知恵の館の騒動
バグダードの都には、世界の学問を集めた殿堂があった。
それは「知恵の館(バイト・アル=ヒクマ)」と呼ばれ、ギリシャの哲学書も、インドの天文学も、ペルシャの医学書も、すべてがここで翻訳され、学僧たちが日夜議論を交わしていた。
ユースフはその学僧のひとりであった。幼い頃から学問を志し、医学と天文学に心を注いでいる。
ある日、彼は愚楽を伴い、知恵の館の講堂へと足を踏み入れた。
広間の中央には長い卓が並び、学僧たちが巻物や板を前に熱心に語り合っていた。
「この病は体液の不均衡によるものだ」
「いや、天体の動きが人体に影響を与えるのだ」
真剣な声が飛び交い、時に激しく論争となる。
その隅に座らされた愚楽は、退屈そうに欠伸をしながら聞いていた。
「体液だの天体だの、そんな話より腹が減った……」
ユースフは小声でたしなめた。
「静かにしていろ。ここは学問の場だ」
「おお、学問か。……なあ、それで飯は美味くなるのか?」
唐突に口を開いた愚楽に、学僧たちの議論がぴたりと止まった。
ひとりの学僧が怪訝そうに尋ねた。
「いま、何と言った?」
「だからよ、学問ってやつは人を救うんだろ? なら“食べ物を美味くする学問”ってのはないのか?」
講堂にざわめきが広がった。
ユースフは顔を真っ赤にし、慌てて弁明した。
「お待ちを! こやつは旅の道化のようなもので、真面目に取り合う必要は……」
しかし愚楽は立ち上がり、胸を張った。
「俺は料理博士になる! 羊肉を柔らかく煮る方法とか、ナツメヤシを入れる順番とか、そういうのを極めりゃ人はもっと幸せになるんだ!」
学僧たちは一瞬呆然とし、次いで爆笑が巻き起こった。
「料理博士だと!?」「体液の均衡ではなく、羊肉の煮込みか!」
「だが、確かに病人には消化の良い食が必要だ……」
「おい、学問として成立するのでは?」
真面目な議論が、愚楽の一言で一転、料理談義に流れてしまった。
ある学僧は、「米を香辛料と炊くと胃の働きがよくなる」と語り、別の者は「蜂蜜菓子は気力を養う」と主張する。
愚楽は大喜びで両手を叩いた。
「ほら見ろ! やっぱり料理は立派な学問だ! よし、今日から俺が師だ!」
「お前が師か!」と全員が再び笑い転げた。
ユースフは頭を抱えた。
「学問を笑いものにして……!」
だが学僧たちの中には微笑みを浮かべる者もいた。
「いや、笑いものではあるまい。食は人を支える。病の治療にも、心の慰めにも不可欠だ」
「うむ、愚かに見えて核心を突いているかもしれん」
ユースフは悔しそうに唇を噛んだが、内心で動揺していた。
――こやつの言葉は馬鹿げている。だが、人を和ませ、学僧たちを笑わせる力がある。
自分がどれだけ真面目に語っても、これほど人の心を掴むことはできない。
その日の議論は、結局「羊肉にザクロの果汁をかけるべきか否か」で盛り上がり、学問とは程遠い方向へ転がっていった。
愚楽は満足げに叫んだ。
「決まりだな! ザクロ博士の誕生だ!」
講堂が笑いに包まれ、重苦しい知の殿堂はしばし陽気な市場のようになった。




