ナランダ僧院
インド東部、マガダ国にそびえる巨大な僧院――ナランダ。
塔のような伽藍が林立し、数千人の僧が日夜研鑽を積んでいた。ここは学問の都であり、仏教思想の中心であった。
玄奘はついに目的の地へ辿り着いた。広大な講堂に通されると、既に数百人の僧が経を唱えていた。経典は梵語に訳され、論争は激しく交わされる。
彼は深く合掌し、目を輝かせて席に加わった。
一方、愚楽は――。
「おーい、腹減ったぞ! 飯はまだか!」
堂内に響き渡る声に僧たちが一斉に振り返った。玄奘は青ざめ、頭を抱えた。
愚楽は僧の隣に座ると、経を真似して唱え始めた。
「ナーマナーマ……ラーメンラーメン……」
周囲の僧が思わず噴き出し、講堂がざわめいた。厳粛な空気は一瞬で崩れ去り、若い僧たちは肩を震わせた。
「こ、これは……新しい真言か?」
「いや違う、ただの愚か者だ!」
玄奘は慌てて彼を外へ連れ出した。
「愚楽! ここは世界の学僧が集う場だぞ! ふざけるな!」
「ふざけちゃいねえよ。経って、全部わかんなくても“唱えてりゃ楽しい”んだろ?」
「楽しいだけでは真理に至れぬ!」
「じゃあ師よ、真理に至ったら腹は膨れて楽しいのか?」
玄奘は言葉を詰まらせた。
僧院での日々、玄奘は梵語の文法を学び、論理を積み上げ、真理を追った。
愚楽はと言えば、僧の子弟たちと市場に出ては豆の煮込みを食い、歌を覚え、夜には踊りながらふざけた。だが彼の真似ごとや歌声は僧たちを笑わせ、厳しい学問の場に不思議な和みをもたらしていた。
ある夜。玄奘は蝋燭の灯の下、梵語の経典を広げていた。愚楽は横で果物を齧りながら空を見ていた。
「なあ玄奘。そんなに永遠の真理って大事か?」
「無論だ。無常の世を越えて、人を真に救う道だからな」
「でもよ、人は死ぬ。笑って飯食って、そんで死ぬ。それでいいんじゃねえの?」
「……そなたは有限を笑いで生きると言うのだな」
「そうだ。俺は馬鹿だから難しいことは分からねえ。でも、人が笑ってりゃ、それが一番だ」
玄奘は蝋燭の火を見つめ、静かに口を開いた。
「愚楽よ。そなたの笑いは無知ではない。無知であれば人を惑わすだけだ。しかし、そなたは人を慰め、争いを退け、心を和ませる。……それは慈悲に似ている」
愚楽は目を丸くし、そして大声で笑った。
「へへっ、俺が慈悲? 馬鹿言うなよ! 俺はただ腹減ってるだけだ!」
「いや。愚かさの中にこそ慈悲が宿るのかもしれぬ。私が経を積み重ねるように、そなたは笑いを積み重ねているのだ」
愚楽はしばらく考え込むように果物を齧り、やがて肩をすくめた。
「まあ難しいことは分からねえけど……師よ、お前が勉強して難しい顔してても、俺は笑わせてやるよ」
玄奘はその言葉に微笑み、経を閉じた。
――永遠の真理を求める学問と、有限の笑いを生きる愚かさ。
二つは相反しているようで、どこかで重なり合っていた。




