草原で捕らえられる
――時は十三世紀の初め。
西方ではバグダードが学問と交易の都として栄えていたが、東方の草原ではひとりの覇者が旗を掲げていた。
テムジン、のちにチンギス・ハーンと呼ばれる男である。
愚楽は、その歴史の奔流へと、またしても食欲のせいで転がり込むのだった。
イスラムの都から旅立った彼は、羊肉の煮込みやザクロの菓子を「これぞ世界一!」と叫びながら頬張り、それを超える味を求めて東へと進んでいた。
しかし結局、どれが一番旨いかは決められない。すべてを食べ尽くしたい。それが愚楽の旅の原動力だった。
ある夜、彼は大草原を行く隊商を見つけた。月明かりに照らされた荷馬車の中には干し肉や乳製品が積まれている。
「へへっ……ちょっとだけなら、誰も気づかねえよな」
そうつぶやき、袋を破って干し肉を頬張った。
「固ぇ! でも噛むほど味が染みる! うまい!」
感嘆の声を上げるその瞬間、背後から怒声が響いた。
「盗人だ!」
「捕まえろ!」
モンゴルの兵士たちが飛びかかり、愚楽はあっという間に地面に押し倒された。縄で縛られ、棒で小突かれながらも、彼は「でもちょっと塩気が薄いぞ!」と味の講評をやめない。
兵士たちは呆れて笑った。
「こいつ……本当に盗人か? ただの馬鹿だろう」
その時、もう一人捕らえられている青年の姿が目に入った。
名を蓮明という。
彼は中国と西域の血を引く混血の商人で、小さな隊商を率いていたが、モンゴル軍に荷を没収され捕縛されていた。
二人は同じ縄で繋がれ、兵に引き立てられる。
蓮明は愚楽を見やって小声で囁いた。
「お前……なぜあんな馬鹿な真似を?」
「腹が減ったからだ!」
愚楽は胸を張って答える。
蓮明は絶望の中で思わず笑った。
「……俺は蓮明。父から商売を受け継いだが、ここで終わりかもしれん」
「終わり? いや、俺はまだ腹いっぱい食ってねえ! 終わるわけがない!」
その無邪気な答えに、蓮明は肩を揺らして笑った。恐怖で凍りついていた胸が、少しだけ和らいだ。
モンゴル兵たちは二人を北へと連行する。
果てしない草原の彼方には無数の天幕が広がり、戦馬が繋がれ、鍛冶の火が夜空を赤く染めていた。
遊牧の民がひとつの旗のもとに結集し、秩序ある軍隊となりつつある光景は、すでに「世界帝国」の胎動を示していた。
怯える蓮明は愚楽に問う。
「お前……名は?」
愚楽はにやりと笑い、胸を張って叫んだ。
「名は愚楽! 馬鹿でも旨い飯の味は忘れない!」
兵士たちが思わず噴き出し、蓮明も苦笑した。
「……自分で馬鹿を名乗るのか」
「そうだ! だが飯のことだけは絶対に忘れねえ!」
愚楽は誇らしげに笑う。
その笑いは、荒涼たる草原に一瞬の明るさを灯した。
やがて兵士の声が響く。
「連れて行け! チンギス・ハーンの御前だ!」
愚楽と蓮明は縄で繋がれたまま、大幕へと引き立てられていった。
そこで待つのは、やがて世界を揺るがす大王との邂逅であった。
馬鹿と商人の運命が、いまひとつの縁で結ばれようとしていた。




