遠征と宴
チンギスの旗の下、軍勢は草原を西へと進んでいた。
無数の馬が大地を蹴り、風が帆のように兵士の外套を膨らませる。乾いた空気に混じるのは、干し肉と乳の匂い。戦と生活が、ひとつに重なった光景だった。
愚楽はといえば、馬上の生活に慣れずに尻をさすっていた。
「いてて……馬ってのは固い椅子だな! 尻が割れる!」
兵士たちは大笑いしながら囃した。
「博士殿! それでこそ馬上の男だ!」
「名は愚楽! 馬鹿でも尻の痛みは忘れない!」
愚楽が自分で決め台詞をもじると、兵たちは腹を抱えて笑った。
しかし行軍は過酷だった。乾いた風と寒暖差に、兵士たちは体力を削られる。食糧は干し肉と硬い乳製品ばかりで、味気ない。
そんな中、愚楽が鍋を覗き込み、鼻をひくひく動かした。
「おい、この羊の骨、まだ旨味が残ってるぞ! もう一度煮出せ!」
「何を言う、これはもう煮尽くした残りだ」
「いや、石で叩いて砕いて煮ろ! 骨の髄は最後まで旨い!」
兵たちは面白半分に従った。すると、白濁したスープが出来上がり、脂と香りが漂い出した。
一口すすった兵士は目を見開いた。
「……旨い! 体に染みる!」
次々と器が差し出され、愚楽は得意満面に叫んだ。
「ほら見ろ! 飯は兵を救う! 名は愚楽! 馬鹿でも旨い飯の味は忘れない!」
こうして兵の士気は高まり、疲れた心に笑いと力が戻った。
夜、行軍の合間に宴が開かれた。
羊が一頭屠られ、大鍋に投げ込まれる。塩だけで煮る豪快な料理――「ボーズ」。
肉を手づかみで裂き、脂が滴るのをそのままかぶりつく。
愚楽は口いっぱいに肉を詰め込み、脂で顔をテカテカにさせながら叫んだ。
「うまいっ! この汁、この骨の旨味! 俺は一生忘れねえ!」
兵士たちも豪快に笑い、杯を打ち鳴らした。馬乳酒が回り、幕営は歌と笑いに包まれた。
その最中、チンギスが姿を見せた。
ハーンは静かに大鍋の前に進み、肉を一切れ取り、無言で口にした。
兵士たちが息を呑む。
やがてチンギスは頷き、低く言った。
「よく煮えている。……誰の工夫か」
兵士たちは一斉に愚楽を指差した。
「博士殿です!」
愚楽は胸を張って叫んだ。
「名は愚楽! 馬鹿でも旨い飯の味は忘れない!」
ハーンはしばし愚楽を見据え、やがて口元をわずかに緩めた。
「……馬鹿ゆえに、真理を掴むか。面白い」
その一言で、愚楽は軍中でさらに親しまれる存在となった。
彼の馬鹿げた舌は、戦の厳しさを和らげ、兵の心を支える力となっていったのである。




