市場の乱入
秦が滅び、劉邦が天下を握って漢を興した。戦乱はやがて静まり、幾代もの月日が流れ、世は後漢の初めを迎えていた。
洛陽をはじめとする都市では再び市場が栄え、粟や米が並び、羊や豚が屠られ、香辛料や果物の香りが通りに満ちていた。人々はようやく「食べること」「笑うこと」を取り戻しつつあった。
だが、その雑踏の中に、いつまでも年を取らぬ男がひとり歩いていた。
奇妙な従者として始皇帝の傍に仕え、最期を看取った愚楽である。
帝が沙丘で崩御したあの日、愚楽は兵士の列からこっそり抜け出した。天下の覇者の死を知るただ一人の“馬鹿”として、どこへ行くともなく歩き出したのだ。
働けば飯にありつけると知り、井戸端で水汲みをすれば粟粥をもらい、道端で聞いた物語をそのまま真似すれば、子どもたちが笑って果物をくれる。
文字は読めないままだったが、耳で聞いたことは一度で覚え、声色まで真似できた。
「賢い奴は皺を刻むが、馬鹿な俺は年を取らない」
そう呟いて笑い飛ばしながら、愚楽は人の世を渡り歩いてきた。
そして今、彼は再び腹をすかせていた。
「うぅ……いい匂いだなぁ……」
その日も地方の町に大市が立ち、通りは賑わっていた。羊肉を串に刺して炭火で焼く匂い、蜂蜜を絡めた団子の甘い香り、干し果物を煮詰めた酸っぱい匂い。
愚楽の腹は鳴り止まず、彼は人混みを押し分けて屋台を覗き込んだ。
「おっちゃん、その団子ひとつ――」
指先を伸ばしかけたところで、屋台の親父に気づかれ、箒で追い払われる。
「こら! 銭を払えぬなら手を出すな!」
「ひぃぃ、ごめんなさい! 腹が勝手に!」
逃げ回った愚楽が転がり込んだ先は、広場の中央に設けられた木舞台だった。
そこでは旅芸人の一座が興行をしており、太鼓の音が響き渡っていた。
「さあ皆の衆! これより英雄譚の始まり始まり!」
舞台の中央で、語り部が声を張り上げる。観客が輪になり、子どもたちが最前列で目を輝かせている。
語り部が物語の山場を迎えたときだった。
「――英雄は天を仰ぎ叫んだ! 『天を裂け! 地を揺らせ!』」
観客が「おおー!」とどよめく。
その声を聞いた愚楽は、舞台の端で思わず同じ調子を真似した。
「『腹を裂け! 肉を焼け!』」
一瞬の沈黙。
次の瞬間、爆笑が巻き起こった。
「な、何を言うか!」
語り部が振り返るが、観客は笑い転げ、子どもたちは一斉に真似をして叫んだ。
「腹を裂け! 肉を焼けー!」
愚楽はぺこぺこと頭を下げる。
「す、すみません! でも耳で聞いたら勝手に口から出ちゃうんですよ!」
観客の笑いはさらに大きくなり、舞台は思わぬ盛り上がりを見せた。
そのとき、舞台の袖から小さな影が現れた。
まだ幼い小さな蓮の花のような少女、だが瞳は澄み、手に持った小太鼓を堂々と叩いていた。
「兄ちゃん、調子に乗ってるね! じゃあ、わたしが相手してあげる!」
少女はすぐに語り部の続きをもじって叫んだ。
「英雄は叫んだ! 『腹が減ったら、粟の団子だ!』」
愚楽も負けじと叫ぶ。
「『肉の串焼きだ! 香ばしいぞ!』」
即興の掛け合いに観客は腹を抱え、笑い声が市場全体に響き渡った。
芸人たちも呆れつつ、客の反応に押されて二人を舞台に上げるしかなかった。
その日、孤児の少女「小蓮」と不老不死の馬鹿・愚楽は、初めて舞台を共にし、爆笑をさらったのである。




