旅立ちの笑い
沙丘の地にて、天下を統べた始皇帝はついに息を引き取った。
その瞬間、愚楽の笑い声と涙が入り混じり、夜風に散った。
だが、歴史は容赦なく動く。
翌朝、重臣たちは顔を青ざめさせて御車を囲み、声を潜め合った。
「陛下が崩御なされたことは、今は絶対に漏らしてはならぬ」
「報が広がれば、諸郡が騒ぎ、兵が乱れる」
宦官の趙高が冷たい目で命じた。
「腐敗の臭いを消すため、車に塩魚を満載せよ。表向きは陛下が健在であると装うのだ」
兵たちは驚き、民は不審の目を向けたが、誰も逆らえなかった。行列はなお「始皇帝あり」として進み続けた。
その中で、愚楽はただ一人、御車の中で見た“本当の最後”を胸に抱いていた。
――永遠とは、笑いにある。
その言葉だけが、愚楽の心を温めていた。
だが同時に、愚楽は奇妙な孤独を覚えた。
帝が逝った今、自分はただの馬鹿に戻るのか。
それとも……永遠に歩み続けるのか。
行列がある町を通過したとき、民が噂していた。
「最近は、あの従者の愚楽が人を笑わせていると聞く」
「始皇帝の傍らにいたという、あの馬鹿か?」
「馬鹿でもいい。笑いが欲しいのだ」
愚楽は足を止めた。
「……俺は、笑わせることしかできねぇ。でも、それでいいのかもな」
夜、行列が休んだ隙に、愚楽はそっと抜け出した。誰も気づかない。
彼は背を丸め、荷車の影をすり抜け、やがて砂丘の闇に姿を消した。
「陛下……俺は次の場所でも笑って生きますよ。笑って、飯食って、また笑います。だから見ててくださいね」
そう呟くと、愚楽は涙をぬぐい、空を仰いで大声で笑った。
「ははははっ! 陛下、聞こえますか! 俺はまだ馬鹿のままですよ!」
笑い声は沙丘にこだまし、夜空へ吸い込まれていった。
こうして、愚楽と始皇帝の物語は幕を閉じた。
だが愚楽の旅はまだ始まったばかりだった。
不老不死の馬鹿は、次なる時代へと足を踏み出してゆく――。
始皇帝編完結です。




