バグダード到来 ― 料理学問の誕生
玄奘と別れた後、愚楽はひとり再び放浪を続けた。インドの豊かな地を去り、長い年月を漂いながら、西へ西へと歩を進めた。
大河を渡り、砂漠を越え、幾度も隊商に紛れ込んでは飢えをしのいだ。時には芸を真似て笑いを取って飯を得、時には異国の言葉を耳で覚えて口にし、人々を驚かせた。
馬鹿げているようで、どの時代も愚楽を受け入れる余地はあった。笑いと食欲が、どんな国境をも越えて彼を生かし続けてきたのだ。
やがて彼が辿り着いたのは、アッバース朝の都――バグダードであった。
時は八世紀も末から九世紀にかけて、ここは「世界の知」が集まる都市として栄えていた。
天文学、医学、数学、哲学。知恵の館(バイト・アル=ヒクマ)には東西の書物が翻訳され、学僧たちが日夜論を交わしていた。
だが、愚楽にとってそんな学問よりも心を奪ったのは――市場の匂いだった。
広場には香辛料の山が築かれ、赤や黄色の粉が陽光を浴びて宝石のように輝いている。羊肉の串焼きが煙を上げ、蜂蜜をかけた胡桃菓子が皿に山盛り。ナツメヤシとザクロは山のように積まれ、人々の声と笑いが渦を巻いていた。
「うわぁぁぁ! ここは天国かぁ!」
愚楽は腹を押さえ、涎を垂らしながら人混みに飛び込んだ。
屋台の羊肉を見ては「一口だけ!」と手を伸ばし、ザクロを前に「これ全部俺の腹に!」と叫ぶ。商人に怒鳴られて逃げ出す姿に、子どもたちが笑い転げた。
そんな騒ぎを見て、ひとりの若者が愚楽の腕を掴んだ。
「こら! 無礼だぞ!」
黒髪を整え、簡素だが清潔な衣をまとった青年。手には書板を抱えている。
「お前のような男が市場を乱せば、商人も客も困るではないか」
愚楽はにやにやしながら青年を見た。
「誰だ兄ちゃん。まさか商人の見張りか?」
「私は学僧だ。名はユースフ。学問を志してここに来た」
「学問? おいおい、それで飯は美味くなるのか?」
ユースフは唖然とした。
「……学問は人を救うものだ。病を癒し、天の理を知り、人の心を導く」
愚楽は真剣な顔で頷いた。
「なるほど! じゃあ“食べ物を美味くする学問”はあるのか?」
「それは……ただの料理だ!」
周囲で聞いていた商人たちがどっと笑った。
愚楽は腕を組み、うんうんと考え込む。
「よし決めた! 俺は料理学問を極める! 肉を焼く角度とか、ナツメヤシを入れる順番とか、そういうの全部学んで博士になるんだ!」
ユースフは額を押さえた。
「馬鹿を言うな。それは学問ではなく技だ」
「違う違う! 腹を満たして人を笑顔にするんだから、立派な学問だろ!」
愚楽が勝手に宣言すると、屋台の親父が面白がって肉を一本渡した。
「ほらよ、“博士”! まずは味見してから研究するんだな!」
「おおっ! ありがとよ!」
愚楽は夢中でかぶりつき、肉汁を滴らせながら叫んだ。
「これだ! これが人を救う学問だぁ!」
見物人は爆笑し、子どもたちは「料理博士!」と口々に囃した。
ユースフは溜息をつきつつも、どこか目を離せなかった。
――馬鹿は馬鹿だ。しかし、人を笑わせ、重苦しい空気を吹き飛ばす力がある。
彼の遠い祖先が旅芸人だったという話を、ふと家で聞いたことを思い出す。小蓮――その名を。
市場の喧騒の中で、愚楽は腹を抱えて笑っていた。
「さあ次は何だ? 詰め物の鳩か? 黄金色の米か? よし、料理学問の研究を始めるぞ!」
こうして、バグダードの都で「料理博士」を名乗り始めた愚楽と、真面目な学僧ユースフとの奇妙な縁が始まったのである。




