チンギスの幕営での裁き
大草原の中央、巨大な天幕がそびえていた。
その前には戦馬の列があり、火を焚く兵士たちの影がゆらめく。数百の矢筒と槍が整然と並び、遊牧の民が一つの軍団となっていた。
捕虜の列の中で、愚楽と蓮明も縄で繋がれ、緊張の中に立たされていた。
幕営の中央に進み出ると、座にあったのはひとりの男。
鋭い眼光と高い鼻梁、肩幅は広く、毛皮の衣を纏う。
ただそこに座しているだけで、荒野の風そのものを従えるような威を放っていた。
テムジン――チンギス・ハーンである。
兵士が叫んだ。
「捕らえた盗人にございます!」
チンギスは愚楽を一瞥した。その眼差しは氷のように冷たい。
「盗みを働いた者は、どうするべきか」
低く響く声に兵たちが答える。
「斬るべし!」
処刑人が前に出て、刀を構えた。
蓮明は顔を青ざめさせ、愚楽の腕を震わせた。
「……終わった」
だが愚楽は、縄で縛られたまま胸を張って叫んだ。
「待った! 俺は料理博士だ!」
兵たちがざわめいた。
チンギスが眉をひそめる。
「……料理、博士?」
愚楽は続けた。
「肉を焼けば百年戦える! 干し肉は固すぎるから石で温め直せば脂が回って旨くなる! 馬乳酒は酸っぱすぎるから塩を足せ! 俺は馬鹿だが、旨い飯のことは忘れない!」
そして大声で名乗りを上げた。
「名は愚楽! 馬鹿でも旨い飯の味は忘れない!」
兵士たちが一瞬の沈黙の後、大爆笑した。
刀を構えていた処刑人まで腹を抱えて笑い、場の緊張は一気に崩れた。
そこに蓮明が進み出た。勇気を振り絞り、モンゴル語で声を張った。
「ハーン、この男の言葉は馬鹿げております。しかし、我ら商人にとって食糧の工夫は交易の命。彼の言葉を試す価値はございます!」
チンギスは蓮明に目を向けた。
「そなたは?」
「中国と西域をつなぐ商人、蓮明と申します」
「ほう……商人か」
チンギスは顎に手を当て、愚楽を見直した。
「馬鹿者の舌が軍を救うかもしれぬ、というのか」
「はい!」
蓮明は声を張った。
「彼は味の記憶に異常なほど正確でございます。塩の加減、水の匂い、肉の旨味……忘れぬと言い張ります。その舌は、軍の糧を守るのに役立つでしょう」
愚楽は縄を揺らしながら笑った。
「そうだ! 人の名や国の名は忘れても、旨い飯の味は忘れねえ!」
再び爆笑が広がる。
やがてチンギスは大きく笑った。
「面白い! 愚かだが面白い! よかろう、この馬鹿を斬るな。生かせ!」
そして蓮明を指差した。
「そなたの商いも利用する。わしの軍は広がる。兵を支えるには糧と交易が要る。そなたらを“御用商人”とする!」
蓮明は頭を垂れ、全身を震わせた。
「ありがたき幸せ!」
愚楽は得意げに叫んだ。
「ほら見ろ! 飯は人を救うんだ! 俺は料理博士! 馬鹿でも旨い飯の味は忘れない!」
兵士たちは再び笑い、チンギスは愉快そうに頷いた。
こうして愚楽と蓮明は、処刑を免れるどころか、歴史の奔流のただ中に放り込まれることになったのである。




