第2話 倒れる前に止める人
雑誌撮影のスタジオは、恵比寿の古いビルの地下にあった。
入口の階段を下りた瞬間、熱気とライトの匂いが鼻をついた。白い壁、むき出しの配管、天井から吊られた照明機材。メイク台の周りには衣装ラックが並び、スタッフが忙しなく行き交っている。
「LumiRiseさん入りました!」
制作進行の声に、スタジオ中の視線がこちらへ向いた。
その中に、歓迎の色はほとんどなかった。
売れかけの若手アイドル。
急に差し込まれた撮影。
タイトなスケジュール。
現場からすれば、面倒な案件だ。
私はすぐに制作進行の女性へ歩み寄った。
「本日からLumiRiseを担当します、佐伯です。よろしくお願いいたします」
「え、担当さん変わったんですか?」
「はい。引き継ぎが不十分な点もあるので、確認しながら進めさせてください」
名刺を渡すと、彼女はちらりと時計を見た。
「押しているので、すぐメイクに入っていただきたいです」
「承知しました。ただ、その前に控室を確認します」
「控室ですか? 一応、奥の小部屋ですけど」
案内されたのは、倉庫のような部屋だった。
折りたたみ椅子が三脚。テーブルが一つ。壁際には使っていない撮影小物が積まれている。四人が荷物を置いて休むには狭い。換気も悪く、空気がこもっていた。
私は部屋を一瞥し、制作進行に向き直った。
「別室はありますか」
「えっと、上の会議室なら空いてますけど、そこは編集部さん用で……」
「十五歳のメンバーがいます。着替えと休憩を兼ねるので、施錠できる部屋をお願いします」
制作進行は困った顔をした。
「でも、皆さんここを使っていただいていて」
「では、編集部のご担当者に確認します。こちらから話します」
私は語尾を柔らかくした。
責める必要はない。
現場のスタッフも、限られた条件で回している。責めるべきは、何も確認せずに仕事だけ詰め込んだ会社側だ。
数分後、私たちは上階の会議室を使えることになった。
四人分の椅子、テーブル、鏡、コンセント。窓もある。完璧ではないが、最低限の休憩は取れる。
「すみません、急に」
花音が申し訳なさそうに言った。
「謝ることではありません」
「前は、控室がなくても我慢してって言われていたので」
「それは我慢ではなく、管理不足です」
私がそう言うと、優芽が小さく笑った。
「佐伯さん、言い方がばっさりしてますね」
「曖昧にすると、誰かが我慢することになります」
「それ、ちょっと好きです」
優芽はそう言って、椅子に腰を下ろした。
だが、座った途端に表情がわずかに歪んだ。
私は見逃さなかった。
「橘さん、足ですか」
「え?」
「今、右足をかばいました」
「ああ、大丈夫です。ちょっと筋肉痛で」
「いつから?」
「昨日の夜くらいです」
「痛みは膝、足首、ふくらはぎのどこですか」
優芽は一瞬、笑ってごまかそうとした。
けれど、私が黙って待っていると、観念したように右足首を指した。
「ここです。でも本当に平気です。今日の撮影、ダンスカットもあるし」
「腫れを確認します」
「いや、でも」
「確認します」
私はしゃがみ、本人の許可を取ってから靴下の上から足首の状態を見た。触れる前に、どこが痛むかを聞く。熱感は少しある。足首を内側に動かすと、優芽の眉がわずかに寄った。
「昨日、ひねりましたか」
「レッスン中に、ちょっと」
「トレーナーには?」
「言ってないです」
「前の担当には?」
「言ったら、湿布貼って踊れって」
澪が横から口を挟んだ。
「優芽、昨日の帰りも足引きずってました」
「澪!」
「隠しても意味ないでしょ」
澪の声は硬い。だが、怒っている相手は優芽ではなかった。
私は救急セットから固定用テープを出した。
「今日のダンスカットは確認します。激しい動きは減らします」
「無理です」
優芽が即座に言った。
「私、ダンス担当なんです。ここで踊れなかったら、使えないって思われます」
「使えないとは誰が決めますか」
「……会社とか、ファンとか」
「違います」
私はテープを手にしたまま、優芽の目を見た。
「怪我を隠して悪化させるほうが、長く踊れなくなります。今日一枚いい写真を撮るために、三か月踊れなくなるほうが損です」
「でも」
「あなたの役割は、今日だけ踊ることではありません。これから先も、踊り続けることです」
優芽は言葉を失った。
花音が静かに視線を落とす。
澪は腕を組んだまま、壁に寄りかかった。
奈々は不安そうに優芽の足元を見ている。
この四人は、全員が同じ病気にかかっている。
休んだら終わる。
弱音を吐いたら捨てられる。
代わりはいくらでもいる。
そう思い込まされている。
私は優芽の足首を簡易固定し、撮影用のヒールではなく、足に負担の少ない靴を衣装担当に確認することにした。
その前に、持参していたゼリー飲料ではない軽食をテーブルに並べる。小さなおにぎり、バナナ、温かいスープ、常温の水。スタジオ近くで急いで手配したものだ。
「食べられるものから食べてください」
「今からメイクなのに、いいんですか」
奈々が目を丸くする。
「空腹でメイク椅子に座るほうが危ないです」
「でも、顔がむくむって」
「二時間睡眠のほうがむくみます」
優芽がまた笑った。
今度は少しだけ、本当におかしそうに。
四人は最初こそ遠慮していたが、やがて小さなおにぎりに手を伸ばした。奈々はスープを両手で包むように持ち、ふうふう息を吹きかけている。
その光景を見ながら、私は今日の予定表を再確認した。
撮影終了予定は十五時。
その後、十六時から二十時までダンスレッスン。
二十一時からファン向け配信。
翌日は朝五時半に局入り。
無理だ。
どう考えても無理がある。
特に優芽の足首と奈々の睡眠不足を考えると、夜の配信は危険だった。
私は会社用スマートフォンを取り出し、スケジュール管理の共有チャットを開いた。
本日のLumiRise配信について、開始時刻および内容の変更を提案します。
理由:未成年者の稼働時間、翌朝番組への影響、メンバーの体調管理。
代替案:収録済みコメント+マネージャー確認済みの近況写真投稿。
送信して三十秒も経たないうちに、神田部長から電話が来た。
私は会議室を出て、廊下で受けた。
「佐伯、お前またか」
「配信内容の変更提案です」
「提案じゃなくて拒否だろうが」
「現行スケジュールでは、翌朝の生放送に影響します」
「売れる前から体調、体調って、何様なんだよ。あの子たちは今、ファンに顔を見せるのが仕事だ」
「顔を見せられる状態を維持するのも仕事です」
「お前の正論は聞き飽きた」
電話の向こうで、神田が何かを机に叩きつける音がした。
「いいか、夜の配信はスポンサーも見てる。新曲の予約数に直結するんだよ。絶対にやれ」
「では、スポンサー名と配信目的を文書でください。未成年者の深夜稼働を含め、こちらで確認します」
「文書、文書って、お前は弁護士か!」
「マネージャーです」
私は抑揚を変えずに答えた。
「担当タレントの稼働実態を記録する責任があります」
「……黒崎常務に報告するからな」
「お願いします」
電話は乱暴に切れた。
私はスマートフォンの通話履歴を保存し、メモアプリに会話内容を要約した。
日付、時刻、相手、内容。
細かいようだが、現場ではこの積み重ねが命綱になる。
会議室に戻ると、四人はほとんど食べ終えていた。
花音がこちらを見た。
「配信、やっぱりあるんですか」
「今、変更交渉中です」
「すみません。私たちのせいで」
「あなたたちのせいではありません」
「でも、私たちがもっと体力あれば」
「違います」
私は少しだけ強めに言った。
花音が肩を震わせる。
私は声を戻した。
「人間の体力には限界があります。限界を超えた予定を組む側の問題です」
「そう言ってくれる人、初めてです」
花音の声は低かった。
リーダーとして何度も会社に訴えようとしたのだろう。だが、そのたびに言われたに違いない。
プロ意識が足りない。
売れたいんだろ。
他の子はやっている。
リーダーなら空気を読め。
そういう言葉で黙らされてきたはずだ。
「花音さん」
「はい」
「リーダーとして、メンバーの体調を把握していたことは間違いではありません。ただし、一人で抱える必要はありません」
花音は唇を結んだ。
「でも、私が言わないと」
「これからは、私にも言ってください」
その言葉に、花音の目が少しだけ揺れた。
やがて、彼女は小さく頷いた。
撮影は、予定より二十分遅れて始まった。
スタジオに降りると、カメラマンが不機嫌そうに腕を組んでいた。
「遅いよ。若い子たちなんだから、もっとぱっと動けるでしょ」
「お待たせして申し訳ありません。体調確認と衣装確認をしていました」
「体調ねえ」
カメラマンは笑った。
「最近のアイドルは大事にされてるね」
その一言に、澪の表情がわずかに冷えた。
私はすかさず前に出た。
「本日はよろしくお願いします。ダンスカットについて一点、相談があります」
「何?」
「橘の右足首に軽い炎症があります。激しいジャンプや片足荷重のポーズは避けてください」
「は?」
カメラマンが眉をひそめた。
「聞いてないよ。今日のテーマ、躍動感なんだけど」
「躍動感は構図とライティングでも作れます」
「マネージャーが撮影に口出すの?」
「安全管理です」
現場の空気が少し緊張した。
カメラマンは厄介そうに私を見たあと、優芽へ視線を向けた。
「本人はどうなの。踊れる?」
優芽は一瞬、反射的に笑顔を作った。
「大丈夫で――」
「橘さん」
私は名前だけ呼んだ。
優芽の言葉が止まる。
彼女は唇を噛み、少しだけ俯いた。
「……足首、少し痛いです。でも、できる範囲ならやりたいです」
カメラマンはため息をついた。
「最初からそう言えばいいじゃん」
その声は不満げだったが、思ったよりも冷たくはなかった。
彼はスタジオの中央を見渡し、アシスタントに指示を出した。
「じゃあジャンプなし。布使おう。動いてる感じは布と髪で出す。足元は切るカット多め。優芽ちゃん、上半身の表情で見せられる?」
優芽が顔を上げた。
「できます」
「なら、それでいこう」
私は頭を下げた。
「ありがとうございます」
カメラマンは鼻を鳴らした。
「別に。怪我されても困るし」
撮影が始まると、LumiRiseの四人は別人のように輝いた。
澪はカメラの前に立つと、鋭さと透明感を同時にまとった。花音は全体のバランスを取り、メンバーの立ち位置を自然に整える。優芽は足の動きを制限されながらも、指先と視線で躍動感を作った。奈々は最初こそ硬かったが、澪が隣で小さく笑いかけると、少しずつ表情がほどけていった。
この子たちは、売れる。
売れる可能性がある。
ただし、それは使い潰していい理由にはならない。
むしろ逆だ。
可能性があるからこそ、守らなければならない。
「いいね、今の!」
カメラマンの声が弾む。
「澪ちゃん、目線そのまま。花音ちゃん、少し右。奈々ちゃん、笑いすぎないで、ちょっと不安げに。優芽ちゃん、手を上げて――そう、それ!」
シャッター音が続く。
モニターに映った四人は、疲労を感じさせないほど美しかった。
だが私は、レンズの外を見る。
撮影の合間に優芽が足をつく角度。
奈々が水を飲む回数。
澪が咳を我慢する仕草。
花音が全員の表情を見て、自分の疲れを後回しにする癖。
ステージや写真の中では、彼女たちは光だ。
だが光を出す人間にも、体温があり、痛みがあり、限界がある。
予定より少し早く、個人カットに入った。
奈々の番になったとき、彼女は衣装の裾を握りしめて立っていた。
「緊張してる?」
カメラマンが声をかける。
「はい……」
「じゃあ、緊張してる顔でいいよ。無理に笑わないで」
奈々は驚いたように顔を上げた。
「笑わなくていいんですか」
「今日はそういうページだから。等身大の新世代アイドル、みたいな」
奈々は少し困ったようにこちらを見た。
私は頷いた。
無理に笑わなくていい。
そう伝えるように。
奈々はカメラの前に立った。
最初の一枚は硬かった。
二枚目も、まだ不安そうだった。
でも三枚目、彼女は小さく息を吐き、真正面からカメラを見た。
怖さを隠していない顔。
それでも前に立とうとする顔。
十五歳の少女が、夢のために踏ん張っている顔。
カメラマンが静かに言った。
「……いいね」
シャッター音が落ち着いたリズムで続く。
私は、その場で小さく息を吐いた。
撮影が終わったのは十五時十分。
当初予定より少し押したが、問題ない範囲だった。
だが、休む暇はない。次はダンスレッスンだ。
スタジオを出る前に、私は制作進行から撮影終了時刻を確認し、控室使用時間も記録した。衣装担当には、優芽の足首に負担がかからない靴の候補を今後共有してもらうよう依頼した。
四人が着替えている間、スマートフォンが震えた。
今度は黒崎常務からだった。
電話に出ると、開口一番、低い声が飛んできた。
「佐伯。夜の配信を断ろうとしているそうだな」
「内容変更を提案しています」
「同じことだ」
「現行スケジュールでは、明日の生放送に支障が出る可能性があります」
「支障が出るかどうかは、やらせてみないとわからないだろ」
私は数秒、黙った。
やらせてみないとわからない。
その言葉ほど、現場を軽んじるものはない。
橋が壊れるかどうか、渡らせてみないとわからない。
火がつくかどうか、燃やしてみないとわからない。
人が倒れるかどうか、働かせてみないとわからない。
そんな理屈が通ってしまう場所で、多くの若い才能が壊されてきた。
「常務」
「何だ」
「明日の情報番組は、LumiRiseにとって重要な露出です。そこに疲弊した状態で出すことは、営業上も損失です」
体調ではなく、営業上。
相手が聞く言葉を選ぶ。
「……それで?」
「夜の配信は、メンバー全員の生出演ではなく、撮影現場のオフショット動画と事前収録コメントに変更します。ファン向けには、明日の生放送への期待を高める導線を作ります」
「予約数は?」
「本日の雑誌撮影素材を一部解禁し、予約リンクへ誘導します。生配信より炎上リスクも低いです」
電話の向こうが少し静かになった。
黒崎常務は、情では動かない。
だが数字とリスクには反応する。
「……勝手に失敗したら責任を取れよ」
「担当として結果を出します」
「大きく出たな」
「必要なことをします」
通話が切れた。
私はすぐに宣伝担当へ連絡し、代替案を具体化した。
撮影中の安全な範囲のオフショット。
メンバーの短い手書きコメント。
明日の番組出演告知。
予約リンクへの自然な導線。
ファンは、疲れ切った推しの深夜配信が見たいわけではない。
明日も笑っている推しが見たいのだ。
会議室に戻ると、四人がこちらを見た。
「夜の配信は、形を変えます」
その瞬間、優芽の肩から力が抜けた。
「じゃあ、今日は深夜までじゃないんですか」
「ダンスレッスンも内容を調整します。足首の確認を優先します」
奈々が小さく呟いた。
「今日、寝られる……?」
「寝てもらいます」
私が言うと、優芽が笑った。
「命令形だ」
「業務指示です」
「最高の業務指示です」
花音が片手で口元を覆った。
笑ったのだ。
今日初めて、リーダーの顔から緊張が少し消えた。
しかし、澪だけは黙っていた。
彼女は私をじっと見ている。
「澪さん?」
「佐伯さんって、いつまで私たちの担当なんですか」
真っ直ぐな質問だった。
優芽と奈々の表情が固まる。
花音も澪を見た。
「どういう意味ですか」
「前の人も最初は優しかったです。でも、会社に何か言われたら、すぐ変わりました。結局、私たちに我慢しろって言った。佐伯さんも、会社に怒られたら変わるんじゃないですか」
空気が重くなった。
だが、私はその質問を不快には思わなかった。
むしろ、必要な警戒だと思った。
簡単に大人を信じるほうが危ない。
「変わらないと約束しても、今は信じられないと思います」
私は言った。
「だから、約束ではなく記録を残します。私が何を言い、何をしたか。あなたたちが判断してください」
「記録?」
「会社とのやり取り、スケジュール変更、体調確認、現場判断。すべて残します。必要なら、あなたたちも確認できる形にします」
澪は目を細めた。
「それ、会社に怒られません?」
「もう怒られています」
優芽が吹き出した。
奈々もつられて少し笑った。
澪はしばらく私を見ていたが、やがて小さく言った。
「じゃあ、見てます」
「はい」
「私、簡単には信じません」
「それでいいです」
澪は視線を逸らした。
だが、その横顔には先ほどまでの刺々しさが少し薄れていた。
移動車に乗り込むと、四人は後部座席に並んだ。
私は助手席で次のレッスンスタジオへ連絡を入れ、内容変更を伝えた。
激しい通し稽古は中止。
フォーメーション確認と上半身の表現練習に切り替え。
優芽の足首は悪化させない。
奈々には十九時以降、負荷の高い練習をさせない。
電話の向こうのダンス講師は少し驚いたようだったが、事情を説明すると納得してくれた。
「むしろ助かります。あの子たち、最近明らかに集中力落ちてましたから」
「前任から共有は?」
「ありません。とにかく詰め込めって言われてました」
私はまたメモを取った。
移動中、後部座席は静かだった。
疲れているのだろう。
バックミラー越しに見ると、奈々はすでに目を閉じかけていた。花音がそっと自分の上着をかける。優芽は足を少し伸ばし、澪は窓の外を見ていた。
そのとき、私のスマートフォンに通知が来た。
社内共有チャット。
神田部長からの投稿だった。
佐伯担当初日からスケジュール変更。
現場各位、LumiRise案件は今後調整が多くなる可能性あり。
売れる気があるのか疑問。
わざと全体に見える場所に書いている。
晒し上げだ。
私は画面を見つめた。
返信欄に指を置く。
ここで感情的に返せば、神田の思う壺だ。
私は短く、事実だけを返した。
変更理由:未成年者の稼働時間管理、翌朝生放送への影響回避、負傷メンバーの悪化防止。
代替施策:撮影素材活用、事前収録コメント、予約リンク誘導。
結果は数値で報告します。
送信。
数秒後、宣伝担当から個別メッセージが届いた。
代替投稿案、反応良さそうです。
オフショット写真、編集部から使用許可取れました。
正直、深夜配信より安全だと思います。
私は返信した。
ありがとうございます。投稿文案はこちらで確認します。
味方は、最初から大きく現れるわけではない。
現場の小さな納得。
誰かの「そのほうがいいと思う」。
そういうものを一つずつ集める。
改革とは、声の大きい悪人を一撃で倒すことではない。
黙って耐えていた人たちが、少しずつ顔を上げられる状況を作ることだ。
レッスンスタジオに到着する頃、奈々は完全に眠っていた。
車が止まっても起きない。
花音が困ったようにこちらを見た。
「起こしますか」
私は時計を見た。
十六時二十分。
「十分だけ寝かせます」
「でも、レッスンが」
「十分遅らせます」
私は運転手と講師に連絡した。
奈々は小さく寝息を立てている。
十五歳の子どもが、移動車で気を失うように眠っている。
それを見てもなお、数字のために起こせと言う人間がいる。
私は後部座席を振り返り、低い声で言った。
「皆さんも、目を閉じてください。十分だけでも回復します」
優芽が素直に目を閉じた。
花音も少し迷ってから背もたれに体を預けた。
澪だけはまだ窓の外を見ていた。
だが、しばらくして小さく呟いた。
「……佐伯さん」
「はい」
「前の担当、私たちのこと商品って言ってました」
「そうですか」
「常務も、そう言ってましたよね」
「はい」
「佐伯さんは、何だと思ってますか」
私は少し考えた。
タレント。
アーティスト。
未成年。
担当。
いろいろな言葉がある。
でも今、彼女に返すべき言葉は、たぶんもっと単純だ。
「人です」
澪は何も言わなかった。
バックミラー越しに見ると、彼女はまだ窓の外を見ている。
けれど、その指先から少しだけ力が抜けていた。
十分後、奈々を起こすと、彼女は慌てて飛び起きた。
「すみません! 寝ちゃって……」
「予定通りです」
「え?」
「移動中の仮眠もスケジュールに入れます」
奈々はぽかんとした。
優芽が横で笑う。
「奈々、寝るのも仕事だって」
「寝るのも……仕事」
奈々はその言葉を大切そうに繰り返した。
レッスンは、予想以上にうまく進んだ。
通しで踊らせるよりも、フォーメーションのズレを細かく修正し、上半身の角度や視線の流れを整えるほうが効果的だった。優芽は足を使えない分、腕と表情の見せ方に集中した。澪は歌の入りのタイミングを確認し、花音は全体の呼吸を合わせた。奈々は短い休憩を挟みながらも、最後まで集中を切らさなかった。
十九時半。
私はレッスンを終了させた。
「今日はここまでです」
講師も頷いた。
「いい判断だと思います。これ以上やると精度が落ちます」
花音が汗を拭きながら言った。
「でも、まだ二曲目が」
「明日の朝、番組前に確認します。今日は帰って寝ます」
優芽が両手を上げた。
「帰れる!」
奈々の顔にも、安堵が広がった。
澪は素っ気なくタオルを首にかけたが、反論はしなかった。
その夜、代替投稿は予想以上の反応を得た。
撮影現場のオフショット。
四人の手書きコメント。
明日の生出演への告知。
ファンの反応は温かかった。
みんな今日もお疲れ様!
明日の朝楽しみ!
無理しないでね
奈々ちゃんちゃんと寝て!
優芽ちゃん足大丈夫かな?
予約リンクのクリック数も悪くない。
むしろ深夜配信より、ファンの好感度は上がっていた。
私は数字をまとめ、社内チャットに報告した。
代替施策結果:投稿後一時間の反応率、通常告知比二・三倍。
予約リンククリック数、前回配信導線比一・四倍。
ネガティブ反応少数。
明朝出演に向け、メンバーは二十一時までに解散済み。
既読はすぐについた。
黒崎常務。
神田部長。
営業部。
宣伝担当。
誰からも返信はなかった。
だが、それでいい。
数字は黙って残る。
感情ではなく、結果で黙らせる。
帰宅前、私はLumiRiseのグループチャットに短く送った。
明日は五時半局入りです。
起床後、体温と睡眠時間を送ってください。
今日はエゴサ禁止。
寝ること。
すぐに優芽から返信が来た。
業務指示了解です!
奈々からも続いた。
寝ます。おやすみなさい。
花音。
今日、ありがとうございました。
最後に、少し遅れて澪。
見てます。
私はその短い文面を見て、少しだけ笑った。
信頼ではない。
でも、拒絶でもない。
それで十分だ。
その夜、会社を出る直前、私のデスクに一枚の紙が置かれていた。
差出人の名前はない。
印刷された文字だけ。
口うるさい裏方が調子に乗るな。
お前のせいでLumiRiseの売上が落ちたら、責任を取らせる。
私は紙を手に取り、写真を撮った。
そして、LumiRise記録フォルダの中に保存する。
ファイル名。
匿名警告文_一件目。
一件目。
そう名付けたのは、これで終わるとは思っていなかったからだ。
スターリット・プロダクションの中には、LumiRiseを守られると困る人間がいる。
無理なスケジュール。
深夜配信。
食事制限。
怪我の隠蔽。
それらは単なる怠慢ではない。
誰かにとって都合のいい仕組みになっている。
私はバッグを肩にかけ、夜の廊下を歩いた。
窓の外には、まだ眠らない街の光が広がっている。
華やかな看板。
大型ビジョンに映るアイドル。
笑顔、音楽、拍手、歓声。
その裏側で、誰かが静かに削られている。
私はその現場を何度も見てきた。
だから、もう見過ごさない。
翌朝、LumiRiseは全国放送の情報番組に出演する。
会社はきっと、そこで数字を見ようとする。
私は別のものを見る。
彼女たちが、自分の足で立てているか。
笑顔が、壊れる前の最後の反射ではなく、本当にステージへ向かう力になっているか。
マネージャーの仕事は、ライトの外側にある。
拍手は浴びない。
名前も出ない。
それでも構わない。
光の中に立つ子たちが倒れる前に、手を伸ばす人間が必要なら。
私は、何度でも裏方でいる。




