第23話 名前のない事務所
翌朝、私は白紙の申請書を前にして、三十分ほど動けずにいた。
法人設立に必要な書類。
商号。
本店所在地。
事業目的。
資本金。
役員。
たった数枚の紙なのに、そこにはこれから背負う責任が詰まっていた。
スターリットを離れるかもしれないLumiRiseの受け皿。
そう考えると、手が止まる。
けれど、何度も自分に言い聞かせた。
これは彼女たちを引き抜くための書類ではない。
彼女たちの未来を私が決めるための書類でもない。
選択肢を作るための準備だ。
誰かが「ここしかない」と言われて泣きながら署名しなくて済むように。
ほかにも道があると示すために。
私はペンを持ち直し、ノートの表紙に書いた仮名を見た。
アステル・マネジメント
星を意味する言葉。
小さくても、自分で光るもの。
派手さはない。
けれど、今の私には合っている気がした。
商号欄に、その名前を書こうとして、また止まった。
まだ早い。
片桐弁護士にも確認が必要だ。
商標の確認、類似会社名の調査、登記上の問題、契約書式、資金計画。
感情だけで法人名を書くな。
私は深呼吸し、商号欄には鉛筆で小さく仮と書いた。
午前九時、片桐弁護士とのオンライン面談が始まった。
今日は、LumiRiseの契約解除可能性と、私自身の独立準備についての整理だった。
画面越しの片桐は、いつも通り淡々としている。
「佐伯さん、まず確認します。新会社設立は、現時点ではあなた自身の職業選択としての準備です。特定の所属タレントを誘引する目的ではない。この前提を文書化しておきましょう」
「はい」
「今後、会社側は必ず『佐伯が独立のためにLumiRiseを扇動した』と主張します。そう言わせないために、時系列が重要です」
私はノートを開いた。
「LumiRise本人たちが離脱可能性を口にしたのは、昨日の活動継続確認書への署名拒否後です」
「はい。そして、その場には保護者と弁護士が同席していました。佐伯さんは返信していない。これは重要です」
「独立準備自体は、その前から始めています」
「そこは問題になり得ます。ただし、スターリットから自宅待機命令を受け、業界内で悪評流布の可能性があり、今後の職業選択を検討する必要が生じたため、と説明できます」
「職業選択の自由」
「その通りです」
片桐は資料を一枚表示した。
新会社設立に必要な項目。
法人設立。
定款。
資本金。
契約書。
労務規程。
未成年者保護規程。
外部取引審査。
反社チェック。
個人情報管理。
収支計画。
「夢」や「理念」はどこにもない。
だが、この項目こそが夢を守る骨組みだ。
「商号は決めましたか」
「仮で、アステル・マネジメントと考えています」
「良いと思います。ただ、商標と同一・類似社名の確認が必要です。こちらで調べます」
「お願いします」
「事業目的には、芸能タレント、アーティストのマネジメント、イベント企画、コンテンツ制作、権利管理、キャリア支援、未成年者を含むタレントの活動支援などを入れます」
「キャリア支援」
「重要です。芸能活動が終わった後の進路支援も、今後の事務所には必要です」
私はペンを止めた。
芸能活動が終わった後。
業界では、そこがあまりにも軽視されている。
売れている間だけ使い、売れなくなれば自己責任。
心身を壊しても、次の人生は本人任せ。
莉子のように、突然表舞台から消えた人が、どれだけいるのだろう。
「入れてください」
私は言った。
「活動終了後のキャリア支援も、事業目的に」
片桐は頷いた。
「わかりました」
面談の後半は、LumiRiseの離脱に関する現実的な話になった。
「契約解除を申し入れる場合、主張の柱は三つです」
片桐が言った。
「一つ、契約・追加同意書に関する説明不足。二つ、本人意思に反する不適切な施策。三つ、活動継続確認書への署名要求や黒崎常務の発言による信頼関係破壊」
「違約金は?」
「会社は請求してくるでしょう。ただし、不適切な運用が認められれば、減額または免除の交渉余地があります」
「グループ名と楽曲は」
「難しいです。LumiRiseの名称、既存楽曲、ロゴ、公式アカウント、ファンクラブは会社側の権利である可能性が高い」
わかっていた。
それでも、胸が痛んだ。
LumiRiseという名前を失うかもしれない。
あの四人が、初めて自分たちの言葉を取り戻した場所。
ファンミーティングで夜明けのように光った名前。
会社を離れるということは、名前すら置いていく覚悟を求められる。
「本人たちには、いつ伝えるべきですか」
「まずは保護者協議です。本人たちにも当然説明が必要ですが、佐伯さんからではなく、保護者と専門家から。佐伯さんが受け皿を準備していることは、現時点では伏せるほうが安全です」
「わかっています」
「ただ、もし会社側が先に『佐伯が新事務所を作っている』とリークした場合は、こちらから事実関係を説明します」
「隠しているように見えるから」
「はい。準備していること自体は違法ではありません。問題は、特定タレントへの誘引があったかどうかです」
私は頷いた。
今日もまた、確認して進む。
感情ではなく手続き。
それが、彼女たちを守る。
昼前、LumiRiseの保護者会議が開かれた。
私は同席しない。
片桐事務所の弁護士が同席し、保護者と本人たちが、スターリットに残る条件と、残れない場合の選択肢を整理する。
私は自宅で、新会社の規程案を書いていた。
未成年者活動規程
一、学校行事および学業時間の優先。
二、二十二時以降の稼働原則禁止。
三、配信・収録における保護者同意と終了時刻の明示。
四、食事・休憩時間の記録。
五、心理的負荷の高い企画の事前審査。
六、本人が不安を示した場合の中断基準。
七、保護者・本人への契約説明記録。
書いているうちに、これはLumiRiseのためだけではないと改めて思った。
奈々だけではない。
同じような立場の子は、業界に何人もいる。
怖いと言えずに笑っている子。
眠いと言えずにメイクで隈を隠している子。
食べたいと言えずに水だけ飲んでいる子。
泣きたくないのに、泣けと言われる子。
そういう子たちに必要なのは、優しい言葉だけではない。
止める規程だ。
午後一時過ぎ、片桐から保護者会議の第一報が届いた。
本人・保護者の意思確認中。
四名とも、活動継続希望は強い。
ただしスターリットに残る条件として、以下を求める方向。
・RVE契約および外部施策の完全停止
・第三者性ある調査体制
・黒崎、神田、須藤のLumiRise案件からの完全排除
・契約説明のやり直し
・未成年者稼働・配信・SNS施策の明文化
・佐伯氏への処分撤回または再検討
会社が応じない場合、契約解除交渉を検討。
私はその文面を読み、長く息を吐いた。
彼女たちは、すぐに出ると言っているわけではない。
活動を続けたい。
だから条件を出す。
それが正しい。
残れるなら残る。
変わるなら続ける。
でも、変わらないなら出る。
子どものわがままではない。
条件交渉だ。
午後二時、スターリットから保護者側へ、契約関連の追加回答が届いた。
片桐から共有された内容を読んで、私は眉を寄せた。
RVEプロモーション企画室との契約において、SNS上の話題化支援に関する成果指標が設定されていたことは事実です。
ただし、所属タレント本人への誹謗中傷、虚偽情報の拡散、不仲を事実であるかのように演出することを会社が指示した事実はありません。
「疑似自然発生投稿」については、ファンコミュニティ内の自然な反応を分析・増幅する施策を指すものであり、違法または不適切な投稿を意図するものではありません。
今後、誤解を招く文言については契約書式の見直しを行います。
誤解を招く文言。
まただ。
問題を「表現」の問題に矮小化しようとしている。
だが、文言だけなら、なぜ切り抜き動画が出たのか。
なぜ不仲説が特定のタイミングで拡散したのか。
なぜ奈々一人の夜配信が設定されたのか。
なぜ活動継続確認書に署名を求めたのか。
なぜ須藤がLumiRise案件から外されたのか。
それらの説明がない。
片桐のコメントは早かった。
文言の問題に限定する回答では不十分。
実際の運用、投稿アカウントとの関係、切り抜き動画の出所、RVE担当者の企画資料、須藤氏らの指示系統を含めた調査が必要。
午後三時半、保護者側は正式に「活動継続条件書」を会社へ送付した。
そこには、七つの条件が明記されていた。
一、RVEおよび関連会社とのLumiRise案件契約停止。
二、黒崎、神田、須藤、小早川のLumiRise活動方針決定からの排除。
三、外部専門家を含む独立性のある調査体制の設置と結果の概要公表。
四、本人・保護者への契約説明の再実施。
五、未成年者稼働、SNS配信、炎上・不仲・涙・怪我を扱う企画の禁止規程化。
六、契約確認・安全申告・佐伯氏との過去の業務関係を理由とする不利益取扱い禁止。
七、佐伯美月への処分について、安全管理判断との関係を再調査し、結論が出るまで懲戒手続きを停止すること。
私はその文書を読みながら、何度も頷いた。
保護者と本人たちは、本気でスターリットに最後の機会を与えている。
これは離脱通知ではない。
改善要求だ。
しかし、会社がこれを拒めば、離脱の正当性はさらに強くなる。
午後四時、私は片桐から別の資料を受け取った。
新会社設立の初期費用見積もり。
法人設立費。
住所利用。
税理士。
契約書作成。
保険。
顧問料。
小規模なスタジオや会議室を借りる場合の費用。
半年分の最低運転資金。
数字は厳しい。
私の貯蓄では、ぎりぎり届かない。
借入が必要だ。
あるいは、最初は常設事務所を持たず、シェアオフィスと外部スタジオで運用する。
スタッフも正社員ではなく、業務委託から始める。
ただし、未成年者保護やハラスメント窓口、契約説明だけは削らない。
削ってはいけない。
私は表に優先順位をつけた。
削れるもの。
削れないもの。
削れるもの。
内装。
宣伝費。
大きなオフィス。
専属スタジオ。
削れないもの。
弁護士。
税理士。
労務管理。
保険。
医療・心理相談先。
契約説明。
休憩・食事・移動費。
タレントの安全。
こうして見ると、スターリットが何を削っていたのかも見えてくる。
削ってはいけないものを削り、派手なものに金をかけていた。
午後五時、宣伝担当から片桐経由で連絡が届いた。
佐伯さんへ直接ではなく、片桐先生経由で失礼します。
私はスターリットに残るかもしれませんが、今回の件で、宣伝のあり方を考え直しました。
もし今後、安心して応援できる発信を作る仕事が必要になったら、相談してください。
ただし、今は社内の調査に協力します。
LumiRiseの今日の活動は休みに切り替わりました。四人とも帰宅済みです。
私はその文面を読み、目を閉じた。
彼女もまた、選ぼうとしている。
今すぐ会社を出るわけではない。
でも、自分の仕事の意味を考え直している。
宣伝は、炎上を作ることではない。
安心して応援できる発信を作ること。
その言葉を、私は新会社ノートに書き写した。
夕方六時過ぎ、白石瑠璃から連絡が来た。
美月さん、私の契約も見直すことになりました。
片桐先生とは別の弁護士さんにも相談しています。
すぐにスターリットを離れるとは言いません。
でも、私も「歌い続けられる条件」を文書にします。
私は返信した。
それがいいです。
残るにしても、出るにしても、条件を明確にしてください。
自分の喉と活動を守るために。
瑠璃。
LumiRiseの子たちも、今そうしているんですよね。
はい。
美月さんの事務所、名前は決まりましたか?
私は少し驚いた。
なぜその話に。
なんとなくです。
美月さんが何も準備しないわけがないので。
相沢、瑠璃、片桐。
どうして私の周りは勘の鋭い人ばかりなのだろう。
少し迷ってから返信した。
仮で、アステル・マネジメントです。
まだ何も決まっていません。
瑠璃。
いい名前です。
星は、燃やされるものじゃなくて、自分で光るものですもんね。
私は画面を見つめた。
まさに、その意味だった。
まだ仮です。
じゃあ、仮でも覚えておきます。
夜八時、LumiRiseのグループチャットに四人の報告が入った。
花音。
今日、四人と保護者で話しました。
私たちは、スターリットに残る条件を文書で出しました。
それでも変わらないなら、契約解除も考えます。
優芽。
正直、怖いです。
名前も曲も使えなくなるかもしれないって聞いて、泣きました。
奈々。
私も泣きました。
LumiRiseって名前、大事です。
でも、名前があっても、自分たちの言葉がなくなるなら怖いです。
澪。
名前を取られても、私たちが消えるわけじゃない。
でも悔しい。
すごく悔しい。
花音。
悔しいね。
でも、今は決めつけない。
会社の回答を待ちます。
そして、私たちで選びます。
優芽。
私たちで選ぶ。
奈々。
はい。
澪。
署名するなら、自分で納得してから。
花音。
そうしよう。
私はそのやり取りを、ただ見守った。
彼女たちは喪失の可能性に直面している。
名前。
曲。
過去。
それらを失うかもしれない痛みを、初めて具体的に見ている。
それでも、選ぶと言った。
私たちで選ぶ。
その言葉は、どんな契約書の文言より重かった。
私は返信しないまま、新会社準備ノートを開いた。
表紙の次のページに、改めて大きく書いた。
アステル・マネジメント設立準備
もう、仮ではあるが逃げ道ではない。
ここから本当に準備する。
法人設立手続き。
資金調達。
契約書作成。
規程整備。
協力者リスト。
仕事の見込み。
権利関係。
危機対応。
そして、最初に置く理念。
誰かを燃やして光らせない。
自分で光る人を、消えないように支える。
書き終えたとき、手が少し震えていた。
怖い。
失敗すれば、私だけでは済まない。
受け皿を作るということは、誰かの人生の次の一歩を預かるということだ。
スターリットを批判するだけなら、まだ簡単だった。
新しい場所を作るのは、ずっと難しい。
でも、作らなければならない。
少なくとも、作る準備だけは。
深夜前、片桐から最後のメールが届いた。
商号「アステル・マネジメント」、現時点で重大な問題は見つかっていません。
詳細調査は継続します。
定款案を明日送ります。
私はそのメールを読み、静かに息を吐いた。
名前のない準備が、少しだけ名前を持った。
まだ法人ではない。
まだ事務所でもない。
机一つ、看板一つない。
所属タレントもいない。
仕事も保証されていない。
それでも、名前がついた瞬間、未来は少し現実に近づいた。
今日の記録をまとめる。
LumiRiseおよび保護者、スターリットへの活動継続条件書を送付。
条件:RVE契約停止、関係者排除、独立性ある調査、契約説明やり直し、未成年・SNS施策規程化、不利益取扱い禁止、佐伯処分再調査。
会社回答待ち。
LumiRise、名前・楽曲喪失の可能性を認識しつつ、自分たちで選ぶ意思。
佐伯、新会社設立準備を具体化。商号仮案「アステル・マネジメント」。
目的:選択肢を作ること。誘導ではない。
最後に、一行を書いた。
名前は奪われるかもしれない。けれど、声は奪わせない。
保存。
窓の外は暗かった。
スターリットのビルは、今も渋谷の坂の上で光っているのだろう。
その光は大きく、派手で、遠くからでも目立つ。
私が作ろうとしているものは、まだ机の上の紙だけだ。
小さく、弱く、形もない。
でも、星は最初から大きいわけではない。
小さな光でも、消えなければいい。
燃やされるのではなく、自分で光る場所。
名前のない事務所は今日、ようやく一つの仮の名前を得た。




