第5話 降格という名の脅し
翌朝、スターリット・プロダクションの七階は、いつもより静かだった。
静かすぎる廊下というものは、かえって落ち着かない。誰かが声を潜めてこちらを見ている。そういう空気は、足音よりもはっきり伝わる。
私は自席にバッグを置き、パソコンを立ち上げた。
昨夜のうちに、LumiRiseの四人には個別で体調確認を済ませている。
花音は睡眠六時間。少し肩こりあり。
澪は睡眠五時間半。喉の違和感なし。
奈々は睡眠七時間。朝食済み。
優芽は睡眠六時間。右足首の痛みは十段階で二。ただし階段では違和感あり。
今日の予定は、昨日の中止を受けて一部変更になっていた。
午前、レッスンではなく座学形式の歌詞解釈ミーティング。
午後、雑誌コメント取材一本。
夕方、ファンクラブ用写真撮影。
夜の稼働はなし。
そうなっている。
表向きは。
私は信用していなかった。
会社の共有カレンダー上で予定が消えていても、直前に「挨拶だけ」「コメントだけ」「顔を出すだけ」が差し込まれるのが、この二日でわかっている。
だから、四人には朝の時点で伝えておいた。
予定にない稼働依頼が来た場合、その場で返事をしないでください。
必ず私に確認してください。
優芽からはすぐに返事が来た。
了解です! 勝手に踊りません!
奈々からは、
はい。確認します。
花音からは、
メンバーにも共有しました。
澪からは少し遅れて、
また何か来そうですね。
私は、
来る前提で動きます。
と返した。
澪からの返信はなかったが、既読はすぐについた。
九時半、社内メールが届いた。
差出人は総務部。
件名:辞令通知
佐伯美月殿
本日付で、マネジメント第一部主任職を解き、マネジメント補佐へ配置転換する。
なお、LumiRise担当については当面継続とするが、全判断は神田部長および須藤営業担当の承認を必要とする。
私は画面を見つめた。
主任職を解く。
マネジメント補佐。
つまり、降格だった。
正式な役職を下げ、決裁権を奪う。
担当は外さない。
だが、判断権は取り上げる。
よくあるやり方だ。
盾だけ持たせて、剣を奪う。
責任だけ残し、権限を消す。
私はメールを保存し、印刷した。
ファイル名は、辞令通知_降格。
その直後、神田部長から内線が入った。
「佐伯、会議室へ来い」
「承知しました」
声は平坦に保った。
電話を切ると、隣の席の若手マネージャー、宮内がこちらを見た。二十四歳。入社二年目で、まだ現場の理不尽に慣れきっていない顔をしている。
「佐伯さん……大丈夫ですか」
「何がですか」
「いや、その……」
彼女は言いにくそうに周囲を見た。
誰もが聞いていないふりをしている。
だが、聞いている。
こういうとき、芸能事務所のオフィスは舞台裏よりずっと芝居が多い。
「辞令、もう回ってます」
「そうですか」
「補佐って……」
「役職名が変わっただけです」
「でも、ひどいです。昨日の件だって、医師の診断があったんですよね?」
宮内の声は小さいが、怒りが滲んでいた。
私は椅子から立ち上がった。
「宮内さん」
「はい」
「今の言葉、ありがとう。でも、社内で不用意に私を庇わないでください」
「え」
「あなたまで標的になります」
宮内は唇を噛んだ。
「それでも、おかしいと思います」
「思うことはやめないでください。ただ、言う場所は選んで」
私はそう言って、会議室へ向かった。
第一会議室には、神田部長、須藤、総務部長がいた。
黒崎常務はいない。
常務が直接出てこないということは、今回は神田に処理させるつもりなのだろう。
「座れ」
神田が顎で椅子を示した。
私は静かに腰を下ろす。
総務部長は気まずそうに書類を揃えていた。こういう人間は、悪事の中心にはいない。だが、中心にいる人間のために制度の形を整える。
ある意味で、一番厄介だ。
「辞令は見たな」
「はい」
「昨日の件を重く見た」
神田は腕を組んだ。
「お前は担当マネージャーとしての判断を逸脱した。現場で勝手に稼働を中止し、関係各所に迷惑をかけた。会社として、今後同様の独断を許すわけにはいかない」
「橘の診断書は共有済みです」
「だから何だ」
「医師の診断に基づく中止です」
「結果論だろう」
神田は即座に言った。
「診断を受ける前に、お前は止めた。つまり独断だ」
「悪化の兆候がありました」
「お前は医師じゃない」
「現場責任者として、医師につなぐ判断をしました」
「屁理屈だ」
須藤が横から口を挟んだ。
「佐伯さん、あなたのやり方だと仕事が回らないんですよ。代理店にも謝るのはこっちなんです。橘さんが少し痛いと言っただけで全部止められたら、誰もLumiRiseを使いたがらなくなる」
「少し痛い、ではありません。足首に炎症がありました」
「アイドルなんて多少痛くてもやりますよ」
その言葉に、私は須藤を見た。
「多少の基準は誰が決めますか」
「現場ですよ」
「本人ですか。マネージャーですか。営業ですか。常務ですか。代理店ですか」
須藤は面倒そうに顔をしかめた。
「そういう揚げ足取りがいらないんです」
「基準がないまま『多少』と言うほうが危険です」
神田が机を指で叩いた。
「佐伯。お前は今、処分を受ける側だ。反論できる立場じゃない」
「事実確認をしています」
「黙って聞け」
私は口を閉じた。
神田は勝ったような顔をした。
「今日からお前は補佐だ。LumiRiseの現場には同行していい。ただし、スケジュール変更、仕事の可否判断、取材対応、外部連絡はすべて俺か須藤を通せ。勝手な判断は禁止だ」
「緊急時は?」
「緊急時も連絡しろ」
「連絡がつかない場合は?」
「つくまで待て」
私は総務部長を見た。
「今の内容を、業務指示として記録してよろしいですか」
総務部長は露骨に顔を曇らせた。
神田が苛立ったように言う。
「またそれか」
「緊急時にも承認が必要で、連絡がつくまで待つという指示であれば、記録が必要です」
「常識的に考えろと言っている!」
「常識的に考えれば、緊急時は現場で安全確保が最優先です」
「屁理屈を言うな!」
神田の怒鳴り声が会議室に響いた。
私は黙っていた。
怒鳴らせておけばいい。
怒鳴る人間は、言葉の中身を失っていく。
数秒後、総務部長が取り繕うように咳払いをした。
「ええと……緊急時の安全確保については、一般的な範囲で現場対応を行うことは否定しません。ただ、通常業務の変更については承認を得る、という理解でよろしいかと」
私は頷いた。
「承知しました。そのように記録します」
神田は苦々しげに舌打ちした。
須藤は腕時計を見ながら言った。
「それと、今日の夕方のファンクラブ撮影ですが、終わり次第、追加でコメント収録を入れます」
「夜の稼働はなしになっているはずです」
「コメントだけです。十五分」
「内容と終了時刻は?」
「十九時半までには終わります」
「優芽の足首に負担のない内容ですか」
「座りでコメントです」
「三枝の学校課題時間は確保されていますか」
須藤は呆れたように笑った。
「学校、学校って。そんなに学校が大事ならアイドル辞めればいいんですよ」
その瞬間、会議室の空気が一段冷えた。
私の中で、何かが静かに沈んだ。
怒りは熱くなるものだと思われがちだが、本当に許せない言葉を聞いたとき、頭はむしろ冷える。
「須藤さん」
「何ですか」
「その発言は、未成年タレントの教育機会を軽視するものとして記録します」
「脅しですか?」
「記録です」
「好きにしてくださいよ」
彼は笑った。
自分の発言が将来どれだけ重くなるか、まだわかっていない顔だった。
私は会議室を出ると、すぐに会話内容を記録した。
降格。
判断権の制限。
緊急時承認の要求。
須藤の発言。
すべて時系列で残す。
その作業をしていると、個人用スマートフォンが震えた。
花音からだった。
佐伯さん、今日の午後、私たちだけで須藤さんから話があると言われました。
佐伯さんは同席しなくていい、と。
私はすぐに返信した。
どこで、何時ですか。
取材後、事務所の小会議室です。
内容は「今後の活動姿勢について」と言われました。
私は画面を見つめた。
私を外して、四人に直接圧をかけるつもりだ。
想定通りだった。
私も同席します。
もし同席不可と言われた場合、その場では返事をせず、私に連絡してください。
少し間があって、花音から返事が来た。
わかりました。
みんなにも伝えます。
私は息を吐き、午後の予定に備えた。
座学ミーティングは、思った以上に意味のある時間になった。
LumiRiseの新曲『夜明けのプリズム』は、明るいアップテンポの曲に見える。だが歌詞を読み込むと、誰かに決められた未来から抜け出し、自分たちの朝を選ぶというテーマがある。
澪は歌詞カードを見つめながら言った。
「この曲、今の私たちみたいですね」
「そう思いますか」
「はい。笑顔で歌う曲だと思ってたけど、たぶんそれだけじゃない」
花音が頷いた。
「夜明けって、明るくなる直前が一番暗いって言いますよね」
奈々が小さく言った。
「じゃあ、今が暗いなら、これから明るくなるってことですか」
優芽が笑った。
「奈々、急に名言っぽい」
「え、変でしたか?」
「ううん、いいと思う」
そのやり取りを見て、私は少しだけ胸が軽くなった。
昨日の優芽の怪我で、グループの空気は沈むかもしれないと思っていた。だが、彼女たちは沈む代わりに、少しずつ互いを見るようになっている。
花音が一人で背負い込むのではなく、澪が怒りを言葉にし、優芽が弱さを見せ、奈々が自分の考えを口にする。
それは小さな変化だ。
けれど、グループにとっては大きい。
「佐伯さん」
澪が歌詞カードを置いた。
「この曲、私たちの言葉で歌ってもいいですか」
「もちろんです」
「会社が求める感じと違っても?」
「ステージ上で嘘をつく必要はありません」
「それ、怒られません?」
「怒る人はいるかもしれません」
「じゃあ、また佐伯さんが怒られるんですね」
「慣れています」
優芽が笑いながら言った。
「それ、慣れちゃだめなやつですよ」
「そうですね」
私も少しだけ笑った。
午後の雑誌取材は予定通り終わった。
ファンクラブ用写真撮影も、優芽に負担がかからない座り中心の構成に変更できた。現場のカメラマンは昨日の撮影チームから話を聞いていたらしく、最初から足元に配慮したポーズを用意してくれていた。
「佐伯さん、最近評判ですよ」
撮影の合間、カメラマンが笑いながら言った。
「評判ですか」
「口うるさいけど、タレントの顔が良くなるマネージャーだって」
「褒め言葉として受け取ります」
「褒めてますよ。疲れ切った顔を修正で何とかするより、ちゃんと休ませた顔を撮るほうが楽です」
現場には、こういう人もいる。
作品を良くしたい人。
タレントを素材ではなく、表現者として見ている人。
私は名刺を交換し、今後もLumiRiseを撮ってもらえるよう連絡先を残した。
味方は一人ずつ増やす。
声の大きい敵に対抗するには、静かな味方の数が必要だった。
問題の小会議室に呼ばれたのは、十八時四十分だった。
私は四人と一緒に向かった。
扉を開けると、須藤が一人で座っていた。机の上には紙の資料が数枚。壁際にはホワイトボード。いかにも説教をするための配置だった。
須藤は私を見て、露骨に嫌な顔をした。
「佐伯さんは呼んでいませんよ」
「担当ですので同席します」
「補佐になったんですよね?」
もう知っている。
社内で回っているのだ。
「担当業務は継続です」
「これはメンバー本人たちへの話です。マネージャーがいると本音が出ない」
澪が低く言った。
「佐伯さんがいないほうが、本音言えません」
須藤の笑顔が固まった。
「澪ちゃん、そういう言い方は印象悪いよ」
「誰への印象ですか」
「大人への、かな」
「じゃあ、別にいいです」
花音が慌てて澪の袖を引いた。
だが、私は止めなかった。
須藤は深く息を吐いた。
「まあいいです。佐伯さんも聞いてください。ただし、口は挟まないでください」
「内容によります」
「本当に面倒ですね」
「よく言われます」
須藤は資料を配った。
そこには、今後三か月のLumiRise露出強化計画と書かれていた。
ざっと見ただけで、異常だった。
週六日の外仕事。
地方遠征の連続。
毎晩のSNS投稿義務。
メンバー個人の配信ノルマ。
握手会と撮影会の追加。
さらに、ページの下部に小さく書かれている。
メンバー個別話題化施策。
私はその文字に目を留めた。
「何ですか、これは」
「口を挟まないでと言いましたよね」
「確認です」
須藤は面倒くさそうに椅子にもたれた。
「今の時代、グループ全体だけじゃ伸びないんです。個人ごとに話題を作る必要がある」
「話題とは」
「たとえば、澪ちゃんはクールで毒舌。優芽ちゃんは怪我を押して頑張る努力家。花音ちゃんは苦労人リーダー。奈々ちゃんは泣き虫だけど健気。そういうキャラを立てるんです」
四人の顔が強張った。
私は資料を見た。
確かに、それぞれの名前の横にキャッチコピーのような文言が書かれている。
朝比奈澪――毒舌クール担当。時々炎上する危うさ。
西園寺花音――責任感が強すぎる苦労人リーダー。
橘優芽――怪我でも笑顔の根性ダンサー。
三枝奈々――泣き虫最年少、守りたくなる妹。
気持ちが悪かった。
本人の魅力を切り取るのではない。
弱さや痛みを、売り物として加工している。
優芽が震える声で言った。
「怪我でも笑顔って……」
須藤は軽く笑った。
「美談になるでしょ。昨日の件も、うまく使えばファンが応援してくれる。『無理しないで』ってコメントが増えると、熱量も上がるんだよ」
澪の目が一気に冷えた。
「ふざけないで」
「澪ちゃん」
「優芽の怪我を宣伝に使うってことですか」
「言い方が悪いなあ。ストーリーを作るんだよ」
花音が資料を握りしめた。
「奈々を泣き虫って書く必要ありますか」
「事実でしょ。最年少で不安そうなところが可愛いんだから」
奈々の顔から血の気が引いた。
私は資料を机に置いた。
「この施策には同意できません」
須藤が私を睨む。
「あなたの同意は求めていません」
「本人の心身に負担を与えるキャラクター固定です。特に負傷や涙を意図的に話題化するのは危険です」
「だから、あなたは古いんですよ」
須藤は笑った。
「今は全部コンテンツなんです。怪我も涙も葛藤も、見せ方次第でファンがつく。綺麗な部分だけ見せても埋もれるだけです」
「本人が望んでいない痛みを売り物にするのは、マネジメントではありません」
「理想論ですね」
真壁と同じ言葉。
須藤は、どこまで知っているのか。
私は資料の下部にある制作協力欄を見た。
そこに、小さく会社名があった。
RVEプロモーション企画室。
RVE。
レイヴンエンターテインメントの略称ではないか。
私は指でその部分を押さえた。
「この企画室はどこの会社ですか」
須藤の表情が一瞬だけ変わった。
ほんの一瞬。
だが、見逃さなかった。
「外部のプロモーション協力会社です」
「レイヴンエンターテインメントと関係がありますか」
「何を言ってるんですか」
「昨日、真壁取締役が同席していました。この資料にもRVEの名があります。関係性を確認しています」
須藤は資料を奪うように手元へ引いた。
「佐伯さん、あなた本当に立場わかってます?」
「質問に答えてください」
「答える必要はありません」
「では、未確認の外部企画として記録します」
「また記録ですか」
「はい」
須藤は苛立ちを隠さずに立ち上がった。
「いいですか、LumiRiseの皆さん」
彼は私ではなく、四人を見た。
「君たちは今、チャンスをもらっているんです。会社がお金をかけて、広告代理店も動いて、外部のプロが話題作りをしてくれる。これを嫌だとか怖いとか言うなら、正直、売れる資格はない」
奈々が肩を震わせた。
花音は唇を噛んでいる。
優芽は資料を見つめたまま動かない。
澪が一歩前に出ようとしたが、私は片手で制した。
今、澪が言い返せば、須藤は「問題児」というレッテルを貼る。
私は代わりに言った。
「売れる資格は、須藤さんが決めるものではありません」
「佐伯さん」
「彼女たちがどんな姿で活動するかは、本人たちと正式なマネジメント方針に基づいて決めることです。外部会社が作った炎上前提のキャラクターを押しつけることではありません」
「炎上前提なんて言ってない」
「資料に『時々炎上する危うさ』とあります」
私は澪の欄を指した。
須藤は言葉に詰まった。
「それは表現上の」
「未成年を含むグループに対し、炎上を施策として設計していると受け取れます」
「大げさだ」
「大げさかどうかは、第三者が判断します」
「第三者?」
須藤の目が細くなる。
「まさか、外に持ち出す気ですか」
「現時点では、社内記録です」
「脅しですよ、それ」
「記録です」
沈黙。
須藤はしばらく私を睨んでいたが、やがて資料を乱暴にまとめた。
「今日のところは終わりです。ただし、この方針は変わりません。次の会議には常務も出ますから」
「承知しました」
「それと、佐伯さん」
「はい」
「降格された意味、よく考えてください。次は担当を外されますよ」
私は頷いた。
「その発言も記録します」
須藤は舌打ちして部屋を出ていった。
小会議室に残された私たちは、しばらく誰も話さなかった。
奈々が資料の端を見つめている。
「私、泣き虫なんですか」
小さな声だった。
花音がすぐに言った。
「違うよ」
「でも、よく泣くし……」
「泣くことと、泣き虫として売られることは違う」
澪が言った。
優芽も頷いた。
「奈々は怖くてもステージ立ってるじゃん。泣き虫だけじゃないよ」
奈々の目に涙が浮かんだ。
けれど、彼女は必死に堪えた。
私は彼女の前にしゃがんだ。
「奈々さん」
「はい」
「あなたは泣いてもいいです。でも、誰かがあなたの涙を勝手に商品にすることには、怒っていいです」
「怒って……いいんですか」
「はい」
奈々は唇を震わせた。
「私、嫌です。泣き虫最年少って言われるの、嫌です」
その言葉に、花音の表情が少し変わった。
リーダーとして守らなければと思っていた彼女が、初めて奈々本人の意思を聞いた顔だった。
「うん」
花音は優しく頷いた。
「嫌って言っていいよ」
優芽が資料を机に置いた。
「私も嫌です。怪我でも笑顔とか、無理。そんなの美談にされたくない」
澪が腕を組んだ。
「私は時々炎上する危うさ、だそうです」
「澪は本当に炎上しそうだから心配」
「優芽」
「冗談だよ。でも、澪の言葉を勝手に悪者っぽく使われるのは嫌」
澪は少しだけ目を逸らした。
「……私も嫌です」
最後に、花音が静かに言った。
「苦労人リーダーって、たぶん間違ってはいないんです。でも、それを売りにされたら、私はずっと苦労していなきゃいけなくなる」
その言葉は、核心だった。
キャラクターは、ときに檻になる。
毒舌でいろ。
泣け。
無理して笑え。
苦労を背負え。
ファンが望むから。
売れるから。
そう言われ続ければ、本当の本人は少しずつ消えていく。
「皆さんの意思は確認しました」
私は言った。
「この施策には反対します」
花音が不安そうに私を見た。
「でも、佐伯さん、降格されたんですよね」
隠しても無駄だった。
私は頷いた。
「はい」
「私たちのせいですか」
「違います」
「でも」
「違います」
私は少し強く言った。
「会社が私を扱いにくいと判断したからです。あなたたちのせいではありません」
優芽が泣きそうな顔で笑った。
「佐伯さん、また怒られちゃいますね」
「慣れています」
「それ、やっぱり慣れちゃだめなやつです」
「そうですね」
澪が真剣な顔で言った。
「私たちにできること、ありますか」
私は少し考えた。
感情的に会社へ反抗しろとは言えない。
今はまだ、彼女たちは弱い立場だ。
だが、何もできないわけではない。
「自分の意思を、言葉にしてください」
「言葉?」
「嫌なものは嫌。やりたいことはやりたい。怖いものは怖い。楽しいものは楽しい。まず私にで構いません。本人の意思が記録として残れば、勝手なキャラクター付けへの反証になります」
花音が頷いた。
「わかりました」
「それと、外部の人に誘導される質問をされたら、その場で無理に答えないでください」
「たとえば?」
優芽が聞く。
「『怪我しても頑張るんだよね』『泣いちゃうところが可愛いよね』『澪ちゃんって毒舌だよね』のように、相手が答えを決めている質問です」
澪が鼻で笑った。
「もう来そうですね」
「来ます」
私は断言した。
「だから、答え方を準備します」
その場で、短い練習をした。
怪我しても頑張るんだよね、と聞かれたら。
優芽は最初、言葉に詰まった。
やがて、ゆっくり答えた。
「長く踊り続けたいので、今はちゃんと治すことも頑張ります」
私は頷いた。
「いいです」
泣いちゃうところが可愛いよね、と聞かれたら。
奈々は少し考えて言った。
「泣くこともあるけど、それだけじゃなくて、ちゃんとステージで成長しているところを見てほしいです」
「とてもいいです」
毒舌だよね、と聞かれたら。
澪は即答した。
「思ったことを雑に言うんじゃなくて、大事なことを自分の言葉で言える人になりたいです」
優芽が拍手した。
「澪、かっこいい!」
「うるさい」
「それが毒舌」
「違う」
少しだけ笑いが起きた。
最後に、苦労人リーダーだよね、と聞かれた花音は、しばらく黙っていた。
そして言った。
「私は一人で苦労するためにリーダーをしているんじゃなくて、四人で進むためにリーダーをしています」
私は胸の奥が熱くなるのを感じた。
「それを、そのまま言ってください」
花音は静かに頷いた。
その夜、私は一人でオフィスに残った。
降格通知。
キャラクター施策資料。
RVEプロモーション企画室。
須藤の発言。
四人の意思確認。
すべてを記録し、整理する。
途中で、宮内がそっと缶コーヒーを机に置いてくれた。
「差し入れです」
「ありがとうございます」
「私、何もできないですけど」
「十分です」
「佐伯さん」
「はい」
「LumiRiseの子たち、今日、前よりちゃんと喋ってました。自分の言葉で」
私は手を止めた。
「そう見えましたか」
「はい。少なくとも私は、そう見えました」
宮内は少しだけ笑って、自分の席へ戻っていった。
小さな味方。
でも、小さくない。
人は、一人の味方で踏みとどまれることがある。
私は缶コーヒーを開け、パソコンの画面を見た。
降格。
上等だ。
役職を奪われても、見てきたものは奪えない。
記録したものも消えない。
彼女たちが自分の言葉を持ち始めた事実も、もう戻らない。
そのとき、メールが一通届いた。
差出人は、白石瑠璃。
美月さん
少し調べました。
RVEプロモーション企画室は、レイヴンの関連会社です。
表向きは別会社ですが、役員に真壁亮司の名前があります。
LumiRiseのプロモーションに、なぜ競合事務所系の会社が入っているのか、普通ではありません。
気をつけてください。
私は画面を見つめた。
やはり。
点と点がつながった。
ただの売り出しではない。
ただの炎上施策でもない。
スターリットの上層部は、競合事務所系の会社と組んで、LumiRiseを動かしている。
それが成功のためなのか。
それとも、別の目的があるのか。
まだわからない。
だが、はっきりしたことが一つある。
LumiRiseを守る相手は、社内の幹部だけではない。
外にもいる。
彼女たちを売り物として消費し、炎上させ、利用しようとする人間が。
私は瑠璃のメールを保存し、返信した。
ありがとう。
無理はしないで。
必要なときはこちらから連絡します。
送信した直後、LumiRiseのグループチャットが動いた。
花音からだった。
今日、四人で話しました。
私たちは、勝手に決められたキャラじゃなくて、自分たちの言葉で活動したいです。
まだ怖いけど、言えることから言います。
続いて優芽。
怪我でも笑顔の根性ダンサーは拒否でお願いします!
ちゃんと治して長く踊るダンサーになります!
奈々。
泣き虫だけじゃないって言えるように頑張ります。
でも泣いたらすみません。
澪。
泣いたら泣いたでいい。
私は勝手に炎上担当にされるのを拒否します。
最後に、花音がもう一度送ってきた。
佐伯さん、私たちの担当でいてください。
私はその文面を見て、しばらく返信できなかった。
降格された。
権限は削られた。
上層部は私を外そうとしている。
外部には真壁がいる。
炎上の火種も近づいている。
状況は悪い。
けれど、今日初めて、LumiRiseは自分たちの意思を言葉にした。
それは、小さな反撃だった。
私は深く息を吸い、返信した。
います。
そのために、必要なことをします。
送信。
窓の外には、夜の渋谷が広がっていた。
巨大ビジョンでは、別のアイドルグループの広告が流れている。
笑顔。
音楽。
光。
その裏側に、どれだけの交渉と我慢と涙があるのか、見る人は知らない。
知らなくていいこともある。
でも、知られなければ変わらないこともある。
私はLumiRise記録フォルダを開き、新しいフォルダを作った。
RVE関連調査。
そして、もう一つ。
本人意思記録。
戦い方は変わる。
今までは、私が止めていた。
これからは、彼女たち自身の言葉も守る武器になる。
会社は私を降格した。
それで、私が黙ると思ったのだろう。
裏方扱いの人間から肩書きを奪えば、何もできなくなると思ったのだろう。
違う。
裏方の仕事は、肩書きでしているのではない。
見ること。
拾うこと。
残すこと。
つなぐこと。
そして、光の中に立つ人が自分の足で立てるように、暗がりで支えること。
それだけは、誰に降格されても変わらない。
私は最後に、今日の記録の末尾へ一行を加えた。
LumiRise四名、外部施策によるキャラクター固定に対し、明確な拒否意思を表明。
保存。
それはまだ、誰かを倒す証拠ではない。
けれど、彼女たちが自分を取り戻し始めた証拠だった。




