空腹の幻
ラマダーン二日目の朝。夜明け前、太鼓が街に響いた。
人々は素早く起き出し、ナツメヤシや薄いパン、ミルクを口にして日の出前の小食を済ませる。
それが過ぎれば、日没まで水も飲めない。
ユースフは規律正しく食を終え、祈りを済ませると、涼しい顔で講義へ向かった。
一方、愚楽はというと――
「な、なんだよこの量! もっと食わせろ!」
「断食前は軽く食べるものだ。満腹はかえってつらくなる」
「そんな馬鹿な! 俺は空腹に勝てん!」
彼はパンを十枚積み上げようとし、ユースフに取り上げられて涙目になった。
日が昇ると、街全体が一変した。
いつも賑やかな市場も昼はひっそりとし、屋台の火は落とされている。
飲食を禁じられているから、人々は控えめに歩き、代わりにモスクに集まって祈りの声が響いた。
ミナレットから流れるアザーン(礼拝の呼びかけ)が町中を包み、空気まで引き締まったように感じられる。
しかし愚楽の腹は、容赦なく音を立てた。
「ぐぅぅぅ……ユースフ! もう死ぬ!」
「まだ午前だ」
「午前でこれなら夕方は絶命だ!」
愚楽はあまりの空腹に、目に入るものすべてが食べ物に見えてきた。
「おいユースフ……あのモスクの丸屋根、巨大なパンに見えないか?」
「見えん!」
「ほら! ドームの金色が焼きたてのパンだ! ああ、香ばしい匂いが!」
「空腹の幻覚だ、黙れ!」
通りかかった人々が笑いを堪えきれず振り返る。
愚楽はさらにふらふら歩き、石畳に座り込んだ商人を指差した。
「お前……羊の丸焼きになってるぞ……」
「なにぃ!? 無礼者!」
慌ててユースフが頭を下げ、愚楽を引っ張って逃げる。
昼の暑さが厳しくなるにつれ、愚楽の妄想はさらに悪化した。
「水、くれ……いや、ナツメヤシジュースを……」
「だから水も飲めぬのだ!」
「じゃあ口だけ動かして食べたふりする!」
本気でパンを噛む真似をして、子どもたちに大笑いされる。
その様子を見ていた老学僧が近づいてきた。
「そなた、断食を笑いものにするのか」
「笑いものじゃねえ! 腹が減りすぎて笑うしかないんだ!」
愚楽は真顔で言い放った。
すると老学僧は少し黙り、やがて微笑した。
「……飢えを共にすることで、人は他者の苦しみを知る。それが断食の教えだ。
だが、飢えを笑いに変える者も、また人を救うかもしれぬな」
ユースフははっとした。馬鹿げた言動ばかりの愚楽だが、群衆を和ませているのも事実だった。
断食の厳しさを忘れさせ、子どもたちを笑顔にし、大人たちにも少しの余裕を与えていた。
夕刻。太鼓が再び鳴り、日没の合図が告げられた。
市場に火が入り、香ばしい匂いが街を満たす。
黄金色のピラフに羊肉の煮込み、ザクロを散らした甘い菓子。
愚楽は歓声を上げて飛び込んだ。
「うおおお! 丸一日死にかけた甲斐があった!」
「……半日も耐えられなかったくせに」
ユースフは呆れたが、愚楽の顔が笑いで満ちているのを見て、ふと心が軽くなった。
祈りとともに始まる食事。人々は互いに料理を分け合い、笑い合いながら夜を迎えた。
愚楽は満腹になり、床に転がって叫んだ。
「やっぱり料理学問は偉大だ! 断食のおかげで、飯が百倍旨い!」
ユースフはため息をつきつつも、口元に笑みを浮かべた。




