第4話 現場判断
黒崎常務から「休ませるな」と言われた翌日、LumiRiseの予定表はさらに黒く塗りつぶされた。
朝七時、都内スタジオでグラビア撮影。
十時半、音楽情報サイトのインタビュー。
十三時、ラジオ収録。
十五時、ダンスレッスン。
十八時、広告代理店との顔合わせ。
二十時、ファン向けショート動画の撮影。
その後、二十二時から新曲の歌割り確認。
そして、スケジュール表の一番下に小さく追加されていた。
二十三時三十分、関係者向け配信コメント収録。
私は朝、共有カレンダーを見た瞬間に、椅子から立ち上がった。
昨日の会議で、スケジュール変更は部長承認制になった。つまり、私が勝手に消せば、神田部長はそれを理由に私を担当から外すことができる。
だが、この予定は明らかに過剰だった。
特に問題なのは、十五歳の奈々だ。
学校はどうするのか。
睡眠はどうするのか。
食事はどうするのか。
そして優芽の足首は、昨日の朝番組を何とか乗り切ったばかりだった。
私は予定表を印刷し、赤ペンで危険箇所に印をつけた。
その数が多すぎて、紙面はすぐ赤くなった。
会社は、私にこう言っているのだ。
止められるものなら止めてみろ。
私は赤ペンを置き、神田部長へメールを送った。
件名:本日のLumiRise稼働について確認
本日のスケジュールは未成年者を含むメンバーの拘束時間が長時間に及び、前日までの稼働状況、橘の足首の状態、三枝の睡眠不足傾向を踏まえると、二十時以降の稼働継続にはリスクがあります。
二十時以降の動画撮影、歌割り確認、配信コメント収録については、別日振替または短縮を提案します。
五分後、返信が来た。
却下。
予定通り実施。
以後、同様の確認で業務を止めないこと。
短い。
あまりにも短い。
だが、これで記録は残った。
私はその返信を保存し、LumiRise記録フォルダに入れた。
ファイル名は、長時間稼働確認_却下。
それからバッグを持って立ち上がった。
止める権限がないなら、現場で止める理由を作らないようにする。
食べさせる。
眠らせる。
負荷を落とす。
そして、限界が来たら迷わず止める。
それが、今日の私の仕事だった。
七時の撮影スタジオに入ると、LumiRiseの四人はすでにメイクを始めていた。
「おはようございます」
花音が椅子から立とうとしたので、私は手で制した。
「座ったままで大丈夫です。睡眠時間を確認します」
順に答えさせる。
花音、五時間半。
澪、五時間。
優芽、六時間。
奈々、四時間半。
奈々は申し訳なさそうに俯いた。
「宿題が終わらなくて……」
「責めていません。今日は移動中の仮眠を入れます」
「でも、予定が」
「入れます」
優芽が鏡越しに笑った。
「出た、業務指示」
「今日は冗談ではなく本当に必要です」
私が言うと、優芽の笑顔が少し弱くなった。
彼女もわかっているのだ。
この予定が普通ではないことを。
撮影は順調だった。
少なくとも表面上は。
四人はカメラの前で笑い、衣装を変え、ポーズを取り、インタビュー用のコメントも収録した。現場スタッフは親切で、こちらの休憩要望にも協力的だった。
問題は、現場ではなく会社だった。
十時過ぎ、私のスマートフォンに神田部長からメッセージが届いた。
今日の広告代理店顔合わせは最重要。
疲れた顔をさせるな。
先方には元気で従順な印象を与えろ。
従順。
その二文字に、私は指を止めた。
元気ならまだわかる。
印象も理解できる。
だが、従順。
アイドルに求める言葉として、それはあまりにも露骨だった。
私はスクリーンショットを保存した。
そのとき、背後から声がした。
「佐伯さん、怖い顔してます」
振り返ると、澪が立っていた。
撮影衣装のまま、手には水のボトルを持っている。
「顔に出ていましたか」
「少し」
「気をつけます」
「会社からですか」
私はすぐには答えなかった。
澪は、こちらがごまかせば見抜く。
だから、必要な範囲だけ答える。
「今日の顔合わせについて、指示が来ました」
「私たちに、ちゃんと笑えって?」
「近いです」
「従順にしろ、とか?」
私は一瞬、反応が遅れた。
澪はそれで察したようだった。
「当たりか」
「澪さん」
「大丈夫です。慣れてます」
その言葉が、何より大丈夫ではなかった。
慣れている。
若いタレントが、大人に従順であることを求められる状況に、慣れている。
私は水のボトルを持つ彼女の手元を見た。
指先が、少しだけ白くなっている。
怒っているのだ。
澪は冷静に見えるが、内側に強い火を持っている。その火は彼女の歌の芯にもなっているが、扱いを間違えれば本人を焼く。
「慣れなくていいです」
私が言うと、澪は目を細めた。
「佐伯さんって、たまに変なこと言いますね」
「そうですか」
「芸能界って、慣れたほうが楽なんじゃないですか」
「楽になることと、正しくなることは違います」
澪は水を一口飲んだ。
「そういうの、綺麗事っぽいのに、佐伯さんが言うとあんまり嘘っぽくないです」
「褒めていますか」
「微妙です」
「承知しました」
澪は少しだけ口元を緩め、スタジオへ戻っていった。
十時半のインタビューでは、音楽サイトの記者が四人に丁寧な質問をしてくれた。
結成時のこと。
新曲に込めた思い。
それぞれの役割。
今後挑戦したいステージ。
よくある質問だが、答え方でグループの色が見える。
花音は、言葉を選んで全体をまとめた。
「私たちはまだ未熟ですけど、四人で立つステージを大切にしたいです」
優芽は明るく言った。
「ダンスで見ている人の背中を押せるようになりたいです」
奈々は少し緊張しながらも、昨日よりしっかり答えた。
「私はまだできないことが多いけど、応援してくれる人に、見ていてよかったって思ってもらえるようになりたいです」
そして澪は、少し考えてから言った。
「無理に笑うんじゃなくて、本当に笑えるステージがしたいです」
記者がペンを止めた。
「本当に笑えるステージ?」
澪は一瞬、言い過ぎたかという顔をした。
だが、私は止めなかった。
「はい」
澪は続けた。
「アイドルだから、笑顔は大事だと思います。でも、ただ笑えって言われるんじゃなくて、自分たちがちゃんと楽しいと思えるものを届けたいです」
部屋の空気が少し変わった。
花音が澪を見る。
優芽は静かに頷いた。
奈々の目が少し潤んだように見えた。
記者は優しく笑った。
「いいですね。その言葉、記事に使っても?」
澪は私を見た。
私は頷いた。
「お願いします」
澪は小さく言った。
「使ってください」
その瞬間、私は思った。
この子たちは、もう会社の用意した言葉だけでは足りなくなっている。
自分の言葉を持ち始めている。
それは危険でもある。
事務所にとって扱いにくくなるからだ。
だが、タレントとしては必要な成長だった。
昼食は移動車の中で取った。
弁当は私が手配した。脂っこすぎず、食べやすく、量も調整できるもの。花音は最初「移動中に食べて大丈夫ですか」と聞いたが、私が頷くと、少し安心したように箸を取った。
奈々は半分ほど食べたところで、眠気に負けた。
箸を持ったまま目が閉じかけている。
「三枝さん、五分寝ましょう」
「でも、食べてる途中で」
「食事は後で再開できます。箸を置いてください」
奈々は素直に従った。
花音が彼女の弁当に蓋をし、優芽が膝掛けを渡す。
澪は窓の外を見ながら言った。
「私たち、前より人間みたいですね」
その言葉に、車内が静かになった。
私は助手席から振り返った。
「前から人間です」
「知ってます。でも、たまに忘れます」
澪の横顔は、冗談を言っている顔ではなかった。
私は何も言えなかった。
マネージャーとして、すぐに正しい言葉を返せるときばかりではない。
むしろ、本当に重い言葉ほど、軽々しく慰めてはいけない。
私はただ言った。
「忘れそうになったら、言います」
「何を?」
「人間です、と」
優芽が小さく笑った。
「佐伯さん、真面目すぎて面白い」
「笑うところですか」
「たぶん、ちょっと」
車内にわずかな笑いが生まれた。
その空気を壊すように、私のスマートフォンが震えた。
須藤からだった。
広告代理店顔合わせ、黒崎常務も同席。
先方の希望で、LumiRiseにその場でショートダンス披露あり。
優芽中心で。
先方のお気に入りなので。
私はすぐに返信した。
橘は足首に不安があるため、ショートダンスは負荷の低い構成に変更します。
事前に音源・披露範囲を共有してください。
須藤からの返信。
その場のノリ。
空気読んで。
常務もいるので止めないように。
その場のノリ。
空気。
止めるな。
危険な言葉が並ぶ。
私は優芽の足首を見た。
今は落ち着いている。だが、疲労が溜まれば悪化する。広告代理店の前で無理に踊らせる意味はない。
それでも会社はやらせる。
先方のお気に入りだから。
私はメッセージを保存し、優芽へ向き直った。
「夕方の顔合わせで、ショートダンスを求められる可能性があります」
優芽の顔から笑みが消えた。
「私ですか」
「優芽さん中心で、と来ています」
「……やります」
即答だった。
「やらなきゃ、ですよね」
「負荷の低い構成に変えます」
「でも、先方が見たいのは多分、いつものターンとジャンプです」
「今日はやりません」
「でも」
「今日はやりません」
私ははっきり言った。
優芽の目が揺れる。
「佐伯さん、私、踊れないって思われるの嫌です」
「踊れないとは思われません」
「わからないじゃないですか」
「わかります」
「どうして」
「あなたは昨日、足首を使わずに上半身だけで画を作りました。今日の撮影でも、表情で動きを出せていました。ターンとジャンプだけがダンサーの価値ではありません」
優芽は唇を噛んだ。
「でも、私はそれしかないんです」
車内が静まり返った。
「歌は澪がいる。まとめるのは花音。奈々は可愛いし、守ってあげたいって思わせる何かがある。私は、踊れなかったら何もない」
「優芽」
花音が声をかける。
優芽は明るく笑おうとしたが、失敗した。
「ごめん。変なこと言った」
「変ではありません」
私は言った。
「ただ、間違っています」
優芽がこちらを見る。
「あなたの価値は、踊れるかどうかだけではありません」
「でも、担当はダンスで」
「役割と価値は別です」
私はゆっくり言葉を選んだ。
「あなたはグループの空気を明るくしています。奈々さんが緊張したとき、最初に笑わせるのは優芽さんです。花音さんが抱え込みすぎたとき、冗談で息を抜かせるのも優芽さんです。澪さんの言葉が強くなりすぎたとき、場を柔らかくしているのも優芽さんです」
優芽は目を見開いた。
「そんなの、仕事じゃないです」
「仕事です」
「違いますよ。そんなの、ただ私が適当に喋ってるだけで」
「それで救われている人がいるなら、立派な役割です」
奈々は眠りかけていた目をこすりながら、小さく言った。
「私、優芽ちゃんが笑ってくれると、ちょっと怖くなくなります」
花音も頷いた。
「私も。優芽がいるから、空気が止まらない」
澪は窓の外を見たまま、ぼそりと言った。
「うるさいけど、いないと困る」
「澪、それ褒めてる?」
「たぶん」
優芽は一瞬笑い、それから顔を伏せた。
「何それ……ずるい」
声が震えていた。
私はその涙を見ないふりはしなかったが、騒ぎもしなかった。
泣くことも、人間に戻るために必要なことがある。
ラジオ収録は穏やかに進んだ。
パーソナリティが話し上手で、四人の個性を引き出してくれた。特に優芽は、先ほどの車内で何かが解けたのか、いつもより自然なテンションで話していた。
ただ、疲労は確実に積み上がっていた。
十五時のダンスレッスンでは、花音の反応がわずかに遅れた。澪の声も少し掠れ始めている。奈々は集中力が続かず、同じ位置を二度間違えた。
そして優芽は、足首をかばうせいで反対側の膝に負担がかかっていた。
私は十六時半でレッスンを切り上げた。
講師も納得してくれた。
「今日はこれ以上やっても崩れます」
問題は、その後だった。
十八時。
広告代理店との顔合わせは、都内の高級ホテルのラウンジで行われた。
会議室ではなくラウンジ。
それだけで嫌な予感がした。
仕事の打ち合わせに見せかけた、接待の匂いがする。
黒崎常務、神田部長、須藤。
相手方は広告代理店の役員、制作会社のプロデューサー、飲料メーカーの宣伝部長。そして、見覚えのない男が一人。
四十代半ば。派手なジャケット。鋭い目。
名刺には、レイヴンエンターテインメント 取締役 真壁亮司とあった。
ライバル事務所。
いや、ただのライバルではない。
レイヴンエンターテインメントは、ここ数年で急激に勢力を伸ばした芸能事務所だった。炎上商法まがいの売り出し、タレントの強引な移籍、噂レベルではあるが、他社アイドルへのネガティブキャンペーンにも名前が出る。
なぜ、その取締役がLumiRiseの広告代理店顔合わせにいるのか。
私は名刺を受け取りながら、表情を変えなかった。
「佐伯美月です。LumiRiseを担当しています」
真壁は私の名刺を見て、薄く笑った。
「佐伯さん。お名前は存じていますよ。白石瑠璃さんを育てた方ですよね」
「担当していました」
「優秀な裏方がつくと、タレントは長持ちする。素晴らしいことです」
言葉だけなら褒めている。
だが、目は違った。
値踏みしている目だ。
商品を見る目。
黒崎常務が上機嫌で言った。
「真壁さんには、今回のプロモーション展開で色々とご協力いただいている」
「他社の方が、ですか」
「業界は持ちつ持たれつだよ、佐伯」
神田部長が横から言う。
「余計な詮索をするな」
私は頭を下げた。
「失礼しました」
だが、記録する。
レイヴンエンターテインメント真壁亮司、LumiRise広告案件に同席。
これは後で必ず調べる。
顔合わせは、表面上は和やかに進んだ。
飲料メーカーの宣伝部長は、LumiRiseの爽やかさを評価していると言った。広告代理店の役員は、若年層への訴求力を期待していると語った。
しかし話の端々に、妙な表現が混じる。
「少し危うさがあるほうが今は刺さる」
「清純すぎるより、叩きどころがあったほうが拡散する」
「炎上を恐れすぎると伸びない」
私は黙って聞いた。
LumiRiseの四人は、愛想よく笑っている。
だが、澪の目が冷えているのがわかった。
彼女も気づいている。
自分たちが、応援される存在ではなく、消費される素材として語られていることに。
そして、案の定だった。
真壁がグラスを置き、優芽を見た。
「橘さん、ダンスが得意なんですよね。少し見せてもらえますか」
優芽の肩が一瞬強張った。
黒崎常務がすぐに笑った。
「もちろんです。優芽、いつものやつを」
私は一歩前に出た。
「申し訳ありません。本日は足首の状態を考慮し、激しいターンやジャンプは控えています」
黒崎の笑顔が固まった。
神田が低く言う。
「佐伯」
真壁は面白そうにこちらを見た。
「怪我ですか」
「軽度の炎症です。悪化を避けるため、負荷を制限しています」
「プロなら、それくらい見せられるでしょう」
真壁の声は柔らかかった。
だが、その場にいる大人たちは全員、その言葉が命令であることを理解していた。
優芽が一歩前に出ようとした。
私は視線だけで止めた。
だが、彼女は小さく首を振った。
やる。
そう言おうとしている。
私は優芽に近づき、低い声で言った。
「構成を変えます。ジャンプなし。ターン一回。上半身中心」
「でも」
「それなら見せられます。あなたの価値も落ちません」
優芽は唇を噛み、やがて頷いた。
音源はなかった。
アカペラで、澪が短くリズムを取った。
花音が手拍子を合わせる。
奈々も小さく続いた。
優芽はラウンジの空いたスペースに立った。
派手なジャンプはない。
高速ターンもない。
だが、彼女は腕の軌道、首の角度、指先の流れだけで空気を変えた。
軽く一歩踏み出し、視線を上げる。
髪が揺れる。
最後に、足首へ負荷をかけない小さなターン。
静かで、強いダンスだった。
終わった瞬間、飲料メーカーの宣伝部長が思わず拍手した。
「いいですね。無理に派手じゃなくて、印象に残る」
広告代理店の役員も頷く。
「むしろ商品の方向性に合うかもしれません。透明感がある」
優芽が驚いたようにこちらを見る。
私は小さく頷いた。
ほら。
跳ばなくても、届く。
だが、真壁だけは拍手しなかった。
彼は薄く笑い、黒崎へ視線を向けた。
「なるほど。佐伯さんは、よく止めるマネージャーのようだ」
黒崎常務の表情が曇る。
「申し訳ありません。うちの担当が少々慎重で」
「いえいえ。面白いですよ」
真壁は私を見た。
「ただ、売れるときは一気に行かないと。守りすぎると、鮮度が落ちます」
「人間は生鮮食品ではありません」
言った瞬間、場が止まった。
神田部長の顔が赤くなる。
須藤が目を見開く。
黒崎常務は笑っていない。
真壁だけが、口角を上げた。
「これは手厳しい」
「失礼しました」
「いえ。裏方の意見として、覚えておきます」
裏方。
その言葉には、明らかな侮りが混じっていた。
けれど、私は頭を下げるだけにした。
今ここで勝つ必要はない。
必要なのは、真壁という男が何を狙っているのかを知ることだ。
顔合わせが終わったのは十九時半だった。
本来なら、この後ショート動画撮影、歌割り確認、配信コメント収録が残っている。
ホテルの廊下に出た瞬間、優芽が壁に手をついた。
「優芽!」
花音が駆け寄る。
優芽は笑おうとした。
「ごめん、ちょっと足に力入らなくて」
私はすぐにしゃがみ、足首を確認した。
熱がある。
朝より腫れている。
しかも、膝にも負担が出ている。
「ここで終了します」
私は即断した。
須藤が振り返る。
「何言ってるんですか。この後まだ撮影が」
「橘の足首が悪化しています。これ以上の稼働は中止します」
「中止って、部長承認が必要でしょう」
「緊急対応です」
「大げさですよ。歩けてるじゃないですか」
その瞬間、澪が低い声で言った。
「歩けなくなるまでやらせるんですか」
須藤が顔をしかめる。
「澪ちゃん、そういう言い方は」
「じゃあ、どういう言い方なら聞くんですか」
花音が慌てて澪の腕に触れた。
「澪」
しかし、澪は止まらなかった。
「昨日からずっと、佐伯さんが止めなかったら、私たち休めてないですよね。今日だって、優芽が痛いって言ってるのに、まだ踊らせるんですか」
須藤の表情が冷えた。
「君たち、誰のおかげで仕事があると思ってるの」
奈々がびくりとした。
私は立ち上がった。
「須藤さん」
「佐伯さん、あなたの教育ですか? タレントがスタッフに口答えするなんて」
「体調不良を訴えることは口答えではありません」
「だから大げさだって言ってるんですよ」
「では、今から医療機関に行きます。診断を受け、その結果を報告します」
須藤が詰まった。
「いや、そこまでしなくても」
「必要です。先ほど歩けていると言われましたが、歩行可能かどうかは判断基準の一部でしかありません。悪化すれば今後の稼働に支障が出ます」
「今日の撮影はどうするんですか」
「延期または構成変更です」
「勝手に決めるな!」
「勝手ではありません。現場判断です」
私は黒崎常務へ電話をかけた。
須藤の前で。
数コール後、黒崎が出た。
「何だ」
「佐伯です。橘の足首に悪化が見られるため、本日の残り稼働を中止し、医療機関に向かいます」
「認めない」
「歩行時に痛みと不安定感があります。膝への負担も出ています」
「撮影を終わらせてから行け」
「悪化の可能性があるため、今行きます」
「佐伯」
「この通話も記録に残します」
電話の向こうが静かになった。
「……好きにしろ。ただし、責任は取れ」
「担当として対応します」
通話を切った。
優芽は壁にもたれたまま、泣きそうな顔でこちらを見ていた。
「佐伯さん、すみません」
「謝らない」
私は即座に言った。
「でも、私のせいで」
「怪我を悪化させたのはスケジュールです。あなたではありません」
花音が優芽の荷物を持つ。
澪は奈々の手を引いた。
私はタクシーを手配し、近くの整形外科へ連絡した。夜間対応は難しかったが、業界で付き合いのあるスポーツクリニックが受け入れてくれた。
タクシーに乗り込む直前、真壁がホテルの出口に現れた。
「お帰りですか」
私は足を止めた。
「メンバーの体調対応です」
「大変ですね。売れる前から守るものが多いと」
「守るものがあるから売れるのだと思っています」
真壁は静かに笑った。
「理想論ですね」
「現場論です」
「佐伯さん」
彼は一歩近づいた。
「あなたのような裏方は、今の時代には珍しい。でも、裏方が前に出すぎると、タレントが迷惑しますよ」
「ご忠告ありがとうございます」
「忠告ではありません」
真壁の目が細くなった。
「予告です」
背筋が冷えた。
だが私は表情を変えなかった。
「失礼します」
タクシーのドアが閉まる。
車が走り出すと、優芽が小さく言った。
「あの人、怖いです」
「覚えておいてください」
澪が眉を寄せる。
「何を?」
「あの人が、私たちにどういう目を向けていたか」
花音が静かに頷いた。
「商品を見る目、でした」
私は否定しなかった。
クリニックで診察を受けた結果、優芽の足首は軽い捻挫と炎症。数日の負荷制限が必要と診断された。幸い、重症ではなかった。
幸い。
今日止めたからだ。
あと二時間撮影していたら、どうなっていたかわからない。
私は診断書の写しを受け取り、会社へ報告した。
橘優芽、右足関節捻挫および炎症。数日間の高負荷運動制限が必要。
本日の残り稼働は中止。
明日以降の振付・撮影内容について調整必須。
神田部長から返事はなかった。
代わりに、社内共有チャットに一文だけ投稿された。
佐伯の判断により、本日夜の撮影は中止。関係各所に迷惑が発生。
私はそれを見て、静かにスクリーンショットを保存した。
そして返信する。
医師の診断に基づく緊急対応です。
診断内容および今後の制限事項は関係者へ共有します。
既読はついたが、誰も反応しなかった。
クリニックを出たのは二十一時過ぎだった。
本来ならまだ撮影中だった時間だ。
タクシーでそれぞれを送る前に、私は四人へ言った。
「今日はここで解散です。帰宅後、食事と入浴を済ませてください。優芽さんは足を冷やし、指示された通り固定してください。全員、エゴサは禁止です」
優芽が小さく手を上げた。
「質問」
「はい」
「今日のこと、私のせいじゃないって、もう一回言ってもらっていいですか」
声は明るくしようとしていた。
でも、震えていた。
私は彼女の目を見た。
「優芽さんのせいではありません」
「本当に?」
「本当に」
「……わかりました」
優芽は下を向いた。
その肩が少し震えていた。
奈々が隣からそっと手を握る。
花音は何か言いたげに唇を結び、澪は窓の外を睨むように見ていた。
怒り。
悔しさ。
安堵。
恐怖。
それぞれの感情が、狭いタクシーの中で交差していた。
私はスマートフォンを開き、今日の記録を整理し始めた。
そこへ、知らない番号から着信があった。
出るべきか迷ったが、仕事用端末だったため応答する。
「佐伯です」
電話の向こうで、男性の声がした。
「夜分にすみません。週刊トーチの相沢と申します」
記者。
私は表情を変えず、車内の四人に聞こえないよう少し声を落とした。
「どのようなご用件でしょうか」
「白石瑠璃さんの件で、以前一度お名刺をいただいたことがあります」
思い出した。
相沢慎一。
芸能ゴシップではなく、労務問題や業界構造の記事を書く記者だ。過去に瑠璃の過密スケジュールについて取材を申し込まれたことがある。当時はまだ記事にする段階ではなく、私は丁寧に断った。
「覚えています」
「単刀直入に言います。LumiRiseの件で、少し妙な情報が入っています」
私は窓の外を見た。
街灯が流れていく。
「妙な情報とは」
「彼女たちの売り出しに、レイヴンエンターテインメントが関わっていませんか」
心臓が、一度だけ強く鳴った。
真壁。
今日の顔合わせ。
予告。
「なぜ、そう思うのですか」
「まだ裏取り中です。ただ、広告代理店経由で妙な資金の流れがある。さらに、LumiRiseに関するネガティブ投稿の準備らしき動きも見えています」
「ネガティブ投稿?」
「はい。まだ出ていません。ただ、炎上の種を仕込むようなアカウント群が動き始めている」
私は目を細めた。
SNS炎上。
七話以降で起きるはずの火種が、もう見え始めている。
「相沢さん」
「はい」
「今の話、どこまで確認済みですか」
「確定ではありません。だから、あなたに連絡しました。佐伯さんなら、現場側で違和感を掴んでいるかもしれないと思って」
私はすぐには答えなかった。
記者を味方にするのは危険だ。
情報は力になるが、扱いを間違えるとタレントを傷つける刃にもなる。
今、LumiRiseはまだ弱い。
不用意に外へ出せば、彼女たちが矢面に立たされる。
「現時点で、こちらからお話しできることはありません」
「もちろんです。ですが、気をつけてください」
「何に」
「近いうちに、LumiRiseの誰かを狙った炎上が起きるかもしれません」
電話の向こうで、相沢は低く言った。
「しかも、自然発生ではなく、仕組まれた形で」
通話が終わった後も、私はしばらくスマートフォンを握っていた。
仕組まれた炎上。
レイヴン。
真壁。
黒崎常務。
神田部長。
過密スケジュール。
休ませるなという命令。
すべてが、少しずつ線でつながり始めている。
隣の席で、奈々が眠っていた。
花音がその肩を支えている。
優芽は足首を固定したまま、ぼんやり窓の外を見ていた。
澪だけが、私を見ていた。
「また、何かありました?」
「確認中です」
「それ、何かあるときの言い方ですよね」
私は少しだけ笑った。
「よく見ていますね」
「佐伯さんも、私たちのことよく見てるので」
澪はそう言って、前を向いた。
「私たちも見ます。佐伯さんが一人で抱え込まないように」
その言葉に、胸の奥が静かに揺れた。
担当初日、彼女は「見てます」と言った。
それは警戒だった。
今の「見ます」は、少し違っていた。
信頼と呼ぶにはまだ早い。
けれど、背中に向けられる視線が、疑いだけではなくなっている。
タクシーは夜の街を進む。
スポットライトの外側で、敵はもう動き始めている。
ならば、こちらも止まれない。
今日、私は現場判断で仕事を止めた。
会社は私を責めるだろう。
幹部は私を邪魔者として扱うだろう。
真壁は、予告だと言った。
だが、それでも構わない。
優芽は歩けなくなる前に止まった。
奈々は眠れた。
花音は一人で抱え込まなくていいと知った。
澪は怒りを言葉にできた。
それだけで、今日の判断には意味がある。
私はスマートフォンを開き、LumiRise記録フォルダに新しい項目を作った。
外部関与・炎上準備疑惑。
その下に、今日起きたことを一つずつ入力する。
真壁亮司の同席。
優芽へのダンス要求。
黒崎常務の反応。
須藤の発言。
相沢記者からの情報。
そして最後に、短く書いた。
近く、LumiRiseを標的としたSNS炎上が発生する可能性あり。
事前対策が必要。
夜の窓に、私の顔が映っていた。
疲れている。
目の下には隈もある。
それでも、まだ折れていない。
裏方は、拍手を浴びない。
けれど、裏方には裏方の戦い方がある。
誰かが仕組んだ火なら、燃え広がる前に火元を探す。
誰かが彼女たちを商品として壊そうとするなら、壊れる前に証拠を集める。
そして、いつか必ず突きつける。
あなたたちが軽んじた裏方は、ただ荷物を持っていただけではない。
全部、見ていたのだと。




