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第3話 休ませるなという命令

翌朝四時半、まだ街が眠っている時間に、私は局入り用の車へ乗り込んだ。


 空は青ではなく、黒に近い群青色だった。ビルの窓明かりだけが点々と残り、道路は昼間の渋滞が嘘のように空いている。芸能の仕事は華やかに見えるが、実際の朝はたいてい冷たい。眠気と、焦りと、缶コーヒーの匂いで始まる。


 助手席でタブレットを開き、LumiRiseのグループチャットを確認する。


 四時十二分、花音。


起床しました。睡眠時間六時間です。体温36.4度。喉、問題ありません。


 四時十五分、優芽。


起きました! 睡眠六時間半! 足首は昨日より少し楽です。体温36.3度。


 四時十八分、奈々。


起きました。六時間寝ました。体温36.5度です。少し眠いけど大丈夫です。


 四時二十三分、澪。


起きました。睡眠五時間半。体温36.2度。喉が少し乾くくらいです。


 私は返信する。


ありがとうございます。移動中は声を使わず、水分を取ってください。局入り後に喉と足首を確認します。


 すぐに優芽からスタンプが返ってきた。


 奈々からは「はい」とだけ届いた。


 澪は既読のみ。


 それでいい。


 信用は一晩で育つものではない。


 テレビ局の正面玄関に着いたのは五時十五分だった。早朝だというのに、搬入口にはすでに多くの車が並び、スタッフが無線を片手に走っている。大型機材を積んだトラック。弁当を運ぶ業者。眠そうな顔の出演者。局内は、外の暗さとは無関係に動き始めていた。


「佐伯さん、おはようございます」


 先に着いていた花音が頭を下げた。


「おはようございます。全員揃っていますか」


「はい」


 控室に入ると、LumiRiseの四人が並んでいた。昨日より顔色はいい。少なくとも、目の下の隈は少し薄くなっている。奈々の頬にも血色が戻っていた。


 私は全員の様子を確認し、優芽の足首を見た。


「痛みは十段階で?」


「昨日が五なら、今日は三くらいです」


「ジャンプはなし。階段もなるべく避けます」


「はーい」


「返事が軽いです」


「業務指示、了解です」


 優芽がわざと真面目な顔で敬礼する。


 奈々が小さく笑った。


 その笑いを見て、私は少しだけ安心した。


 控室には、テレビ局が用意した軽食が置かれていた。サンドイッチ、バナナ、ヨーグルト、温かいお茶。私は内容を確認し、四人に食べられる量を取らせた。


「本番前に食べると緊張で気持ち悪くなる人は?」


 奈々がおずおずと手を上げた。


「少しだけで構いません。空腹のままより、ひと口入れてください」


「はい」


 澪はサンドイッチを手にしたまま、私を見ていた。


「何ですか」


「いや。昨日の今日で、本当に朝ごはんの確認するんだと思って」


「昨日言いましたから」


「言ったこと、守るタイプなんですね」


「守れないことは言わないようにしています」


 澪はふっと視線を落とし、サンドイッチを小さくかじった。


 六時過ぎ、リハーサルが始まった。


 今日の出演は、新曲の告知を兼ねた生パフォーマンスと、短いトークコーナー。持ち時間は六分。短いが、全国放送の朝番組で六分は大きい。ここで印象を残せれば、予約数にも認知度にも直結する。


 スタジオは冷えていた。照明が入る前のセットは、画面で見るよりもずっと無機質だ。スタッフの声、カメラの移動音、出演者の足音が響く。


「LumiRiseさん、立ち位置お願いします」


 四人が所定の位置につく。


 リハーサル用の音源が流れた。


 澪の歌い出し。


 花音の目線。


 優芽の腕の動き。


 奈々の表情。


 昨日のレッスンで調整したことが、きちんと反映されている。優芽は足首をかばいながらも、不自然に見えない動きを選んでいた。花音は無意識に全員の間隔を整え、澪はマイクの入りを確認しながら声を温存している。


 奈々だけが、少し硬い。


 カメラが近づくたびに肩が上がる。


 リハが終わると、私は奈々を呼んだ。


「三枝さん」


「はい」


「カメラが怖いですか」


 奈々はぎくりとした。


「怖いっていうか……生放送だと思うと、失敗したらどうしようって」


「失敗しても、世界は終わりません」


「でも、切り抜かれます」


 その言葉は、十五歳の少女が言うにはあまりに現実的だった。


「変な顔とか、音外したところとか、すぐ広まります。前に一回、私が振り間違えた動画が出回って……コメントで、辞めろって」


 花音が近くで表情を曇らせた。


 優芽が明るい声を作ろうとして、途中でやめた。


 澪は黙って奈々を見ている。


 私は奈々の前に立ち、カメラの方向を示した。


「今日見るのは、カメラの奥です」


「奥?」


「カメラそのものを見ると、機械に見えます。でも、その奥にいるのは人です。あなたを応援している人もいます。朝、学校へ行く前に見ている子もいるかもしれません。仕事前に元気をもらおうとしている人もいるかもしれません」


 奈々はゆっくり顔を上げた。


「悪意のある人ではなく、届いてほしい人を見る。全員に好かれようとしなくていいです」


「全員に……」


「全員に好かれる人はいません。好かれる必要もありません」


 澪が小さく息を吐いた。


「それ、アイドルに言っていいんですか」


「言います。全員に好かれようとすると、最初に本人が壊れます」


 澪は何も返さなかった。


 だが、その言葉を否定もしなかった。


 本番二十分前、控室に戻ると、花音が台本を確認していた。リーダーとしてトークを回す役割がある。優芽は足首を軽く回しながら、無理のない動きを確認している。奈々は温かいお茶を両手で持ち、澪はイヤホンで音源を小さく聞いていた。


 順調だ。


 少なくとも、昨日深夜まで配信をさせていたら、この状態ではなかった。


 私は本番前の確認を終え、廊下に出た。


 そこで、営業部の須藤と鉢合わせた。


 昨日の会議室で神田と笑っていた男の一人だ。三十代後半。細身のスーツに、妙に馴れ馴れしい笑顔。テレビ局や広告代理店との飲み会に顔が広いことを自慢するタイプだった。


「佐伯さん、お疲れさまです」


「お疲れさまです」


「いやあ、昨日は大変でしたね。配信、止めたんですって?」


「内容を変更しました」


「言い方ですよ、それ」


 須藤は笑いながら近づいてきた。


「でもまあ、数字出てましたね。オフショット作戦、悪くなかったです」


「ありがとうございます」


「ただね、常務はご立腹ですよ。神田部長も」


「承知しています」


「承知してるなら、もう少し空気読んだほうがいいんじゃないですか」


 私は須藤を見る。


「空気とは?」


「会社の方針ですよ。LumiRiseは今、勝負の時期です。多少無理してでも露出を取らないと。本人たちも売れたいって言ってるんだから」


「売れたいことと、倒れていいことは別です」


「またそれだ」


 須藤は苦笑した。


「佐伯さん、タレントに優しすぎるんですよ。だから白石瑠璃のときも、現場から面倒くさいって言われてたんじゃないですか?」


 私は答えなかった。


 白石瑠璃の名前を軽く使われることに、少しだけ胸が冷えた。


 瑠璃は、自分の喉を守るために何度も頭を下げた。休むことを謝り、断ることを怖がり、それでも歌いたいと言った。私は彼女の代わりに矢面に立っただけだ。


 それを「面倒くさい」と呼ぶ人間には、何を説明しても無駄だ。


 須藤はさらに声を潜めた。


「今日の本番後、囲み取材を追加で入れます」


「聞いていません」


「今言いました」


「何時からですか」


「九時半くらい。三十分程度。あと、局内のネット番組にも軽く顔を出してもらうかも」


「本日の予定には入っていません。学校対応と休憩時間の確認が必要です」


「だから、軽くですよ。挨拶みたいなものです」


「軽い仕事ほど、記録に残らず積み上がります」


 須藤の笑顔が少し硬くなった。


「佐伯さんさあ」


「はい」


「本当に、売る気あります?」


「あります」


「なら、露出を断らないでください。チャンスなんだから」


「チャンスかどうかは、条件を見て判断します」


「条件、条件って……」


 須藤が言いかけたとき、廊下の向こうから番組スタッフが呼びに来た。


「LumiRiseさん、本番前スタンバイお願いします」


「すぐ行きます」


 私は須藤に向き直った。


「囲み取材とネット番組については、依頼内容を文面で送ってください。拘束時間、媒体名、使用目的、出演者、公開範囲を確認します」


 須藤は舌打ちに近い息を吐いた。


「本当に面倒な人ですね」


「よく言われます」


「褒めてませんよ」


「承知しています」


 私は控室へ戻った。


 本番前の四人は、静かだった。


 緊張している。


 それでも昨日より、目が死んでいない。


「行きましょう」


 花音が頷く。


「はい」


 スタジオの空気は、本番直前になると一変する。


 照明が入り、カメラが動き、フロアディレクターが秒数を数える。出演者たちの表情に笑顔が貼られ、音楽が流れ、テレビの中の朝が作られていく。


「続いては、今注目の若手ガールズグループ、LumiRiseの皆さんです!」


 司会者の明るい声。


 拍手。


 カメラが四人を捉える。


「おはようございます! LumiRiseです!」


 花音の声を合図に、四人が揃って頭を下げた。


 トークは短かったが、うまくいった。


 花音がグループ紹介をし、優芽が新曲の振り付けポイントを笑顔で説明する。澪は曲に込めた思いを簡潔に語り、奈々は少し緊張しながらも、司会者に「朝ごはんは食べましたか?」と聞かれて「今日はちゃんと食べてきました」と答えた。


 スタジオに笑いが起きた。


 私はモニターの前で思わず息を止めた。


 その答えは、作られた宣伝文句よりずっと良かった。


 視聴者は、完璧なアイドルだけを見たいわけではない。ちゃんと朝ごはんを食べて、緊張しながらも前に立っている少女の姿に、心を動かされることがある。


 そして新曲のパフォーマンス。


 イントロが流れた瞬間、四人の空気が変わった。


 澪の歌声は朝のスタジオにまっすぐ伸びた。力みすぎず、けれど芯がある。花音は安定して全体を支え、優芽は足首の不安を感じさせない表情で踊った。奈々は一度だけカメラに怯えかけたが、すぐに視線を上げた。


 カメラの奥を見る。


 昨日伝えたことを、彼女は覚えていた。


 最後のポーズが決まる。


 一瞬の静寂。


 そして、スタジオに拍手が起きた。


 番組スタッフの一人が、モニターの横で小さく言った。


「いいじゃん、この子たち」


 私はその言葉を聞き逃さなかった。


 本番終了後、四人は控室へ戻るなり、ほぼ同時に息を吐いた。


「終わった……!」


 優芽が椅子に座り込む。


「足は?」


「大丈夫です。ちょっと張ってるくらい」


「冷やします」


「はい、業務指示ですね」


 優芽は素直に足を出した。


 奈々は両手で顔を覆っている。


「私、変なこと言いましたか?」


「朝ごはんの話ですか」


「はい……」


「良かったです」


「本当ですか?」


「本当です。自然でした」


 奈々はほっとしたように笑った。


 花音はスマートフォンを見ていた。番組放送後、公式アカウントの通知が急増している。


「反応、いいです」


「今は全部見ないでください」


「はい。ざっとだけ」


「ざっとも危険です」


 花音は苦笑してスマートフォンを伏せた。


「わかりました」


 澪は少し離れたところで水を飲んでいた。


「澪さん、喉は?」


「平気です」


「違和感があればすぐ言ってください」


「……本当に確認細かいですね」


「仕事なので」


「でも、悪くないです」


 それだけ言うと、澪はそっぽを向いた。


 私は少しだけ笑いそうになったが、表情には出さなかった。


 そのとき、控室のドアがノックもなく開いた。


 須藤だった。


「お疲れ! 良かったよ、すごく良かった!」


 明るい声。


 嫌な予感がした。


「このあと、さっき言った囲み取材いけるよね? それと、局の公式ネット番組が十時から十五分だけ欲しいって。朝番組の反応がいいから、今出るべきだよ」


 四人の顔に緊張が戻る。


 私は立ち上がった。


「文面での依頼は確認できていません」


「今、先方が直接言ってるんだからいいでしょ。現場判断で」


「現場判断として、即答しません」


「は?」


「メンバーの休憩、学校、次の予定への影響を確認します」


 須藤の笑顔が消えた。


「佐伯さん、今の流れ見てた? 反応いいんですよ。ここで追加露出を取らないマネージャーがどこにいるんですか」


「追加露出を取るマネージャーはいます。条件を確認せずに入れるマネージャーはいません」


「いるでしょう、普通に」


「それを普通にした結果が、昨日までの状態です」


 須藤の目が鋭くなった。


 花音が息を呑む。


 澪がこちらを見た。


 優芽は氷嚢を足首に当てたまま、黙っている。


 奈々は不安そうに視線を揺らした。


 須藤は声を低くした。


「常務からも言われています。今日、反応が良ければ露出を増やせと」


「どの範囲で?」


「だから、臨機応変に」


「その臨機応変の責任者は誰ですか」


「何?」


「出演後に体調不良が出た場合、誰が責任を取りますか。未成年者の学校対応が遅れた場合、誰が説明しますか。契約外の媒体露出で肖像使用の問題が出た場合、誰が処理しますか」


「そんな大げさな」


「大げさに見える段階で止めるのが管理です」


 須藤は私を睨んだ。


「あなた、現場を止めたいだけなんじゃないですか」


「違います」


「タレントを守るふりして、自分の正しさを押し通したいだけでは?」


 その言葉に、胸の奥が少しだけ冷えた。


 似たような言葉を、私は何度も聞いてきた。


 正義感が強すぎる。


 自分が気持ちよくなりたいだけ。


 タレントを盾にしている。


 会社に逆らう自分に酔っている。


 そう言われるたびに、少しずつ傷は増える。


 けれど、その傷を理由に黙れば、次に傷つくのは担当タレントだ。


「須藤さん」


 私は静かに言った。


「本日の追加出演について、正式な依頼が確認できるまでは受けません。囲み取材は十分快以内、質問範囲を新曲と今朝の出演感想に限定するなら検討します。ネット番組は、現時点では不可です」


「不可?」


「はい」


「常務命令でも?」


 控室の空気が凍った。


 黒崎常務。


 その名前は、この会社では十分な圧力になる。


 だが、私は頷いた。


「常務命令であれば、命令内容を文書でください」


 須藤は笑った。


 冷たい笑いだった。


「本当に、会社員向いてないですよ」


「よく言われます」


「褒めてません」


「承知しています」


 須藤は乱暴にスマートフォンを取り出し、どこかへ電話をかけながら控室を出ていった。


 ドアが閉まる。


 誰もすぐには話さなかった。


 やがて、優芽がぽつりと言った。


「佐伯さん、怖くないんですか」


「何がですか」


「常務とか、部長とか。ああいう人に逆らうの」


「怖くないわけではありません」


 私は正直に答えた。


 四人がこちらを見る。


「怖いです。仕事を失う可能性もあります。業界で悪く言われる可能性もあります。担当を外されるかもしれません」


「じゃあ、どうして」


 奈々が小さく聞いた。


「怖いから止めない、を続けると、もっと怖いことになるからです」


 私は優芽の足首に巻いた冷却材を確認した。


「倒れる。怪我を悪化させる。声が出なくなる。心が折れる。そうなってからでは遅いので」


 花音が膝の上で手を握った。


「私、前に一度だけ、休ませてほしいって言ったことがあります」


 その声は静かだった。


「奈々が熱を出したときです。でも、前の担当さんに、リーダーならメンバーにプロ意識を教えろって言われました。私が甘やかすから奈々が弱いんだって」


 奈々が顔を伏せた。


「違う」


 澪が短く言った。


「奈々は弱くない」


「澪ちゃん……」


「熱があるのにステージ出したほうがおかしい」


 澪の声には怒りがあった。


 優芽も頷く。


「あのとき、奈々、終わったあと裏で倒れたじゃん」


 私はメモを取る手を止めた。


「いつの話ですか」


「二か月前です」


 花音が答える。


「地方のショッピングモールイベントです。前日から奈々が三十八度近くあって。でも、代わりはいないから出ろって」


「医療機関には?」


「行ってません。解熱剤飲んで、本番だけ出ました」


 私は目を閉じたくなった。


 だが閉じなかった。


 見なければならない。


 それが、この会社で起きていたことだ。


「その件も、後で時系列を確認させてください」


「今さら、何かできますか」


 花音が尋ねた。


「できます」


 私は答えた。


「少なくとも、二度と同じことを起こさないための記録になります」


 澪が低く言った。


「記録ばっかりですね」


「はい」


「でも、ちょっとわかってきました」


 彼女は腕を組み、壁にもたれた。


「記録って、武器なんですね」


「使い方を間違えなければ」


 私はそう返した。


 結局、囲み取材は十分間だけ実施した。


 質問範囲は新曲と今朝の出演感想に限定。ネット番組出演は断った。須藤は最後まで不満そうだったが、テレビ局側のプロデューサーが「未成年メンバーもいるし、今日はここまでで」と言ってくれたことで、押し切られずに済んだ。


 現場の全員が無茶を望んでいるわけではない。


 ただ、誰かが最初に「止める」と言わなければ、流れは止まらない。


 局を出たのは十時四十分。


 次の予定は午後の取材一本と、夕方の振付確認。私は移動車の中で、休憩時間を確保するようスケジュールを組み直した。


 その矢先、会社から緊急会議の招集が入った。


 差出人は黒崎常務。


本日十三時、第一会議室。

LumiRise稼働方針について。

佐伯、必ず出席。


 私は画面を見て、静かに息を吐いた。


 来た。


 昨日と今日の判断は、数字だけ見れば失敗ではない。むしろ朝番組の反応は良く、代替投稿も成果を出した。


 だが、上層部にとって問題なのは成果ではない。


 私が、勝手に止めたこと。


 口頭命令を文書化しろと言ったこと。


 現場の流れより、タレントの状態を優先したこと。


 彼らにとって、それは管理しにくい人間の証拠だ。


 私はLumiRiseの四人を一度自宅と学校対応へ向かわせ、単独で会社へ戻った。


 第一会議室に入ると、すでに黒崎常務、神田部長、須藤、営業部長、宣伝部長が揃っていた。


 空気は悪い。


 席につく前から、神田が口を開いた。


「佐伯。お前、担当二日目で何件現場を止めた?」


「止めた案件と変更した案件があります。内訳を報告します」


「そういう話じゃない」


 黒崎常務が手を上げ、神田を制した。


「佐伯。今日の朝番組の反応は悪くなかった」


「ありがとうございます」


「だが、それとこれとは別だ」


 黒崎は資料を机に置いた。


「LumiRiseは今、会社として売り出し予算をかけている。広告費、衣装費、楽曲制作費、振付、レッスン、メディア枠。すべて投資だ。投資した以上、回収しなければならない」


「理解しています」


「理解しているなら、露出を削るな」


 黒崎の声が低くなる。


「お前は昨日、深夜配信を変更した。今日、ネット番組を断った。囲み取材も制限した。スポンサーへの印象が悪くなる可能性を考えたのか」


「長期的な稼働維持と炎上リスクを考えました」


「炎上?」


 神田が鼻で笑った。


「便利な言葉だな。何でも炎上リスクと言えば断れると思ってるのか」


「疲労状態の未成年メンバーを予定外の番組に出し、発言ミスや体調不良が起きた場合、拡散される可能性があります」


「そんなもの、売れてから考えろ」


 私は神田を見た。


「売れる前に壊れたら、考える機会もありません」


 神田が机を叩いた。


「またそれか!」


 会議室が静まる。


 黒崎常務は、ゆっくり背もたれに体を預けた。


「佐伯。お前の言い分はわかった。だが、会社の方針は違う」


 嫌な沈黙が落ちた。


「LumiRiseには、今後三か月、露出強化期間として通常の二倍の稼働をしてもらう。休みは原則なし。学校対応は最低限。体調不良は医師の診断書がある場合のみ考慮。それ以外は現場判断で休ませるな」


 休ませるな。


 その言葉が、会議室の空気に重く沈んだ。


 私は黒崎を見た。


「今の内容を、議事録に残してよろしいですか」


 黒崎の目が細くなった。


「何?」


「休みは原則なし。学校対応は最低限。体調不良は診断書がある場合のみ考慮。それ以外は現場判断で休ませるな。以上を、LumiRise稼働方針として議事録に記載してよろしいですか」


 須藤が小さく顔をしかめた。


 宣伝部長は視線を逸らす。


 神田が怒鳴った。


「揚げ足を取るな!」


「確認です」


「常識で考えろ!」


「常識で考えるために、文言を確認しています」


 黒崎常務は黙って私を見ていた。


 数秒後、彼は薄く笑った。


「お前は本当に面倒だな」


「よく言われます」


「褒めていない」


「承知しています」


 会議室の端で、宣伝部長がわずかに肩を震わせた。笑いを堪えたのかもしれない。すぐに真顔に戻ったが。


 黒崎は指で机を叩いた。


「議事録に残す必要はない。方針として理解しろ」


「口頭指示ということですね」


「佐伯」


「はい」


「会社に従えないなら、担当を外す」


 その言葉は、はっきりとした脅しだった。


 私は少しの間、黙った。


 担当を外される。


 それは十分にあり得る。


 今外されれば、LumiRiseはまた前のような扱いに戻るかもしれない。いや、私に逆らった見せしめとして、さらに過酷なスケジュールを組まれる可能性もある。


 ここで正面からぶつかれば、私だけではなく彼女たちに跳ね返る。


 だから、私は言葉を選んだ。


「会社方針は理解しました」


 神田が勝ち誇ったように鼻を鳴らした。


 だが、私は続けた。


「ただし、現場で安全上の問題が発生した場合、担当マネージャーとして必要な判断を行います。その判断理由はすべて記録し、結果とともに報告します」


「だから、休ませるなと言っている!」


「倒れた場合は休ませます」


「倒れる前に働かせろ!」


「倒れる前に止めます」


 会議室が完全に静まり返った。


 黒崎常務の表情から、笑みが消えた。


 私は視線を逸らさなかった。


「それが私の仕事です」


 沈黙。


 長い沈黙だった。


 やがて黒崎は、低い声で言った。


「出ていけ」


 私は立ち上がり、頭を下げた。


「失礼します」


 会議室を出た瞬間、背後で神田の怒鳴り声が聞こえた。


「何なんだよ、あの女は!」


 扉が閉まり、声は遮られた。


 廊下に出ると、緊張で手のひらに汗をかいていることに気づいた。


 怖くないわけがない。


 だが、言った。


 倒れる前に止める。


 その一線だけは譲れなかった。


 デスクに戻ると、私はすぐに会議の内容を記録した。


 日時。


 出席者。


 発言要旨。


 口頭方針。


 担当外しの示唆。


 そして、最後に自分の発言。


現場で安全上の問題が発生した場合、担当マネージャーとして必要な判断を行う。

倒れる前に止める。


 保存。


 LumiRise記録フォルダに格納。


 その直後、社内メールが届いた。


 神田部長からだった。


件名:LumiRise今後の稼働について

本日より、全スケジュール変更は部長承認制とする。

佐伯の独断によるキャンセル・変更は禁止。

違反した場合、担当変更を検討する。


 私はそのメールも保存した。


 そして、返信する。


承知しました。

ただし、現場で急病・負傷・未成年者保護・法令または契約上の懸念が生じた場合は、緊急対応として判断し、事後報告いたします。


 送信。


 数分後、個人用スマートフォンが震えた。


 LumiRiseのグループチャットではなく、花音からの個別メッセージだった。


佐伯さん、会社で何かありましたか?


 私は画面を見つめた。


 どこまで伝えるべきか。


 不安にさせる必要はない。


 だが、何も言わなければ、彼女たちは空気で察し、自分たちのせいだと思う。


 私は短く返した。


今後のスケジュールについて話し合いました。

皆さんが安心して活動できるよう、調整を続けます。

今日の午後まで、まず休んでください。


 すぐに既読がついた。


 返信は少し遅れて来た。


私たちのせいで、佐伯さんが怒られているなら、すみません。


 私はすぐに打った。


違います。

これは私の仕事です。

謝らないでください。


 送信してから、椅子の背にもたれた。


 目を閉じると、今朝のステージが浮かんだ。


 澪の歌声。


 花音の落ち着いた進行。


 優芽の怪我を感じさせない表現。


 奈々がカメラの奥を見た瞬間。


 あの光を、会社は商品と言う。


 投資回収と言う。


 休ませるなと言う。


 私は目を開けた。


 ならば、こちらも準備を進める。


 言葉だけでは守れない。


 記録だけでも足りない。


 味方が必要だ。


 社内に。


 現場に。


 業界に。


 そして、いつか外へ出るための道筋が。


 その日の夕方、LumiRiseの公式アカウントには、朝番組出演後の感想動画が投稿された。


 四人は短く礼を言い、最後に奈々が少し照れながら言った。


「今日はちゃんと朝ごはんを食べました」


 コメント欄には、温かい言葉が並んだ。


そこ大事

ちゃんと食べてて偉い

無理しないで続けてね

今日のパフォーマンス最高だった

LumiRise、応援したくなった


 私はその反応を見て、静かに数字を記録した。


 好感度は作れる。


 だが、嘘では続かない。


 彼女たちがちゃんと人として扱われていること。


 それが伝われば、ファンは応援してくれる。


 少なくとも、私はそう信じている。


 夜、会社を出る前に、デスクの電話が鳴った。


 内線ではない。


 外線だった。


「はい、スターリット・プロダクション、佐伯です」


 少しの沈黙。


 そして、聞き覚えのある女性の声。


「美月さん?」


 私は息を止めた。


「……瑠璃?」


 白石瑠璃。


 私が三年間担当し、昨日正式に外された歌手。


 電話の向こうで、彼女は静かに言った。


「聞きました。LumiRiseの担当になったって」


「ええ」


「また、戦ってるんですね」


 その言葉に、胸の奥が少しだけ痛んだ。


「戦っているつもりはないわ」


「嘘。美月さんはいつもそう言う」


 瑠璃は小さく笑った。


 懐かしい声だった。


 だが、その笑いには少し緊張が混じっている。


「LumiRiseのこと、守ってあげてください」


「そのつもりです」


「でも、気をつけて」


 瑠璃の声が低くなった。


「あの会社、今かなりおかしいです。私のときより、もっと」


「何か知っているの?」


 電話の向こうで、瑠璃が息を吸う音がした。


「まだ電話では言えません。でも……LumiRiseの売り出し、普通じゃない。予算の出どころも、スポンサーの組み方も、変です」


 私はペンを取った。


「瑠璃、詳しく」


「ごめんなさい。今はここまで。私もまだ確証がないから」


「わかった」


「美月さん」


「何?」


「あの子たち、たぶんただの新人グループじゃないです。誰かの都合で、急いで売られようとしてる」


 背筋に冷たいものが走った。


 急いで売られようとしている。


 それは、私がこの二日間で感じていた違和感と重なった。


 過密すぎるスケジュール。


 深夜配信への執着。


 無理な露出追加。


 常務の焦り。


 ただ売りたいだけにしては、どこか歪んでいる。


「瑠璃、ありがとう」


「美月さんこそ、無理しないで」


「私は大丈夫」


「それ、私にも何回も言ってました」


 瑠璃は少しだけ笑い、それから真面目な声に戻った。


「必要なら、私、証言します」


 私は目を閉じた。


 その言葉の重さを、彼女はわかっている。


 スターリットで売れているアーティストが会社に逆らう。


 それは簡単なことではない。


「まだ、その段階ではないわ」


「でも、いつか来るんでしょう?」


 私は答えなかった。


 瑠璃はそれを肯定と受け取ったようだった。


「そのときは、呼んでください」


 通話が切れた。


 私はしばらく受話器を持ったまま動けなかった。


 味方は、最初から大きく現れるわけではない。


 そう思っていた。


 だが今、過去に守ったタレントが、未来のために手を伸ばそうとしている。


 私は受話器を置き、ノートに一行書き足した。


白石瑠璃より情報提供。LumiRise売り出し予算・スポンサー構成に違和感あり。


 そして、さらに下へ書いた。


確認事項:予算出どころ、契約内容、スポンサー、ライバル事務所との関係。


 ただの過密スケジュールではない。


 ただの上層部の横暴でもない。


 LumiRiseの裏には、もっと大きな何かがある。


 私はデスクライトだけが灯る夜のオフィスで、静かに息を吐いた。


 休ませるなという命令。


 それは、この会社が彼女たちをどう扱うつもりなのかを、はっきり示していた。


 ならば、私は逆のことをする。


 休ませる。


 食べさせる。


 記録する。


 味方を増やす。


 そしていつか、彼女たちが自分の意思でステージに立てる場所へ連れていく。


 裏方扱いで構わない。


 口うるさいと嫌われても構わない。


 ただし、忘れないでほしい。


 裏方は、見えていないだけで、何も知らないわけではない。


 スポットライトの外側から、私は全部見ている。


 誰が彼女たちを削り、誰が利益を得て、誰が嘘をついているのか。


 全部、記録に残している。

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