酒、昼は乾燥チーズ(クミスの滓を固めた硬い塊)、夜は羊を屠って煮込む大鍋――。
遊牧の民の糧は質素だが力強い。
愚楽は兵士の鍋に顔を突っ込み、鼻をひくひくさせて言った。
「塩、もうひとつまみ! 脂を回せ! これで旨さ百倍だ!」
兵士たちは半信半疑で従ったが、実際に味がぐっと丸くなり、笑いと驚きが同時に広がった。
「やはりこの馬鹿の舌は侮れん!」
「博士殿、次は俺の鍋も見てくれ!」
愚楽は胸を張り、決め台詞を叫ぶ。
「名は愚楽! 馬鹿でも旨い飯の味は忘れない!」
兵士たちは大爆笑し、宴席の人気者となった。
一方、蓮明は丁寧に隊商の道筋や交易の仕組みを語った。
「シルクロードを越えれば絹と香辛料が運ばれ、西へ行けば銀と宝石が戻る。この往来を結べば、ハーンの国庫は潤います」
チンギスは無言で耳を傾け、やがて頷いた。
「そなたの才、確かに使える。商いを任せよ」
こうして蓮明は“御用商人”に任じられ、後に「小蓮商会」と呼ばれる一族の祖となったのである。
だが愚楽の馬鹿げた行動は、また別の縁をもたらした。
ある日、愚楽は退屈そうに馬柵の中をうろついていた。
そこには、逞しい戦馬が繋がれていた。毛並みは黒く、眼光鋭い。近づけば蹴り飛ばされてもおかしくない。
「おい……馬。お前も腹減ってんだろ?」
愚楽は兵から奪った干し草を鼻先に差し出した。
馬は警戒して鼻を鳴らしたが、やがて草を食み始めた。
「そうかそうか。旨いか? 俺と同じだな!」
愚楽は嬉しくなって、馬のたてがみに頬をこすりつけた。
そこへ兵士が駆け寄る。
「おい馬鹿! それはハーンの愛馬だぞ!」
「えっ、そうなのか!? でも旨そうに食ってるぞ!」
兵士は頭を抱えたが、馬は愚楽を蹴りもせず、むしろ顔を寄せてきた。
その様子を見た者たちは大笑いした。
「馬にまで好かれる馬鹿とは!」
「博士は馬博士でもあるのか!」
こうして愚楽は、人だけでなく馬にまで“馬鹿にされながら親しまれる”存在となった。
その夜、軍の宴席で大鍋が振る舞われた。
羊の骨付き肉を塩で煮込み、乳で仕上げたスープ。油が浮き、香りは濃厚だ。
愚楽は豪快にかき込み、涙を流した。
「うまい! これだ! 草原の味だ! 俺はこの味を一生忘れねえ!」
兵士たちも杯を掲げ、笑いと歓声で幕営は揺れた。
その光景を見ながら、蓮明は小さく呟いた。
「小蓮の名は、必ずやこの草原を越えて残る……。そして愚楽、お前の馬鹿げた舌も、我らの縁を導くのだろう」
こうして、愚楽の馬鹿な舌と蓮明の才覚が交わった瞬間、歴史の新たな道――小蓮商会の旅路が始まったのであった。




