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第1話 新しい担当

芸能事務所スターリット・プロダクションの本社ビルは、渋谷の駅前から少し離れた坂の上にあった。


 外観だけは華やかだった。全面ガラス張りのエントランス。壁に飾られた所属タレントの巨大ポスター。受付の奥に並ぶ受賞トロフィー。訪れるファンや取引先に「ここは夢を作る場所です」と語りかけるような、計算され尽くした空間。


 けれど、その華やかさの裏側を知っている人間ほど、ここを夢の場所などとは呼ばない。


 夢を売る場所。


 夢を削る場所。


 夢を、数字に変える場所。


 私はエレベーターの鏡に映る自分の顔を見た。


 三十二歳。黒のパンツスーツ。低い位置でまとめた髪。派手なアクセサリーはなし。片手には薄いグレーの業務用バッグ。中にはノートパソコン、契約書の写し、現場用の救急セット、胃薬、のど飴、予備の充電器が入っている。


 アイドルのマネージャーに必要なのは、華やかさではない。


 忘れ物をしないこと。


 遅刻しないこと。


 相手の嘘を見抜くこと。


 そして、担当タレントが倒れる前に止めること。


 エレベーターが七階で止まった。


 扉が開くと、会議室のほうから大きな笑い声が聞こえた。営業部の男たちの声だ。廊下には、昨日まで私が担当していた女性ソロアーティストのポスターが貼られている。


 白石瑠璃。


 デビューから三年、私は彼女の担当だった。最初は地下ライブから始まり、今では武道館を埋める歌手になった。彼女の喉を守るために無茶な地方営業を断り、作詞の時間を確保し、本人の意向を無視したバラエティ出演を何度も止めた。


 その結果、瑠璃は長く歌えるアーティストになった。


 その代わり、私は会社の上層部から嫌われた。


「数字は取れるが、融通が利かない」


「スポンサーへの忖度が足りない」


「タレントに寄りすぎている」


 そう言われ続けた。


 タレントに寄りすぎている。


 マネージャーが担当タレントの側に立って何が悪いのかと、何度思ったかわからない。


 七階の一番奥にある第一会議室の前で立ち止まる。中から、低い男の声が聞こえてきた。


「だからさ、あの子たちは今が売り時なんだよ。休ませるとか、そういう甘い話じゃないんだって」


 スターリット・プロダクションの常務取締役、黒崎誠司の声だった。


 私は一度だけ息を整え、ノックした。


「失礼します」


 会議室に入ると、長いテーブルの奥に黒崎常務が座っていた。五十代前半。高級そうなスーツに、無駄に光る腕時計。芸能界の人間らしく、表情は柔らかい。だが目は笑っていない。


 その隣には制作部長の神田。営業部の社員が二人。宣伝担当が一人。


 そして、壁際の椅子に、四人の少女が並んで座っていた。


 今回、私が新しく担当することになったアイドルグループ。


 LumiRise。


 ルミライズ。


 結成一年目の四人組ガールズグループだ。


 センターの朝比奈澪。十七歳。黒髪のボブで、まっすぐ人を見る目をしている。歌唱力が高く、ステージ上では強い存在感を放つと聞いている。


 リーダーの西園寺花音。十九歳。落ち着いた雰囲気で、椅子に座っている今も姿勢が崩れていない。だが指先が膝の上で小さく震えていた。


 ダンス担当の橘優芽。十八歳。明るい茶髪を高い位置で結んでいる。表情は笑っているが、目の下には薄く隈がある。


 最年少の三枝奈々。十五歳。まだ中学生の面影が残る小柄な少女で、両手で紙コップを包むように持っていた。


 四人は、私が入ってきた瞬間に一斉にこちらを見た。


 警戒。


 不安。


 諦め。


 そのどれもが、若い顔に薄く貼りついていた。


「来たか、佐伯」


 黒崎常務が片手を上げた。


「今日からお前には、このLumiRiseを見てもらう」


「承知しました」


 私は頭を下げた。


 隣に座っていた神田部長が、いかにも面倒そうに資料をめくる。


「一応言っておくけど、これは栄転じゃないからね。白石瑠璃の担当を外れた理由、わかってるよな?」


「会社判断だと聞いています」


「そういうところだよ」


 神田が鼻で笑った。


「お前は正論が多すぎる。現場は正論だけじゃ回らない。スポンサー、テレビ局、広告代理店、ファン、全部相手にするんだ。タレントの体調がどうとか、本人の希望がどうとか、いちいち持ち出されたら商売にならない」


 テーブルの向こうで、LumiRiseの四人が視線を落とした。


 私は彼女たちに表情を向けないまま、神田の言葉を聞いた。


 ここで反論しても意味はない。


 今、反論すれば、彼女たちの前で私の立場が弱く見えるだけだ。


 マネージャーは、最初に舐められてはいけない。


 会社からも。


 取引先からも。


 そして、担当タレントからも。


 ただし、威圧する必要はない。


 守れる人間だと、行動で示せばいい。


「今後のスケジュールを確認させてください」


 私が言うと、宣伝担当の女性がタブレットを操作し、会議室のモニターに今月の予定表を映した。


 私は思わず眉を動かしかけた。


 月曜、朝の情報番組生出演。午後から雑誌撮影。夜にネット番組。


 火曜、早朝から地方ラジオ。移動後にライブリハ。夜はファン向け配信。


 水曜、CMオーディション。ダンスレッスン。ボイストレーニング。深夜に新曲のレコーディング。


 木曜、イベント二本。握手会。生配信。


 金曜、テレビ収録。取材三本。夜にライブ。


 土曜、ショッピングモールでリリースイベント二回。


 日曜、ファンクラブ限定撮影会。


 空白がない。


 本当に、一日もない。


 十五歳の奈々まで同じ予定に入っている。


「これは確定ですか」


 私が尋ねると、黒崎常務は当然のように頷いた。


「当然。今月の露出で勝負をかける。来月のシングルが売れなければ、LumiRiseは終わりだ。地下に戻すか、解散だな」


 優芽が唇を噛んだ。


 澪は無表情のまま、拳を握っている。


 花音は、リーダーとして何か言いたそうにしていたが、結局口を開かなかった。


 奈々は紙コップの水面を見つめている。


 私はスケジュール表を見たまま言った。


「未成年者の稼働時間と移動時間の確認が必要です。学校対応も含めて、再調整します」


 会議室の空気が、一瞬で冷えた。


 神田部長が椅子の背もたれに体を預ける。


「出たよ」


 営業部の男が小さく笑った。


「佐伯さんのコンプラ講座」


 黒崎常務も苦笑した。


「佐伯。お前さ、まだ自分が白石瑠璃の担当だった頃の気分でいるのか?」


「私はどの担当でも同じです」


「同じじゃ困るんだよ」


 黒崎常務の声が、少しだけ低くなった。


「白石はもう売れていた。だからお前のわがままも多少は通った。だが、この子たちは違う。まだ会社に利益を返していない。投資回収の段階だ。ここで露出を削ったら、次はない」


「倒れたら、もっと次はありません」


 私は静かに言った。


 四人の視線が、こちらに向いた。


 黒崎常務の笑顔が消えた。


「佐伯」


「はい」


「お前の仕事は、タレントに寄り添うことじゃない。売ることだ」


「売るために守ります」


 私がそう返すと、神田部長が資料を机に投げた。


「だから、それが口うるさいって言ってるんだよ!」


 会議室の壁が、声を跳ね返した。


 奈々の肩がびくりと震えた。


 私は彼女を見なかった。


 今ここで彼女を気遣う素振りを見せれば、神田はさらに強く出る。相手が弱い場所を見つけたと思うからだ。


 私は神田の顔をまっすぐ見た。


「スケジュールは確認しました。現場判断が必要な場合は、担当マネージャーとして対応します」


「現場判断?」


 黒崎常務が片眉を上げる。


「勝手なことをするなよ」


「現場で事故が起きた場合、責任を問われるのは会社です。未成年者を含むグループである以上、記録と判断基準は明確に残します」


「お前、本当に変わらないな」


 黒崎常務は呆れたように笑った。


「まあいい。せいぜい裏方らしく、彼女たちの荷物持ちでもしてくれ」


 裏方。


 その言葉を聞いて、営業部の二人が笑った。


 私は何も言わなかった。


 裏方で結構。


 スポットライトの中に立つ子たちが、ちゃんと笑っていられるなら。


 会議が終わると、黒崎常務たちは次の打ち合わせへ向かった。神田部長は出ていく直前、私の肩越しに囁いた。


「佐伯。今度は余計な正義感で現場を壊すなよ」


「現場を壊すのは、無理な数字です」


 神田は一瞬こちらを睨み、舌打ちして出ていった。


 会議室に残されたのは、私とLumiRiseの四人だけになった。


 私はドアが完全に閉まるのを確認してから、テーブルの上にあったスケジュール表を手元に引き寄せた。


「改めまして。今日から担当します、佐伯美月です」


 四人は慌てて姿勢を正した。


「よろしくお願いします」


 リーダーの花音が代表して頭を下げる。


 他の三人も続いた。


 私は頷き、全員の顔を一人ずつ見た。


「最初に確認します。今、体調が悪い人」


 誰も手を挙げない。


 予想通りだった。


 新人アイドルは、体調が悪いと言わない。


 言ったら仕事が減ると思っているから。


 言ったら代わりがいると思っているから。


 言ったら、夢に近づけなくなると思い込まされているから。


「では質問を変えます。昨日、五時間以上眠れた人」


 四人の視線が揺れた。


 手は、一つも上がらなかった。


「三時間以上」


 花音と澪が、ゆっくり手を上げた。


 優芽は迷ってから半分だけ上げた。


 奈々は俯いたままだった。


「奈々さん」


 名前を呼ぶと、彼女はびくりとして顔を上げた。


「何時間眠りましたか」


「……二時間、くらいです」


「理由は?」


「宿題と、配信のコメント確認と、振り入れの動画を見ていて……」


「コメント確認は誰の指示ですか」


 奈々は言葉に詰まった。


 代わりに優芽が小さく言った。


「前のマネージャーさんが、エゴサは自分たちでやれって。ファンの反応を知らないアイドルは伸びないからって」


 私はメモを取った。


「今日から、深夜のエゴサは禁止します」


「え」


 澪が初めて声を出した。


「でも、反応見ないと」


「見る必要がある反応はこちらでまとめます。見る必要がない悪意まで浴びる必要はありません」


 澪は何か言いたそうだったが、黙った。


 私は続けた。


「睡眠時間、食事、移動時間、レッスン負荷、学校の予定。全部確認します。嘘はつかないでください。私は怒るために聞くのではありません。倒れないために聞きます」


 会議室の中に、微かな沈黙が落ちた。


 それは拒絶ではなかった。


 信じていいのか、まだ判断できない沈黙。


 こういうとき、私は甘い言葉を使わない。


 大丈夫。


 守る。


 任せて。


 その言葉は、現場で簡単に裏切られる。


 だから私は、最初に約束ではなくルールを出す。


「一つだけ、先に決めます」


 私はスケジュール表の水曜日の欄を指した。


「この日の深夜レコーディングは止めます。翌朝に移します」


 花音が目を見開いた。


「そんなこと、できるんですか」


「交渉します」


「でも、常務が……」


「常務が歌うわけではありません」


 優芽が小さく吹き出した。


 慌てて口を押さえる。


 澪も少しだけ目元を緩めた。


 奈々はまだ不安そうだったが、紙コップを握る力が少し弱くなっていた。


「それから、今日の午後の雑誌撮影前に、全員三十分休憩を入れます。昼食も取ります。今朝、何を食べましたか」


 また沈黙。


 私はペンを止めた。


「ゼリー飲料だけの人」


 四人全員が、気まずそうに目を逸らした。


 私は深く息を吐いた。


 怒鳴りたくなる。


 だが、怒鳴る相手は彼女たちではない。


「わかりました。移動中に食べられるものを用意します。ただし、今後は食べたものを共有してください。体重管理ではなく、体調管理です」


「怒らないんですか?」


 奈々が小さく尋ねた。


「怒る理由がありません」


「前は……食べると怒られました」


 その一言で、会議室の温度が変わった。


 私はペン先を紙から離した。


「誰に?」


 奈々は口をつぐんだ。


 花音が彼女を庇うように言った。


「前の担当さんです。衣装が入らなくなるから、イベント前は食べるなって」


 私はゆっくり頷いた。


「その指示は今日で終わりです」


「でも、衣装が」


「衣装は体に合わせます。体を衣装に合わせるのは最後の手段です」


 今度こそ、四人がはっきりと私を見た。


 その目には、まだ信頼はない。


 けれど、初めて希望のようなものが混じった。


 私はバッグから名刺を四枚出し、それぞれの前に置いた。


「私の個人用連絡先です。会社用ではありません。深夜でも、体調が悪いとき、怖いことがあったとき、仕事のことで不安になったときは連絡してください」


 花音が名刺を見つめる。


「会社に言わないんですか」


「必要があれば言います。ただし、あなたたちの不利になる形では出しません」


「どうしてそこまで……」


 澪の声は疑いを含んでいた。


 当然だ。


 この子たちは、きっと何度も大人に利用されてきた。


 優しい言葉をかけられ、数字のために削られてきた。


 私は少し考えてから答えた。


「私は、ステージが好きです」


 四人が黙る。


「照明がついて、音が鳴って、お客さんが顔を上げる瞬間が好きです。そこで歌う人が、自分の足で立っている姿が好きです。だから、その足を折るような仕事のさせ方は嫌いです」


 きれいごとだと笑う人間もいるだろう。


 でも、私にとってはそれが全部だった。


 華やかな世界に憧れて入ったわけではない。


 才能が壊される瞬間を、見過ごせなかっただけだ。


 会議室の外で、電話の鳴る音がした。


 始業時間を告げるように、社内が慌ただしく動き出す。


 私は立ち上がった。


「行きましょう。まずは撮影現場です」


 四人も立ち上がる。


 そのとき、花音が小さく声をかけてきた。


「あの、佐伯さん」


「はい」


「私たち、本当にまだ続けられますか」


 リーダーらしい質問だった。


 自分が続けたいかではなく、グループが続けられるかを聞いている。


 私は花音の目を見た。


「続けるかどうかは、あなたたちが決めます」


「え?」


「会社でも、常務でも、私でもありません。あなたたちが決めることです。私は、その選択肢を奪われないようにするためにいます」


 花音は息を呑んだ。


 澪が静かに名刺をポケットへ入れる。


 優芽は少しだけ背筋を伸ばした。


 奈々は両手で名刺を包み、壊れもののように持っていた。


 会議室を出ると、廊下の向こうから神田部長の声が聞こえた。


「佐伯! ちょうどいい。今日の夜、追加でネット番組のコメント出演が入った。LumiRise全員で出せ」


 私は足を止めた。


 四人の空気が固まる。


 今日の夜。


 すでに雑誌撮影とダンスレッスンが入っている。明日は早朝から情報番組。ここに生配信型のネット番組を追加すれば、帰宅は深夜を過ぎる。十五歳の奈々に至っては、明らかに危険だ。


「出演時間は?」


「二十三時半から一時。短いだろ」


「未成年者がいます」


「録画風にすればいい。生じゃない体にする」


 私は神田を見た。


 この会社は、こうやって線を越えてきたのだ。


 書類上だけ整えて、現場の負担は無視する。


 タレントを守るための規則を、規則から逃れるための書式に変える。


「お断りします」


 廊下の空気が止まった。


 神田の顔から笑みが消える。


「今、何て言った?」


「本日の追加出演は受けません」


「お前、担当初日から何様だ」


「担当だからです」


 背後で、LumiRiseの誰かが息を呑んだ。


 神田は声を荒げた。


「常務案件だぞ。スポンサーも絡んでる。お前の一存で断れると思ってるのか!」


「正式な依頼書をください。出演時間、拘束時間、未成年者対応、翌日の稼働への影響、すべて確認した上で判断します」


「屁理屈を言うな!」


「記録に残しますか」


 その一言で、神田は黙った。


 芸能事務所の人間は、記録という言葉に弱い。


 口頭なら押し切れる。


 空気ならごまかせる。


 だが、記録は残る。


 誰が、いつ、何を命じたか。


 それが残るだけで、強気だった人間の声は一段低くなる。


 神田は私を睨みつけた。


「……後で後悔するぞ、佐伯」


「後悔は、倒れてからでは遅いので」


 神田は舌打ちし、乱暴に踵を返した。


 廊下の角を曲がって姿が消える。


 私は振り返らずに言った。


「行きます」


 誰も返事をしなかった。


 けれど、数秒後、四人分の足音が私の後ろについてきた。


 それで十分だった。


 エレベーターに乗る直前、スマートフォンが震えた。


 画面には、黒崎常務からのメッセージが表示されていた。


余計なことをするな。

LumiRiseは会社の商品だ。

お前の担当タレントではない。


 私はその文面をスクリーンショットで保存した。


 そして、業務用フォルダの中に新しいファイルを作る。


 ファイル名は、ただ一言。


 LumiRise記録。


 エレベーターの扉が閉まる。


 鏡に映った四人の少女たちは、疲れていて、不安そうで、それでもどこかでまだ光を失っていなかった。


 私はスマートフォンをしまい、前を向いた。


 スターリット・プロダクションは、この子たちを商品だと言った。


 ならば私は、今日から記録する。


 誰が商品として扱い、誰が人として守ろうとしたのかを。


 いつか、必要になったとき。


 その記録は、ただのメモではなくなる。


 彼女たちを縛る鎖を切るための、刃になる。

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