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第27話 新しい夜明けのステージ

黒崎常務の職務権限停止から三週間後、スターリット・プロダクションとLumiRiseの契約解除協議は、ようやく合意に近づいていた。

 円満、という言葉は使えない。

 最後まで、会社は違約金と権利を盾にした。

 LumiRiseという名前。

 既存楽曲。

 ロゴ。

 公式アカウント。

 ファンクラブデータ。

 過去映像。

 それらのほとんどは、スターリット側に残ることになった。

 四人は泣いた。

 特に奈々は、ファンミーティングで歌った『夜明けのプリズム』が使えなくなるかもしれないと聞いたとき、しばらく何も言えなかった。

 優芽は、振付ノートを抱えたまま怒っていた。

 澪は「名前を人質にする会社なんですね」と低く言い、花音は黙って四人分の議事録を読んでいた。

 私も、悔しかった。

 あの名前には、四人が初めて自分たちの言葉を取り戻した時間が詰まっている。

 でも、片桐弁護士ははっきり言った。

「失うものを数えるのは大切です。でも、失ってはいけないものを間違えないでください」

 失ってはいけないもの。

 それは、名前ではない。

 曲でもない。

 過去でもない。

 四人が自分たちで選ぶ権利だ。

 契約解除は、条件付きで成立した。

 違約金は大幅に減額された。

 理由は、RVE契約の不適切性、本人・保護者への説明不足、活動継続確認書への署名要求、不利益示唆発言、未成年者配信への懸念が調査途中ながら相当程度認められたからだった。

 スターリットは、公式にはこう発表した。

LumiRiseにつきまして、所属契約終了に関する協議が成立いたしました。

メンバー四名は当社を離れ、新たな活動準備に入ります。

当社としても、今後の活動を見守ってまいります。

 きれいな文面だった。

 あまりにもきれいすぎて、私は少し笑った。

 あの会議室で活動継続確認書に署名を迫った会社が、「見守る」と書く。

 だが、それでもよかった。

 少なくとも、活動放棄とは書かれなかった。

 問題児とも書かれなかった。

 一部メンバーとも書かれなかった。

 四名。

 その言葉だけは、守れた。

 契約解除発表から五日後、株式会社アステル・マネジメントの登記が完了した。

 渋谷の坂の上ではない。

 表参道の裏通りにある小さなシェアオフィスの一室。

 窓は小さく、会議室は予約制で、専用のレッスンスタジオもない。

 スターリットの本社ビルと比べれば、比べること自体が間違いのような場所だ。

 それでも、私はその小さな部屋のドアに、簡素なプレートを貼った。

 ASTEL MANAGEMENT

 黒い文字だけの、飾り気のないプレート。

 隣で見ていた宮内が、小さく拍手した。

「本当にできましたね」

 彼女はスターリットを辞めた。

 すぐにアステルへ入るわけではない。

 まずは調査チームへの協力と、少しの休養が必要だった。

 それでも今日は、「設立祝いです」と言って、小さな観葉植物を持ってきてくれた。

「まだ何も始まっていません」

 私が言うと、宮内は笑った。

「佐伯さんらしいです。でも、始まってます」

 宣伝担当だった水原さんも来た。

 彼女はスターリットに残り、調査後の広報体制改革に関わることを選んだ。だが、今日は個人として、茶色い紙袋を差し出した。

「コーヒーです。眠れない日が増えると思うので」

「増やさないようにします」

「絶対増えます」

 衣装担当の堀さんは、白い布見本を持ってきた。

「まだ正式にお仕事はできません。でも、いつか新しい衣装が必要になったら、声をかけてください」

 ダンス講師の安藤先生は、スケジュール表を一枚置いていった。

「レッスン場所、しばらくはうちのスタジオを安く貸せます。優芽の足を見ながら組みます」

 小さな部屋に、人が少しずつ集まっていく。

 大きな会社ではない。

 豪華な設備もない。

 でも、誰も「タレントは商品」とは言わなかった。

 誰も「炎上も数字」とは言わなかった。

 それだけで、この場所には意味があると思えた。

 そして、契約解除から一週間後。

 四人がアステルの会議室に来た。

 まだ正式所属契約は結んでいない。

 今日は、契約説明の日だった。

 私は机の上に、四冊のファイルを並べた。

 それぞれの名前が書いてある。

 西園寺花音。

 朝比奈澪。

 橘優芽。

 三枝奈々。

 そして、保護者用の説明資料。

 片桐弁護士、税理士、社労士、外部相談窓口担当者も同席している。

 狭い会議室は、少し窮屈だった。

 優芽が椅子に座って周りを見回し、笑った。

「小さいですね」

「はい」

「正直でいいと思います」

 澪が壁のプレートを見た。

「アステル」

「仮ではなくなりました」

「星、でしたっけ」

「はい」

 奈々が小さく言った。

「自分で光るもの」

 私は彼女を見た。

「瑠璃さんから聞きましたか」

 奈々は少し笑った。

「はい」

 花音はファイルに手を置いた。

「今日は、契約の説明ですよね」

「はい」

 私は全員を見た。

「最初に伝えます。今日ここで署名する必要はありません」

 四人の表情が少し動いた。

 私は続けた。

「契約書は持ち帰ってください。本人、保護者、専門家と確認してください。わからないところは付箋を貼ってください。納得できない条項があれば、修正案を出してください。署名は、理解して納得してからです」

 奈々の母、朋子さんが静かに頷いた。

「それを最初に言ってもらえるだけで、安心します」

 私は頭を下げた。

「当然のことです」

 澪が小さく言った。

「当然じゃなかったから、ここまで来たんですよね」

「はい」

 契約説明は、二時間かかった。

 マネジメント契約。

 報酬分配。

 活動時間。

 未成年者規程。

 休憩と食事。

 医療判断。

 SNS運用。

 外部企画審査。

 肖像使用。

 楽曲権利。

 契約終了時の手続き。

 活動休止の権利。

 相談窓口。

 契約書は、スターリットのものより短く、見出しを多くした。

 難しい言葉には注釈を入れた。

 それでも、完璧ではない。

 花音が何度も質問した。

 優芽は「怪我をしたとき、本人がやりたいって言っても止めるんですか」と聞いた。

「医師や専門家の判断を優先します。本人の意思も確認しますが、長期的に悪化する場合は止めます」

「ですよね」

「不満ですか」

「ちょっと。でも、必要です」

 奈々は、未成年者配信規程をじっと読んでいた。

「夜の配信は、保護者同意と終了時刻が必要なんですね」

「はい。二十二時以降は原則禁止です」

「コメントは」

「本人が直接見る必要はありません。スタッフが確認し、危険なものは除外します。本人が見たい場合も、時間を決めます」

 奈々は小さく頷いた。

「怖いって言ったら」

「止めます」

 彼女は少しだけ笑った。

「はい」

 澪は、SNS施策のページを読んでいた。

「不仲演出は禁止」

「はい」

「炎上誘導禁止」

「はい」

「疑似自然発生投稿禁止」

「当然です」

「ここ、赤字にしたほうがいいです」

 優芽が吹き出した。

「契約書に赤字は怖いよ」

「でも大事」

 片桐が真顔で言った。

「太字にしましょう」

 会議室に笑いが起きた。

 笑い声。

 それだけで、私は少し救われた。

 契約説明の終盤、花音が言った。

「私たち、名前を決めました」

 私は顔を上げた。

「新しい活動名ですか」

「はい」

 四人は目を合わせた。

 まだ少し照れくさそうだった。

 花音が紙を一枚差し出す。

 そこには、手書きでこう書かれていた。

 Asteria

「アステリア?」

 私が読むと、優芽が頷いた。

「アステルと近すぎるかなって思ったんですけど」

 澪が言う。

「でも、星の意味もあるし、私たちがここで新しく始めるなら、合ってると思いました」

 奈々が続ける。

「LumiRiseの名前は大事です。でも、置いていくなら、新しい名前も自分たちで選びたいです」

 花音が紙を見つめた。

「夜明けじゃなくて、星から始めます。暗いところでも、自分たちで光れるように」

 私は紙を受け取った。

 指先が少し震えた。

「良い名前です」

 優芽が笑った。

「佐伯さんの褒め方、相変わらず硬い」

「事実です」

 澪が少し笑った。

「じゃあ、事実として受け取ります」

 この日、四人は契約書に署名しなかった。

 持ち帰った。

 付箋を貼るために。

 家族と読むために。

 納得するために。

 それが、アステルでの最初の約束だった。

 そして十日後。

 四人は、それぞれの契約書に署名した。

 花音は、手を止めずに丁寧に名前を書いた。

 澪は、一度深呼吸してから書いた。

 優芽は「字が震える」と笑いながら書いた。

 奈々は、母親の隣で少し泣きながら書いた。

 でも、誰も泣かされてはいなかった。

 誰も急かされていなかった。

 誰も「署名しないなら活動できない」と脅されていなかった。

 奈々がペンを置いたあと、小さく言った。

「自分で書けました」

 私は頷いた。

「はい」

 それだけで、十分だった。

 Asteriaとしての初ライブは、さらに二週間後に決まった。

 会場は大きくない。

 百五十人ほど入る小さなライブハウス。

 スターリット時代なら、黒崎は「格が落ちる」と言ったかもしれない。

 でも、四人はその会場図を見て、目を輝かせた。

「近いですね」

 奈々が言った。

「ファンの顔、見えすぎるかも」

 優芽が笑う。

「怖い?」

「少し。でも、見たいです」

 澪はステージ幅を確認していた。

「四人で踊るには狭い。でも動線を工夫すればいけます」

 優芽が即座に言った。

「足に優しい振付にする」

「自分で言えましたね」

 私が言うと、優芽は胸を張った。

「長く踊るので」

 花音は、セットリスト案を見ていた。

 もちろん、『夜明けのプリズム』は使えない。

 新曲が必要だった。

 瑠璃が紹介してくれた作曲家が、短期間で一曲を書いてくれた。

 タイトルは、『星のままで』。

 派手な曲ではない。

 でも、四人の声がよく聴こえる曲だった。

 歌詞の一節に、こんな言葉がある。

 ――名前をなくしても、声は残る。

 初めてデモを聴いたとき、奈々は泣いた。

 澪は黙って窓の外を見た。

 優芽は「踊れます」と言った。

 花音は「歌いたいです」と言った。

 私は、ただ頷いた。

 初ライブ当日。

 会場の楽屋は、スターリットの現場よりずっと狭かった。

 鏡も小さい。

 椅子も足りない。

 でも、机には軽食があった。

 おにぎり、スープ、バナナ、のど飴、水。

 壁には、今日のスケジュール。

 リハーサル。

 休憩。

 食事。

 本番。

 終演後面談。

 SNS確認時間。

 すべて明記してある。

 優芽が壁を見て言った。

「休憩がスケジュールに書いてある」

 澪が返す。

「もう何回も見てるのに、まだ言う」

「嬉しいんだもん」

 奈々は紙コップを両手で持っていた。

 少し震えている。

「怖いです」

 花音がすぐに言った。

「怖いは?」

 奈々は小さく息を吸った。

「止まる合図。確認する合図」

 優芽が隣に座る。

「何が怖い?」

「ファンの人が、LumiRiseじゃない私たちを見て、がっかりしたらどうしようって」

 澪が少し考えてから言った。

「がっかりする人もいるかもしれない」

 優芽が「澪」と言いかける。

 でも、奈々は澪を見た。

 澪は続けた。

「でも、それは嘘をつかないってことだと思う。LumiRiseじゃなくなったのに、同じふりはできない。がっかりされても、今の私たちを見てもらうしかない」

 奈々はしばらく黙って、それから頷いた。

「はい」

 花音が微笑んだ。

「今の澪、言い直さなくても大丈夫だった」

 澪は少し照れた顔をした。

「成長しました」

 優芽が笑う。

「自分で言う?」

 楽屋に小さな笑いが広がる。

 私は入口のそばで、それを見ていた。

 介入しない。

 今の彼女たちは、自分たちで整えられる。

 もちろん、完全ではない。

 でも、それでいい。

 本番前、私は四人に声をかけた。

「体調確認をします」

 四人は並んだ。

 花音。

「緊張あり。体調問題なし」

 澪。

「声、問題なし。少し眠いけど許容範囲」

 優芽。

「足首痛み一。高いジャンプなしでいきます」

 奈々。

「怖いです。でも歌えます」

 私は頷いた。

「本番中、無理だと思ったら合図を」

 花音が言った。

「マイクを両手で持って視線を下げる」

 優芽が続ける。

「優芽が足を押さえたら振付変更」

 澪。

「奈々が止まったら、私が次をつなぐ」

 奈々。

「澪ちゃんが黙ったら、私がゆっくりで大丈夫って言います」

 私は少し笑った。

「準備できていますね」

 花音が頷いた。

「はい」

 開演時間。

 客席には、ペンライトが揺れていた。

 LumiRise時代の色を持ってきた人もいた。

 新しく作った星型の小さなライトを持っている人もいた。

 泣いているファンもいた。

 横断幕には、こう書かれていた。

おかえり。名前が変わっても、四人を待ってた。

 奈々がそれを見て、目を潤ませた。

 でも、泣き崩れなかった。

 花音が小さく言う。

「行こう」

 四人はステージへ出た。

 拍手。

 大きな拍手だった。

 小さなライブハウスが、音でいっぱいになる。

 花音がマイクを持つ。

「皆さん、こんばんは。Asteriaです」

 その名前が、初めて客席に向けて響いた。

 拍手がさらに大きくなった。

 優芽が笑った。

 奈々が深く頭を下げた。

 澪は少しだけ目を細めた。

 花音は続けた。

「今日ここに立てたことを、本当に嬉しく思います。私たちは名前を変えました。歌える曲も変わりました。前と同じではありません」

 客席は静かに聞いていた。

「でも、四人で立つことは変わりません。歌いたいこと、踊りたいこと、皆さんに会いたいことも変わりません」

 優芽がマイクを持つ。

「今日は、小さい会場です。でも、すごく近いです。だから、ちゃんと見てください。怪我を隠して笑うんじゃなくて、ちゃんと長く踊るために今できるダンスをします」

 拍手。

 奈々が続く。

「私は、怖いです。でも、怖いって言えるようになりました。今日は、怖いまま歌います。見ていてください」

 客席から「見てるよ」と声が上がった。

 奈々は少し泣きそうになったが、笑った。

 澪が最後にマイクを持つ。

「私たちは、切り取られた一部ではありません。今日、最初から最後まで見てください」

 会場が静かになり、そのあと大きな拍手が起きた。

 私は袖で、拳を握った。

 始まる。

 新しい曲のイントロが流れた。

 『星のままで』。

 四人の声が重なる。

 花音の安定した低めの声。

 澪のまっすぐな高音。

 優芽の明るい響き。

 奈々の少し震えた、でも透き通った声。

 振付は派手ではない。

 でも、四人の立ち位置が丁寧に変わり、誰か一人を悪者にも、被害者にも、犠牲者にも見せない構成だった。

 優芽は跳ばない。

 それでも、指先と表情で客席を引き込んだ。

 奈々は一度だけ視線を下げた。

 すぐに澪が隣へ半歩寄った。

 奈々は顔を上げた。

 歌い続けた。

 花音は全体を見ていた。

 でも、一人で背負ってはいなかった。

 四人でステージを支えていた。

 最後のサビ。

 ――名前をなくしても、声は残る。

 その歌詞が響いた瞬間、客席の何人かが泣いた。

 私も、泣きそうになった。

 でも、記録係として、最後まで見た。

 曲が終わる。

 一瞬の静寂。

 そして、会場が割れるような拍手に包まれた。

 四人は息を切らしながら、客席を見ていた。

 奈々が泣いていた。

 優芽も泣いていた。

 花音は涙をこらえていた。

 澪は泣いていないふりをしていた。

 でも、目は赤かった。

 その日、Asteriaの初ライブは成功した。

 大きな売上ではない。

 大きな会場でもない。

 派手な演出もない。

 テレビカメラもない。

 でも、そこには嘘がなかった。

 終演後、楽屋に戻ってきた四人は、しばらく誰も喋らなかった。

 最初に口を開いたのは優芽だった。

「生きてる」

 澪が言った。

「感想が大きすぎる」

「でも、本当にそう思った」

 奈々が頷いた。

「私も、歌ってるとき、生きてるって思いました」

 花音が静かに笑った。

「私たち、続けられるね」

 その言葉に、四人が頷いた。

 私は楽屋の入口で、少しだけ頭を下げた。

「初ライブ、お疲れさまでした」

 優芽が振り返る。

「佐伯さん」

「はい」

「今日は完全勝利って言っていいですか」

 私は少し考えた。

 そして、言った。

「今日のライブについては、言っていいと思います」

 優芽が目を丸くした。

「言った!」

 奈々が笑った。

 澪が小さく呟いた。

「珍しい」

 花音が涙を拭きながら言った。

「完全勝利、ですね」

 私は頷いた。

「はい。今日のところは」

 四人が一斉に笑った。

 やっぱりそこはつくんですね、と優芽が言った。

 つく。

 当然だ。

 明日からまた、課題はある。

 契約解除の残務。

 権利の交渉。

 収支の不安。

 新曲制作。

 ファンコミュニティの再構築。

 調査結果。

 真壁とRVEの問題。

 スターリットの改革。

 アステルの経営。

 何もかも、これからだ。

 でも、今日のステージは成功した。

 四人が自分の名前で選び、自分たちの声で立ち、新しい曲を歌いきった。

 それは、誰にも奪えない。

 夜、私はアステルの小さな事務所に戻り、今日の記録を書いた。

Asteria初ライブ。

会場百五十名規模。満席。

食事、休憩、体調確認、合図確認実施。

優芽、足首痛み一、高負荷動作なし。

奈々、恐怖あり。歌唱継続。

花音、一人で背負わず四人で進行。

澪、切り取られた一部ではなく全部を見てほしいと発言。

新曲『星のままで』初披露。

観客反応良好。

初ライブ成功。

 最後に、一行。

今日のところは、完全勝利。

 保存。

 私は椅子にもたれ、天井を見上げた。

 小さな事務所。

 小さなライブ。

 小さな星。

 でも、確かに光った。

 スターリットの大きな照明ではなく。

 誰かに燃やされた炎でもなく。

 四人自身の光だった。

 次が、最終話になる。

 夢を掴むというのは、きっと大きな賞を取ることだけではない。

 武道館に立つことだけでもない。

 自分の声で、自分の足で、自分の未来を選べること。

 その第一歩を、今日、彼女たちは掴んだ。

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