インド到来
幾多の山岳と荒野を越え、ついに彼らはインドの地へ辿り着いた。
大河は豊かに流れ、田畑には青々と稲が育ち、村々からは太鼓や笛の音が響いていた。乾いた砂漠を歩き続けてきた目には、その緑が夢のように映った。
玄奘は合掌し、声を震わせた。
「ここが……仏陀の故地か……」
一行の僧や商人も、胸を熱くして大地に膝をついた。
愚楽はというと、大河のほとりで魚を追い回し、村の子どもたちに笑われていた。
「おーい! そっちだ! うわっ逃げた!」
泥だらけになって魚を掴もうとする愚楽の姿に、子どもたちは腹を抱えて笑い、大人たちも心を和ませた。
夕刻、村で彼らをもてなす宴が開かれた。
大きな鍋には、豆をじっくり煮込んだ濃いスープ。そこに香辛料が加えられ、鼻をくすぐる香りが漂う。米の飯には干し果物が混ぜ込まれ、甘酸っぱく彩り鮮やか。平たい焼き餅は香ばしく、指でちぎれば湯気が立ち上った。
「うわあ! こりゃ幻じゃなくて本物だ!」
愚楽は大皿を前に両手を広げ、歓声を上げた。
彼は焼き餅で豆の煮込みをすくい、口いっぱいに頬張った。香辛料の刺激に目を丸くしながらも、笑顔を見せる。
「辛ぇ! でもうめぇ! 腹が踊ってる!」
村人たちは爆笑し、彼に次々と料理を勧めた。果物の山を前に愚楽が「こんなに食えねぇ!」と叫ぶと、子どもたちが合唱のように笑い声を上げた。
夜。焚き火の前で玄奘は経を読み、愚楽は腹をさすりながら寝転んでいた。
「なあ、玄奘」
「どうした、愚楽」
「俺、実はな……歳を取らねえんだ」
玄奘は顔を上げ、火に照らされた愚楽を凝視した。
「どういう意味だ」
「始皇帝さまの時代に、宴で変な薬を飲んじまってよ。そっから全然、老けねえんだ」
「……虚言ではなかろうな」
「馬鹿が嘘ついてどうする? 小蓮って娘だって知ってたさ。俺だけ変わらないことを」
玄奘はしばし沈黙した。焚き火が燃え、豆の煮込みの残り香が漂う。
やがて彼は静かに言った。
「仏法では、この世は無常、生老病死を免れぬと説く。死なぬことは苦からの解放ではない。むしろ“老いて死ぬことができない苦しみ”もあるのだ」
愚楽は頭を掻いた。
「難しいこと言うなぁ。俺は腹いっぱい食えば幸せだ。それでいいじゃねえか」
「だが、そなたは幾たび人の死を見たのだろう。愛する者も、仲間も。笑いだけで耐えられるのか」
「……耐えられねえよ」
愚楽の笑顔が一瞬崩れた。
「だから俺は、笑ってごまかすんだ。泣いたって死なねえ。だったら食って笑って誤魔化すしかねえだろ」
玄奘はその言葉を真剣に聞き、瞳を閉じた。
「……愚楽よ。そなたの愚かさは愚かさにあらず。あるいは、それもまた一つの智慧なのかもしれぬ」
「へへっ、俺が賢い? 馬鹿言うな」
「いや、馬鹿だからこそ見える真理がある。私は経を求め続ける。だが、そなたは笑いで真理を映す。二つの道は違えど、どちらも人を救う力を持つのだろう」
愚楽は欠伸をして横になった。
「ならさ、玄奘。真理ってやつを見つけたら教えてくれよ」
「うむ。だがその時、そなたはきっと笑うだろうな」
「ははっ、そりゃ間違いねえ」
焚き火の火の粉が夜空へ舞い上がり、ガンジスの大地を照らしていた。




