後悔
アキラは沙耶の覚悟を受け取って、何も言わず病室を後にした。
帰り際、ガラス越しに見えた我が子は、赤い髪と涙ボクロという、二人の面影をそのまま宿していた。
その姿を見た瞬間、アキラの胸に堪えていたものが崩れ、彼は静かに涙を落とした。
「離婚……することになった」
この世の終わりのような顔で告げられたのは、今まで続いてきた生活の、あまりにも突然すぎる終焉だった。
「オマエら……どうする?全員またバラバラになるか?」
少し自棄になっているようにも見える人類神に、黒猫は沈んだ目で答える。
「アタシらは沙耶に付いていくわ……」
その表情には、後ろめたさと後悔が深く影を落としていた。
「アル……ゴメンなさい……」
口にした言葉にはいくつもの意味が重なっていた。
「ニクス、オマエのせいじゃないさ……俺が間違えたんだよ」
人類神が人として生きようとしたこと。
もし、そうしたかったのなら、最初からそれだけを目指していれば良かった。
いくつもの目的を同時に追ったから、こんな結果になったのだ。
「俺は沙耶さんを、取り返しの付かないほど傷つけてしまった」
もう、共に生きることは叶わないほど。
「だからせめて、約束したことだけは守ろうと思うんだ」
太陽を創る。
居場所のない子供を救う。
そのふたつだけは何としても成し遂げよう。
それだけが彼女に対して出来る感謝だろうから。
「それで、ここに残るのは誰だ?」
九星の使徒を見渡し、静かに問う。
「チトはずっと一緒」
ネズミがアキラの身体を上り、肩にちょこんと留まった。
「ありがとう……チト」
お互いが愛情を示すように頬を擦り合わせる。
「我も、主の元にいさせて頂きたく存じます!」
シマエナガが深く頭を下げ、羽を震わせながら願い出た。
「アスト……オマエはアユムに付き従ってくれないか?」
だが、返されたのは我が子に尽くせという新たな指令だった。
「アユムは、俺の魂や力を強く注ぎ込んだから、きっと苦労するはずだ」
テラと過ごせるように、自身の魂を削ってまで力を注いだ。
「俺がそばにいられれば問題ないと思っていたが、それも叶わなくなった」
大きすぎる力は災いを呼ぶ。
「だから頼む……アユムを守ってやってくれないか?」
想定外の事態を迎え、息子を守護してくれと願った。
「……我が主よ、与えて下さった御命令、魂魄に代えましても必ずや成し遂げてみせましょうぞ!」
シマエナガは胸を張り、羽を広げて大仰に受け止める。
相変わらず芝居がかってはいたが、本人は至って真面目なつもりなのだろう。
「頼んだぞ……」
我が子なのに自分が見守れないもどかしさ。
アキラはそれを悔しく思い、歯を食いしばっていた。
何がいけなかったのか?
何を間違えたのか?
いまだにそれが、わからずにいた。
きっと彼女に恋をしなければ、今も変わらず幸せに暮らせていた。
この愛しくも忌まわしい感情が全てを壊した。
「……俺は、何を守りたかったんだろうな」
呟いた声は、大切な人に届かないまま空気へ溶ける。
愛した。
守りたかった。
幸せにしたかった。
その全部が、結果として沙耶を追い詰めたのだろう。
アキラは拳を握りしめ、爪が掌に食い込むほど力を込める。
「こんな時、普通の人間はどうすればいいかを知ってるか?」
星導者は普通を知らない。
彼らは揃って特別だから。
「まあ……酒じゃろうな」
その中でも、博識な亀が答えを告げる。
「そうか、酒を飲むのか」
過去の記憶を遡れば、祝い事の折に宴会を開くこともあった。
特にテラを倒した時などは盛大に。
だが、辛さを誤魔化すため酒に頼るなど、人類神にとって初めての経験だった。
「……それもいいかもな」
どうしようも出来ない悩みなどなかった。
常に使命が精神を支えていた。
どんな困難にも打ち勝ってきた。
そんな彼が酒に逃げる。
百万年で初めての行為。
「オマエらも付き合ってくれよ」
アキラは影から酒瓶をいくつか取り出すと、蓋を開けてそのまま勢いよくあおった。
「しかたないわねぇ、アタクシが付き合ってあげるわぁ」
アストレアがコップを取り出し、空中から氷を造り出す。
「酔いの果てまでお付き合い致しましょうぞ!」
アストラヴィアが鳥の姿から人になり、アキラのためのお酒を作り始める。
「テラ様がいるから一杯だけよ……」
いまだ自分を責め続けているニクスも、仕方なくそれに寄り添った。
「チトも飲む」
ネズミは、キャップに酒を注ぐようにアストラヴィアへ促し、それをチビチビ飲み始めた。
「ならば儂も付き合うかのう」
亀は小皿にお酒を入れてもらい、ゆっくりとそれを舐め始めた。
「俺様にも飲ませろ!」
豆柴はボウルにお酒を注がせて、それをガブガブ飲み始める。
「水槽ニ入レテクレ」
メンダコが、直接水槽に注げと注文した。
「テラは……ミルクか」
アキラは、ニクスの腕の中でこちらをジッと見ているテラにミルクを出す。
「皆が揃うのも、おそらくこれが最後になると思う」
コップを片手にアキラが告げる。
「短い間だったが、不思議と楽しく過ごせた」
百万年に及ぶ長い人生の中のたった二年間。
「それも、すべては彼女のおかげだろう」
奇跡のように穏やかな日々。
「だから、この杯は沙耶さんに捧げようと思う……」
コップを持つ手を上げ、感謝を示した。
他の使徒達も次々と沙耶の名を上げ乾杯の意を表す。
「今日は潰れるまで飲むぞ」
アキラは、悲しみを酒で洗い流すように鯨飲する。
もう、それを癒してくれる人はいないというのに。
酒瓶がいくつ空になったのか、もう誰にもわからなかった。
アキラはテーブルに肘をつき、ぼんやりと揺れる視界の中で自分の手を見つめていた。
この手で守るはずだった。
この手で幸せにするはずだった。
だが今は、ただ酒の匂いと後悔だけが残っている。
「……沙耶さんの笑顔、もう見られないんだな」
呟きは、誰に向けたものでもなかった。
ただ、胸の奥に溜まった痛みが漏れただけだった。
ニクスがそっと水の入ったコップを差し出す。
「アル……もうやめときなさいよ、アンタらしくないわ」
「らしくない、か……」
アキラは苦笑し、コップを受け取ると水を一気に飲み干した。
「俺は……“らしさ”なんて、とっくに失ってたんだよ」
その言葉に誰も返せなかった。
ニクスはテラを抱いたまま、アキラの横顔を見つめていた。
その瞳には、深い後悔と、言葉にできない罪悪感が滲んでいる。
「アル……アンタが悪いわけじゃ……ないのよ……」
震えた声が、本当に悪いのは自分だと訴える。
だがアキラは首を横に振った。
「いや……俺が悪いんだよ、俺が……沙耶さんとの関係を壊した」
その瞬間、テラが小さく泣き声を上げた。
まるで、家族の痛みを感じ取ったかのように。
「……悪かったな、テラ」
アキラは手を伸ばしかけて、しかし途中で止めた。
命を懸けてまで家族を求めた彼女に、触れてはいけないと思った。
アストラヴィアが静かに言う。
「主よ……今宵は、泣いてもよいのですぞ、泣くことは決して、弱さではございませぬ」
「泣く……か」
アキラは天井を見上げた。
涙は出ない。
泣く理由などなかったから。
だが、胸の奥が焼けるように痛い。
「……俺にはその資格がない」
その言葉に、部屋の空気が静かに沈んだ。
やがて、酒の匂いが満ちた部屋で、アキラはゆっくりと目を閉じた。
眠ったわけではない。
ただ、心が限界を迎えたのだ。
その姿は、かつて人々を救った人類神ではなく、ただひとりの男としての完全なる敗北だった。
その夜、誰も気づかなかった。
アキラの中で、何かが静かに崩れ落ちていく音を。
そして同時に、彼の中で決意だけが鋭く残っていくことを。
太陽を創る。
居場所のない子供を救う。
それはもう、誰のためでもない。
自分が壊れないための、最後の支えだった——。




