崩れゆく身と消えぬ笑い
東巡の列はさらに東へと進んでいた。海辺で蓬莱を祀ったのちも、始皇帝は諦めることなく各地を巡り、祭祀を繰り返した。だが、その威容の影で、帝の体は徐々に蝕まれていた。
夜半、御車の中で咳き込み、杯を置いて額を押さえる。
「……胸が重い。息が詰まる……」
医師たちが呼ばれ、薬草を煎じ、脈を取ったが、顔色は暗く、言葉を濁すばかりだった。
その脇で、愚楽がぼんやりと様子を眺めていた。
「陛下、そんなに苦しいなら……笑ってみたらどうです? 笑うと胸がすっとしますよ!」
帝は眉をひそめた。
「余は病を患っておるのだぞ」
「ええ、だからこそ! 俺も腹が痛いときは、笑うと逆にもっと痛くなって、気が紛れるんです!」
兵士や廷臣たちは青ざめ、誰もが「こやつ、命がけの無礼を……」と固唾を飲んだ。
だが始皇帝はふっと息を漏らし、わずかに笑みを浮かべた。
「……余は天下を統べても、病には勝てぬ。だが愚楽の言うことは一理あるかもしれぬな」
その後も帝の体調は日ごとに悪化していった。巡幸の行列を止めることなく進めさせたが、車内で休む時間が増え、愚楽はしばしば傍らで雑談を続けた。
「なあ陛下、俺ってほんと不思議でしてね。あれからずーっと変わってない気がするんですよ。髪の毛も白くならないし、歯も抜けないし」
帝の目がぎょろりと動いた。
「……そなた、自覚があるのか?」
「え? いや、ただ“馬鹿は老けない”って話を前にもしましたよね」
「……」
始皇帝はふと、十余年前の記憶を思い返した。
あの日、宴で仙薬を菓子と勘違いし、愚楽が口にしてしまったこと。
方士たちは「あれは失敗作にすぎぬ」と言い張り、誰も気に留めなかった。だが――。
「もしや……」
帝は胸の奥でつぶやいた。
「もしや、あの一口が……」
愚楽はきょとんとした顔で、魚の真似をしてぱくぱくと口を動かしていた。
「仙薬って美味しかったですよ。あれ、甘かった気がします。もう一回食べたいなぁ。あれ? 苦かった気もする」
「……愚楽」
「はい?」
「そなたは、余が求め続けてきた答えをすでに手にしておるのかもしれぬ」
帝の声にはかすかな嫉妬と畏れが混じっていた。
だが愚楽は呑気に頭を掻き、にやりと笑った。
「でも俺、全然ありがたみ感じないですよ。腹が減るし、眠いし。もしこれが不老不死ってやつなら……退屈ですよね」
廷臣たちは思わず顔を見合わせた。帝の前で「不老不死は退屈」と言い放つなど前代未聞だった。
だが始皇帝は深くため息をついたのち、やがて肩を震わせて笑った。
「ふはははは! 退屈か! 余は天下を得ても満たされぬのに、そなたは笑って退屈を語るか!」
その笑いは力強さに欠けていたが、確かに人間味を帯びていた。
こうして帝の病は深まる一方だったが、愚楽の存在だけは、彼にわずかな安らぎを与えていた。
そして始皇帝の胸には、ますます強い疑念が残った。
――あの日の仙薬。愚楽の不変の姿。
「もしや、余が求める永遠は、あの馬鹿の体に宿っているのではないか……」
しかし、愚楽はあくまで馬鹿のまま。
その夜も彼は大鼾をかき、夢の中で「肉のおかわりー!」と叫んでいた。
帝はその声を聞きながら、苦しい胸を押さえつつも小さく笑った。




