表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
永遠の馬鹿  作者: 火浦マリ
イスラム黄金時代編
PR
32/93

知恵の館の騒動

 バグダードの都には、世界の学問を集めた殿堂があった。


 それは「知恵の館(バイト・アル=ヒクマ)」と呼ばれ、ギリシャの哲学書も、インドの天文学も、ペルシャの医学書も、すべてがここで翻訳され、学僧たちが日夜議論を交わしていた。




 ユースフはその学僧のひとりであった。幼い頃から学問を志し、医学と天文学に心を注いでいる。


 ある日、彼は愚楽を伴い、知恵の館の講堂へと足を踏み入れた。




 広間の中央には長い卓が並び、学僧たちが巻物や板を前に熱心に語り合っていた。


「この病は体液の不均衡によるものだ」


「いや、天体の動きが人体に影響を与えるのだ」


 真剣な声が飛び交い、時に激しく論争となる。




 その隅に座らされた愚楽は、退屈そうに欠伸をしながら聞いていた。


「体液だの天体だの、そんな話より腹が減った……」


 ユースフは小声でたしなめた。


「静かにしていろ。ここは学問の場だ」


「おお、学問か。……なあ、それで飯は美味くなるのか?」


 唐突に口を開いた愚楽に、学僧たちの議論がぴたりと止まった。




 ひとりの学僧が怪訝そうに尋ねた。


「いま、何と言った?」


「だからよ、学問ってやつは人を救うんだろ? なら“食べ物を美味くする学問”ってのはないのか?」


 講堂にざわめきが広がった。




 ユースフは顔を真っ赤にし、慌てて弁明した。


「お待ちを! こやつは旅の道化のようなもので、真面目に取り合う必要は……」


 しかし愚楽は立ち上がり、胸を張った。


「俺は料理博士になる! 羊肉を柔らかく煮る方法とか、ナツメヤシを入れる順番とか、そういうのを極めりゃ人はもっと幸せになるんだ!」




 学僧たちは一瞬呆然とし、次いで爆笑が巻き起こった。


「料理博士だと!?」「体液の均衡ではなく、羊肉の煮込みか!」


「だが、確かに病人には消化の良い食が必要だ……」


「おい、学問として成立するのでは?」


 真面目な議論が、愚楽の一言で一転、料理談義に流れてしまった。




 ある学僧は、「米を香辛料と炊くと胃の働きがよくなる」と語り、別の者は「蜂蜜菓子は気力を養う」と主張する。


 愚楽は大喜びで両手を叩いた。


「ほら見ろ! やっぱり料理は立派な学問だ! よし、今日から俺が師だ!」


「お前が師か!」と全員が再び笑い転げた。




 ユースフは頭を抱えた。


「学問を笑いものにして……!」


 だが学僧たちの中には微笑みを浮かべる者もいた。


「いや、笑いものではあるまい。食は人を支える。病の治療にも、心の慰めにも不可欠だ」


「うむ、愚かに見えて核心を突いているかもしれん」




 ユースフは悔しそうに唇を噛んだが、内心で動揺していた。


――こやつの言葉は馬鹿げている。だが、人を和ませ、学僧たちを笑わせる力がある。


 自分がどれだけ真面目に語っても、これほど人の心を掴むことはできない。




 その日の議論は、結局「羊肉にザクロの果汁をかけるべきか否か」で盛り上がり、学問とは程遠い方向へ転がっていった。


 愚楽は満足げに叫んだ。


「決まりだな! ザクロ博士の誕生だ!」


 講堂が笑いに包まれ、重苦しい知の殿堂はしばし陽気な市場のようになった。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ