別れの時
ナランダ僧院に滞在してから幾月。玄奘は毎日、朝から晩まで経を読み、師と論じ、梵語を磨き、仏教の深奥へと分け入っていた。
僧院の門前には各国から学びを求める人々が集まり、玄奘の名は次第に広がっていた。
その横で、愚楽は相変わらずだった。市場へ出ては豆の煮込みを丼で平らげ、子どもたちに変な歌を教え、僧の真面目な読経に合いの手を入れては笑いを取った。
「ナーマナーマ……ゴハンゴハン!」
僧たちは呆れ、やがて吹き出し、堅苦しい空気が和らいでいった。
だが愚楽は気づいていた。玄奘が日々、ここに根を下ろしつつあることを。彼の背は僧院の書架に向けられ、眼差しは遥か遠い真理に注がれていた。
ある夕刻、愚楽は玄奘を焚き火の前に呼び出した。
「なあ玄奘。お前、ここに残るんだろ?」
「……分かるか」
「馬鹿でも分かるさ。お前の目は、旅の先じゃなくて経の中を見てる」
玄奘はしばし沈黙し、やがて頷いた。
「私はここで学び、故国に経を持ち帰りたい。そのためには年月を費やす覚悟が要る」
「そうか。じゃあ、俺はもう旅に出るぜ」
愚楽はさらりと言ったが、玄奘の心には一抹の寂しさが広がった。
「愚楽……そなたは不老不死であると告げたな。ならば、私の死後も旅を続けるだろう。孤独ではないか」
「孤独? そりゃあ時々は寂しいさ。でも、どこ行っても誰かが飯をくれて、笑ってくれる。それで十分だ」
玄奘は静かに合掌した。
「愚楽よ。覚えておけ。不老不死であっても、人は“縁”によって人と結ぶ。小蓮とも、私とも、そなたは縁で結ばれてきた。その縁を忘れるな」
愚楽はぽかんとした顔をし、それから大笑いした。
「縁ってやつは、飯の匂いみたいなもんだな! 腹が減ってる奴らを集めちまう!」
玄奘も思わず口元をほころばせた。
「……それもまた一つの真理かもしれぬな」
翌朝。僧院の門前で、玄奘と愚楽は別れを告げた。
僧や弟子たちが見守る中、玄奘は深く頭を下げた。
「そなたとの旅は忘れぬ。笑いに救われた日々だった」
「こっちこそ。お前と一緒じゃなきゃ、砂漠で死んでたかもな。いや? 俺は死なないのか」
愚楽は荷を背負い、門の外に歩き出した。途中で振り返り、大声で叫ぶ。
「おーい玄奘! 真理ってのを見つけたら、飯と一緒に持ってこいよ!」
僧たちがどっと笑い、玄奘も目を細めて手を振った。
太陽が昇り、道は再び果てしなく続いていた。
愚楽は口笛を吹きながら歩き出す。背後に残した僧院の鐘の音は遠ざかり、胸には玄奘の言葉が残っていた。
――不老不死であっても、縁によって人と結ぶ。その縁を忘れるな。
愚楽は空を仰ぎ、大声で笑った。
「よし! 縁だろうが飯だろうが、全部まとめて笑い飛ばしてやる!」
笑い声はインドの大地に響き渡り、新たな旅路の始まりを告げていた。
玄奘 シルクロード・インド編完結です。




