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第4話 現場判断

黒崎常務から「休ませるな」と言われた翌日、LumiRiseの予定表はさらに黒く塗りつぶされた。


 朝七時、都内スタジオでグラビア撮影。


 十時半、音楽情報サイトのインタビュー。


 十三時、ラジオ収録。


 十五時、ダンスレッスン。


 十八時、広告代理店との顔合わせ。


 二十時、ファン向けショート動画の撮影。


 その後、二十二時から新曲の歌割り確認。


 そして、スケジュール表の一番下に小さく追加されていた。


 二十三時三十分、関係者向け配信コメント収録。


 私は朝、共有カレンダーを見た瞬間に、椅子から立ち上がった。


 昨日の会議で、スケジュール変更は部長承認制になった。つまり、私が勝手に消せば、神田部長はそれを理由に私を担当から外すことができる。


 だが、この予定は明らかに過剰だった。


 特に問題なのは、十五歳の奈々だ。


 学校はどうするのか。


 睡眠はどうするのか。


 食事はどうするのか。


 そして優芽の足首は、昨日の朝番組を何とか乗り切ったばかりだった。


 私は予定表を印刷し、赤ペンで危険箇所に印をつけた。


 その数が多すぎて、紙面はすぐ赤くなった。


 会社は、私にこう言っているのだ。


 止められるものなら止めてみろ。


 私は赤ペンを置き、神田部長へメールを送った。


件名:本日のLumiRise稼働について確認

本日のスケジュールは未成年者を含むメンバーの拘束時間が長時間に及び、前日までの稼働状況、橘の足首の状態、三枝の睡眠不足傾向を踏まえると、二十時以降の稼働継続にはリスクがあります。

二十時以降の動画撮影、歌割り確認、配信コメント収録については、別日振替または短縮を提案します。


 五分後、返信が来た。


却下。

予定通り実施。

以後、同様の確認で業務を止めないこと。


 短い。


 あまりにも短い。


 だが、これで記録は残った。


 私はその返信を保存し、LumiRise記録フォルダに入れた。


 ファイル名は、長時間稼働確認_却下。


 それからバッグを持って立ち上がった。


 止める権限がないなら、現場で止める理由を作らないようにする。


 食べさせる。


 眠らせる。


 負荷を落とす。


 そして、限界が来たら迷わず止める。


 それが、今日の私の仕事だった。


 七時の撮影スタジオに入ると、LumiRiseの四人はすでにメイクを始めていた。


「おはようございます」


 花音が椅子から立とうとしたので、私は手で制した。


「座ったままで大丈夫です。睡眠時間を確認します」


 順に答えさせる。


 花音、五時間半。


 澪、五時間。


 優芽、六時間。


 奈々、四時間半。


 奈々は申し訳なさそうに俯いた。


「宿題が終わらなくて……」


「責めていません。今日は移動中の仮眠を入れます」


「でも、予定が」


「入れます」


 優芽が鏡越しに笑った。


「出た、業務指示」


「今日は冗談ではなく本当に必要です」


 私が言うと、優芽の笑顔が少し弱くなった。


 彼女もわかっているのだ。


 この予定が普通ではないことを。


 撮影は順調だった。


 少なくとも表面上は。


 四人はカメラの前で笑い、衣装を変え、ポーズを取り、インタビュー用のコメントも収録した。現場スタッフは親切で、こちらの休憩要望にも協力的だった。


 問題は、現場ではなく会社だった。


 十時過ぎ、私のスマートフォンに神田部長からメッセージが届いた。


今日の広告代理店顔合わせは最重要。

疲れた顔をさせるな。

先方には元気で従順な印象を与えろ。


 従順。


 その二文字に、私は指を止めた。


 元気ならまだわかる。


 印象も理解できる。


 だが、従順。


 アイドルに求める言葉として、それはあまりにも露骨だった。


 私はスクリーンショットを保存した。


 そのとき、背後から声がした。


「佐伯さん、怖い顔してます」


 振り返ると、澪が立っていた。


 撮影衣装のまま、手には水のボトルを持っている。


「顔に出ていましたか」


「少し」


「気をつけます」


「会社からですか」


 私はすぐには答えなかった。


 澪は、こちらがごまかせば見抜く。


 だから、必要な範囲だけ答える。


「今日の顔合わせについて、指示が来ました」


「私たちに、ちゃんと笑えって?」


「近いです」


「従順にしろ、とか?」


 私は一瞬、反応が遅れた。


 澪はそれで察したようだった。


「当たりか」


「澪さん」


「大丈夫です。慣れてます」


 その言葉が、何より大丈夫ではなかった。


 慣れている。


 若いタレントが、大人に従順であることを求められる状況に、慣れている。


 私は水のボトルを持つ彼女の手元を見た。


 指先が、少しだけ白くなっている。


 怒っているのだ。


 澪は冷静に見えるが、内側に強い火を持っている。その火は彼女の歌の芯にもなっているが、扱いを間違えれば本人を焼く。


「慣れなくていいです」


 私が言うと、澪は目を細めた。


「佐伯さんって、たまに変なこと言いますね」


「そうですか」


「芸能界って、慣れたほうが楽なんじゃないですか」


「楽になることと、正しくなることは違います」


 澪は水を一口飲んだ。


「そういうの、綺麗事っぽいのに、佐伯さんが言うとあんまり嘘っぽくないです」


「褒めていますか」


「微妙です」


「承知しました」


 澪は少しだけ口元を緩め、スタジオへ戻っていった。


 十時半のインタビューでは、音楽サイトの記者が四人に丁寧な質問をしてくれた。


 結成時のこと。


 新曲に込めた思い。


 それぞれの役割。


 今後挑戦したいステージ。


 よくある質問だが、答え方でグループの色が見える。


 花音は、言葉を選んで全体をまとめた。


「私たちはまだ未熟ですけど、四人で立つステージを大切にしたいです」


 優芽は明るく言った。


「ダンスで見ている人の背中を押せるようになりたいです」


 奈々は少し緊張しながらも、昨日よりしっかり答えた。


「私はまだできないことが多いけど、応援してくれる人に、見ていてよかったって思ってもらえるようになりたいです」


 そして澪は、少し考えてから言った。


「無理に笑うんじゃなくて、本当に笑えるステージがしたいです」


 記者がペンを止めた。


「本当に笑えるステージ?」


 澪は一瞬、言い過ぎたかという顔をした。


 だが、私は止めなかった。


「はい」


 澪は続けた。


「アイドルだから、笑顔は大事だと思います。でも、ただ笑えって言われるんじゃなくて、自分たちがちゃんと楽しいと思えるものを届けたいです」


 部屋の空気が少し変わった。


 花音が澪を見る。


 優芽は静かに頷いた。


 奈々の目が少し潤んだように見えた。


 記者は優しく笑った。


「いいですね。その言葉、記事に使っても?」


 澪は私を見た。


 私は頷いた。


「お願いします」


 澪は小さく言った。


「使ってください」


 その瞬間、私は思った。


 この子たちは、もう会社の用意した言葉だけでは足りなくなっている。


 自分の言葉を持ち始めている。


 それは危険でもある。


 事務所にとって扱いにくくなるからだ。


 だが、タレントとしては必要な成長だった。


 昼食は移動車の中で取った。


 弁当は私が手配した。脂っこすぎず、食べやすく、量も調整できるもの。花音は最初「移動中に食べて大丈夫ですか」と聞いたが、私が頷くと、少し安心したように箸を取った。


 奈々は半分ほど食べたところで、眠気に負けた。


 箸を持ったまま目が閉じかけている。


「三枝さん、五分寝ましょう」


「でも、食べてる途中で」


「食事は後で再開できます。箸を置いてください」


 奈々は素直に従った。


 花音が彼女の弁当に蓋をし、優芽が膝掛けを渡す。


 澪は窓の外を見ながら言った。


「私たち、前より人間みたいですね」


 その言葉に、車内が静かになった。


 私は助手席から振り返った。


「前から人間です」


「知ってます。でも、たまに忘れます」


 澪の横顔は、冗談を言っている顔ではなかった。


 私は何も言えなかった。


 マネージャーとして、すぐに正しい言葉を返せるときばかりではない。


 むしろ、本当に重い言葉ほど、軽々しく慰めてはいけない。


 私はただ言った。


「忘れそうになったら、言います」


「何を?」


「人間です、と」


 優芽が小さく笑った。


「佐伯さん、真面目すぎて面白い」


「笑うところですか」


「たぶん、ちょっと」


 車内にわずかな笑いが生まれた。


 その空気を壊すように、私のスマートフォンが震えた。


 須藤からだった。


広告代理店顔合わせ、黒崎常務も同席。

先方の希望で、LumiRiseにその場でショートダンス披露あり。

優芽中心で。

先方のお気に入りなので。


 私はすぐに返信した。


橘は足首に不安があるため、ショートダンスは負荷の低い構成に変更します。

事前に音源・披露範囲を共有してください。


 須藤からの返信。


その場のノリ。

空気読んで。

常務もいるので止めないように。


 その場のノリ。


 空気。


 止めるな。


 危険な言葉が並ぶ。


 私は優芽の足首を見た。


 今は落ち着いている。だが、疲労が溜まれば悪化する。広告代理店の前で無理に踊らせる意味はない。


 それでも会社はやらせる。


 先方のお気に入りだから。


 私はメッセージを保存し、優芽へ向き直った。


「夕方の顔合わせで、ショートダンスを求められる可能性があります」


 優芽の顔から笑みが消えた。


「私ですか」


「優芽さん中心で、と来ています」


「……やります」


 即答だった。


「やらなきゃ、ですよね」


「負荷の低い構成に変えます」


「でも、先方が見たいのは多分、いつものターンとジャンプです」


「今日はやりません」


「でも」


「今日はやりません」


 私ははっきり言った。


 優芽の目が揺れる。


「佐伯さん、私、踊れないって思われるの嫌です」


「踊れないとは思われません」


「わからないじゃないですか」


「わかります」


「どうして」


「あなたは昨日、足首を使わずに上半身だけで画を作りました。今日の撮影でも、表情で動きを出せていました。ターンとジャンプだけがダンサーの価値ではありません」


 優芽は唇を噛んだ。


「でも、私はそれしかないんです」


 車内が静まり返った。


「歌は澪がいる。まとめるのは花音。奈々は可愛いし、守ってあげたいって思わせる何かがある。私は、踊れなかったら何もない」


「優芽」


 花音が声をかける。


 優芽は明るく笑おうとしたが、失敗した。


「ごめん。変なこと言った」


「変ではありません」


 私は言った。


「ただ、間違っています」


 優芽がこちらを見る。


「あなたの価値は、踊れるかどうかだけではありません」


「でも、担当はダンスで」


「役割と価値は別です」


 私はゆっくり言葉を選んだ。


「あなたはグループの空気を明るくしています。奈々さんが緊張したとき、最初に笑わせるのは優芽さんです。花音さんが抱え込みすぎたとき、冗談で息を抜かせるのも優芽さんです。澪さんの言葉が強くなりすぎたとき、場を柔らかくしているのも優芽さんです」


 優芽は目を見開いた。


「そんなの、仕事じゃないです」


「仕事です」


「違いますよ。そんなの、ただ私が適当に喋ってるだけで」


「それで救われている人がいるなら、立派な役割です」


 奈々は眠りかけていた目をこすりながら、小さく言った。


「私、優芽ちゃんが笑ってくれると、ちょっと怖くなくなります」


 花音も頷いた。


「私も。優芽がいるから、空気が止まらない」


 澪は窓の外を見たまま、ぼそりと言った。


「うるさいけど、いないと困る」


「澪、それ褒めてる?」


「たぶん」


 優芽は一瞬笑い、それから顔を伏せた。


「何それ……ずるい」


 声が震えていた。


 私はその涙を見ないふりはしなかったが、騒ぎもしなかった。


 泣くことも、人間に戻るために必要なことがある。


 ラジオ収録は穏やかに進んだ。


 パーソナリティが話し上手で、四人の個性を引き出してくれた。特に優芽は、先ほどの車内で何かが解けたのか、いつもより自然なテンションで話していた。


 ただ、疲労は確実に積み上がっていた。


 十五時のダンスレッスンでは、花音の反応がわずかに遅れた。澪の声も少し掠れ始めている。奈々は集中力が続かず、同じ位置を二度間違えた。


 そして優芽は、足首をかばうせいで反対側の膝に負担がかかっていた。


 私は十六時半でレッスンを切り上げた。


 講師も納得してくれた。


「今日はこれ以上やっても崩れます」


 問題は、その後だった。


 十八時。


 広告代理店との顔合わせは、都内の高級ホテルのラウンジで行われた。


 会議室ではなくラウンジ。


 それだけで嫌な予感がした。


 仕事の打ち合わせに見せかけた、接待の匂いがする。


 黒崎常務、神田部長、須藤。


 相手方は広告代理店の役員、制作会社のプロデューサー、飲料メーカーの宣伝部長。そして、見覚えのない男が一人。


 四十代半ば。派手なジャケット。鋭い目。


 名刺には、レイヴンエンターテインメント 取締役 真壁亮司とあった。


 ライバル事務所。


 いや、ただのライバルではない。


 レイヴンエンターテインメントは、ここ数年で急激に勢力を伸ばした芸能事務所だった。炎上商法まがいの売り出し、タレントの強引な移籍、噂レベルではあるが、他社アイドルへのネガティブキャンペーンにも名前が出る。


 なぜ、その取締役がLumiRiseの広告代理店顔合わせにいるのか。


 私は名刺を受け取りながら、表情を変えなかった。


「佐伯美月です。LumiRiseを担当しています」


 真壁は私の名刺を見て、薄く笑った。


「佐伯さん。お名前は存じていますよ。白石瑠璃さんを育てた方ですよね」


「担当していました」


「優秀な裏方がつくと、タレントは長持ちする。素晴らしいことです」


 言葉だけなら褒めている。


 だが、目は違った。


 値踏みしている目だ。


 商品を見る目。


 黒崎常務が上機嫌で言った。


「真壁さんには、今回のプロモーション展開で色々とご協力いただいている」


「他社の方が、ですか」


「業界は持ちつ持たれつだよ、佐伯」


 神田部長が横から言う。


「余計な詮索をするな」


 私は頭を下げた。


「失礼しました」


 だが、記録する。


 レイヴンエンターテインメント真壁亮司、LumiRise広告案件に同席。


 これは後で必ず調べる。


 顔合わせは、表面上は和やかに進んだ。


 飲料メーカーの宣伝部長は、LumiRiseの爽やかさを評価していると言った。広告代理店の役員は、若年層への訴求力を期待していると語った。


 しかし話の端々に、妙な表現が混じる。


「少し危うさがあるほうが今は刺さる」


「清純すぎるより、叩きどころがあったほうが拡散する」


「炎上を恐れすぎると伸びない」


 私は黙って聞いた。


 LumiRiseの四人は、愛想よく笑っている。


 だが、澪の目が冷えているのがわかった。


 彼女も気づいている。


 自分たちが、応援される存在ではなく、消費される素材として語られていることに。


 そして、案の定だった。


 真壁がグラスを置き、優芽を見た。


「橘さん、ダンスが得意なんですよね。少し見せてもらえますか」


 優芽の肩が一瞬強張った。


 黒崎常務がすぐに笑った。


「もちろんです。優芽、いつものやつを」


 私は一歩前に出た。


「申し訳ありません。本日は足首の状態を考慮し、激しいターンやジャンプは控えています」


 黒崎の笑顔が固まった。


 神田が低く言う。


「佐伯」


 真壁は面白そうにこちらを見た。


「怪我ですか」


「軽度の炎症です。悪化を避けるため、負荷を制限しています」


「プロなら、それくらい見せられるでしょう」


 真壁の声は柔らかかった。


 だが、その場にいる大人たちは全員、その言葉が命令であることを理解していた。


 優芽が一歩前に出ようとした。


 私は視線だけで止めた。


 だが、彼女は小さく首を振った。


 やる。


 そう言おうとしている。


 私は優芽に近づき、低い声で言った。


「構成を変えます。ジャンプなし。ターン一回。上半身中心」


「でも」


「それなら見せられます。あなたの価値も落ちません」


 優芽は唇を噛み、やがて頷いた。


 音源はなかった。


 アカペラで、澪が短くリズムを取った。


 花音が手拍子を合わせる。


 奈々も小さく続いた。


 優芽はラウンジの空いたスペースに立った。


 派手なジャンプはない。


 高速ターンもない。


 だが、彼女は腕の軌道、首の角度、指先の流れだけで空気を変えた。


 軽く一歩踏み出し、視線を上げる。


 髪が揺れる。


 最後に、足首へ負荷をかけない小さなターン。


 静かで、強いダンスだった。


 終わった瞬間、飲料メーカーの宣伝部長が思わず拍手した。


「いいですね。無理に派手じゃなくて、印象に残る」


 広告代理店の役員も頷く。


「むしろ商品の方向性に合うかもしれません。透明感がある」


 優芽が驚いたようにこちらを見る。


 私は小さく頷いた。


 ほら。


 跳ばなくても、届く。


 だが、真壁だけは拍手しなかった。


 彼は薄く笑い、黒崎へ視線を向けた。


「なるほど。佐伯さんは、よく止めるマネージャーのようだ」


 黒崎常務の表情が曇る。


「申し訳ありません。うちの担当が少々慎重で」


「いえいえ。面白いですよ」


 真壁は私を見た。


「ただ、売れるときは一気に行かないと。守りすぎると、鮮度が落ちます」


「人間は生鮮食品ではありません」


 言った瞬間、場が止まった。


 神田部長の顔が赤くなる。


 須藤が目を見開く。


 黒崎常務は笑っていない。


 真壁だけが、口角を上げた。


「これは手厳しい」


「失礼しました」


「いえ。裏方の意見として、覚えておきます」


 裏方。


 その言葉には、明らかな侮りが混じっていた。


 けれど、私は頭を下げるだけにした。


 今ここで勝つ必要はない。


 必要なのは、真壁という男が何を狙っているのかを知ることだ。


 顔合わせが終わったのは十九時半だった。


 本来なら、この後ショート動画撮影、歌割り確認、配信コメント収録が残っている。


 ホテルの廊下に出た瞬間、優芽が壁に手をついた。


「優芽!」


 花音が駆け寄る。


 優芽は笑おうとした。


「ごめん、ちょっと足に力入らなくて」


 私はすぐにしゃがみ、足首を確認した。


 熱がある。


 朝より腫れている。


 しかも、膝にも負担が出ている。


「ここで終了します」


 私は即断した。


 須藤が振り返る。


「何言ってるんですか。この後まだ撮影が」


「橘の足首が悪化しています。これ以上の稼働は中止します」


「中止って、部長承認が必要でしょう」


「緊急対応です」


「大げさですよ。歩けてるじゃないですか」


 その瞬間、澪が低い声で言った。


「歩けなくなるまでやらせるんですか」


 須藤が顔をしかめる。


「澪ちゃん、そういう言い方は」


「じゃあ、どういう言い方なら聞くんですか」


 花音が慌てて澪の腕に触れた。


「澪」


 しかし、澪は止まらなかった。


「昨日からずっと、佐伯さんが止めなかったら、私たち休めてないですよね。今日だって、優芽が痛いって言ってるのに、まだ踊らせるんですか」


 須藤の表情が冷えた。


「君たち、誰のおかげで仕事があると思ってるの」


 奈々がびくりとした。


 私は立ち上がった。


「須藤さん」


「佐伯さん、あなたの教育ですか? タレントがスタッフに口答えするなんて」


「体調不良を訴えることは口答えではありません」


「だから大げさだって言ってるんですよ」


「では、今から医療機関に行きます。診断を受け、その結果を報告します」


 須藤が詰まった。


「いや、そこまでしなくても」


「必要です。先ほど歩けていると言われましたが、歩行可能かどうかは判断基準の一部でしかありません。悪化すれば今後の稼働に支障が出ます」


「今日の撮影はどうするんですか」


「延期または構成変更です」


「勝手に決めるな!」


「勝手ではありません。現場判断です」


 私は黒崎常務へ電話をかけた。


 須藤の前で。


 数コール後、黒崎が出た。


「何だ」


「佐伯です。橘の足首に悪化が見られるため、本日の残り稼働を中止し、医療機関に向かいます」


「認めない」


「歩行時に痛みと不安定感があります。膝への負担も出ています」


「撮影を終わらせてから行け」


「悪化の可能性があるため、今行きます」


「佐伯」


「この通話も記録に残します」


 電話の向こうが静かになった。


「……好きにしろ。ただし、責任は取れ」


「担当として対応します」


 通話を切った。


 優芽は壁にもたれたまま、泣きそうな顔でこちらを見ていた。


「佐伯さん、すみません」


「謝らない」


 私は即座に言った。


「でも、私のせいで」


「怪我を悪化させたのはスケジュールです。あなたではありません」


 花音が優芽の荷物を持つ。


 澪は奈々の手を引いた。


 私はタクシーを手配し、近くの整形外科へ連絡した。夜間対応は難しかったが、業界で付き合いのあるスポーツクリニックが受け入れてくれた。


 タクシーに乗り込む直前、真壁がホテルの出口に現れた。


「お帰りですか」


 私は足を止めた。


「メンバーの体調対応です」


「大変ですね。売れる前から守るものが多いと」


「守るものがあるから売れるのだと思っています」


 真壁は静かに笑った。


「理想論ですね」


「現場論です」


「佐伯さん」


 彼は一歩近づいた。


「あなたのような裏方は、今の時代には珍しい。でも、裏方が前に出すぎると、タレントが迷惑しますよ」


「ご忠告ありがとうございます」


「忠告ではありません」


 真壁の目が細くなった。


「予告です」


 背筋が冷えた。


 だが私は表情を変えなかった。


「失礼します」


 タクシーのドアが閉まる。


 車が走り出すと、優芽が小さく言った。


「あの人、怖いです」


「覚えておいてください」


 澪が眉を寄せる。


「何を?」


「あの人が、私たちにどういう目を向けていたか」


 花音が静かに頷いた。


「商品を見る目、でした」


 私は否定しなかった。


 クリニックで診察を受けた結果、優芽の足首は軽い捻挫と炎症。数日の負荷制限が必要と診断された。幸い、重症ではなかった。


 幸い。


 今日止めたからだ。


 あと二時間撮影していたら、どうなっていたかわからない。


 私は診断書の写しを受け取り、会社へ報告した。


橘優芽、右足関節捻挫および炎症。数日間の高負荷運動制限が必要。

本日の残り稼働は中止。

明日以降の振付・撮影内容について調整必須。


 神田部長から返事はなかった。


 代わりに、社内共有チャットに一文だけ投稿された。


佐伯の判断により、本日夜の撮影は中止。関係各所に迷惑が発生。


 私はそれを見て、静かにスクリーンショットを保存した。


 そして返信する。


医師の診断に基づく緊急対応です。

診断内容および今後の制限事項は関係者へ共有します。


 既読はついたが、誰も反応しなかった。


 クリニックを出たのは二十一時過ぎだった。


 本来ならまだ撮影中だった時間だ。


 タクシーでそれぞれを送る前に、私は四人へ言った。


「今日はここで解散です。帰宅後、食事と入浴を済ませてください。優芽さんは足を冷やし、指示された通り固定してください。全員、エゴサは禁止です」


 優芽が小さく手を上げた。


「質問」


「はい」


「今日のこと、私のせいじゃないって、もう一回言ってもらっていいですか」


 声は明るくしようとしていた。


 でも、震えていた。


 私は彼女の目を見た。


「優芽さんのせいではありません」


「本当に?」


「本当に」


「……わかりました」


 優芽は下を向いた。


 その肩が少し震えていた。


 奈々が隣からそっと手を握る。


 花音は何か言いたげに唇を結び、澪は窓の外を睨むように見ていた。


 怒り。


 悔しさ。


 安堵。


 恐怖。


 それぞれの感情が、狭いタクシーの中で交差していた。


 私はスマートフォンを開き、今日の記録を整理し始めた。


 そこへ、知らない番号から着信があった。


 出るべきか迷ったが、仕事用端末だったため応答する。


「佐伯です」


 電話の向こうで、男性の声がした。


「夜分にすみません。週刊トーチの相沢と申します」


 記者。


 私は表情を変えず、車内の四人に聞こえないよう少し声を落とした。


「どのようなご用件でしょうか」


「白石瑠璃さんの件で、以前一度お名刺をいただいたことがあります」


 思い出した。


 相沢慎一。


 芸能ゴシップではなく、労務問題や業界構造の記事を書く記者だ。過去に瑠璃の過密スケジュールについて取材を申し込まれたことがある。当時はまだ記事にする段階ではなく、私は丁寧に断った。


「覚えています」


「単刀直入に言います。LumiRiseの件で、少し妙な情報が入っています」


 私は窓の外を見た。


 街灯が流れていく。


「妙な情報とは」


「彼女たちの売り出しに、レイヴンエンターテインメントが関わっていませんか」


 心臓が、一度だけ強く鳴った。


 真壁。


 今日の顔合わせ。


 予告。


「なぜ、そう思うのですか」


「まだ裏取り中です。ただ、広告代理店経由で妙な資金の流れがある。さらに、LumiRiseに関するネガティブ投稿の準備らしき動きも見えています」


「ネガティブ投稿?」


「はい。まだ出ていません。ただ、炎上の種を仕込むようなアカウント群が動き始めている」


 私は目を細めた。


 SNS炎上。


 七話以降で起きるはずの火種が、もう見え始めている。


「相沢さん」


「はい」


「今の話、どこまで確認済みですか」


「確定ではありません。だから、あなたに連絡しました。佐伯さんなら、現場側で違和感を掴んでいるかもしれないと思って」


 私はすぐには答えなかった。


 記者を味方にするのは危険だ。


 情報は力になるが、扱いを間違えるとタレントを傷つける刃にもなる。


 今、LumiRiseはまだ弱い。


 不用意に外へ出せば、彼女たちが矢面に立たされる。


「現時点で、こちらからお話しできることはありません」


「もちろんです。ですが、気をつけてください」


「何に」


「近いうちに、LumiRiseの誰かを狙った炎上が起きるかもしれません」


 電話の向こうで、相沢は低く言った。


「しかも、自然発生ではなく、仕組まれた形で」


 通話が終わった後も、私はしばらくスマートフォンを握っていた。


 仕組まれた炎上。


 レイヴン。


 真壁。


 黒崎常務。


 神田部長。


 過密スケジュール。


 休ませるなという命令。


 すべてが、少しずつ線でつながり始めている。


 隣の席で、奈々が眠っていた。


 花音がその肩を支えている。


 優芽は足首を固定したまま、ぼんやり窓の外を見ていた。


 澪だけが、私を見ていた。


「また、何かありました?」


「確認中です」


「それ、何かあるときの言い方ですよね」


 私は少しだけ笑った。


「よく見ていますね」


「佐伯さんも、私たちのことよく見てるので」


 澪はそう言って、前を向いた。


「私たちも見ます。佐伯さんが一人で抱え込まないように」


 その言葉に、胸の奥が静かに揺れた。


 担当初日、彼女は「見てます」と言った。


 それは警戒だった。


 今の「見ます」は、少し違っていた。


 信頼と呼ぶにはまだ早い。


 けれど、背中に向けられる視線が、疑いだけではなくなっている。


 タクシーは夜の街を進む。


 スポットライトの外側で、敵はもう動き始めている。


 ならば、こちらも止まれない。


 今日、私は現場判断で仕事を止めた。


 会社は私を責めるだろう。


 幹部は私を邪魔者として扱うだろう。


 真壁は、予告だと言った。


 だが、それでも構わない。


 優芽は歩けなくなる前に止まった。


 奈々は眠れた。


 花音は一人で抱え込まなくていいと知った。


 澪は怒りを言葉にできた。


 それだけで、今日の判断には意味がある。


 私はスマートフォンを開き、LumiRise記録フォルダに新しい項目を作った。


 外部関与・炎上準備疑惑。


 その下に、今日起きたことを一つずつ入力する。


 真壁亮司の同席。


 優芽へのダンス要求。


 黒崎常務の反応。


 須藤の発言。


 相沢記者からの情報。


 そして最後に、短く書いた。


近く、LumiRiseを標的としたSNS炎上が発生する可能性あり。

事前対策が必要。


 夜の窓に、私の顔が映っていた。


 疲れている。


 目の下には隈もある。


 それでも、まだ折れていない。


 裏方は、拍手を浴びない。


 けれど、裏方には裏方の戦い方がある。


 誰かが仕組んだ火なら、燃え広がる前に火元を探す。


 誰かが彼女たちを商品として壊そうとするなら、壊れる前に証拠を集める。


 そして、いつか必ず突きつける。


 あなたたちが軽んじた裏方は、ただ荷物を持っていただけではない。


 全部、見ていたのだと。

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