第22話 離脱の意思
RVE契約書に署名が見つかった翌日、スターリット・プロダクションの空気はさらに重くなっていた。
私は自宅待機中なので、その空気を直接吸っているわけではない。
けれど、届く情報の断片だけで十分だった。
総務部長から片桐弁護士へ共有された正式文書。
保護者たちからの報告。
相沢の取材メモ。
宮内からの短い注意喚起。
LumiRiseのグループチャットに滲む緊張。
それらをつなぐと、会社の中で何が起きているかは見えてくる。
黒崎常務は、まだ抵抗している。
神田部長は、自分は制作側で契約詳細は知らなかったと言い始めている。
須藤は、上層部の指示を受けただけだと主張している。
RVEは、疑似自然発生投稿という文言を「コミュニティ分析上の概念」と説明しようとしている。
真壁亮司は、RVE役員から外れたことを強調し、現在の関与を否定する準備をしている。
誰も、自分が火をつけたとは言わない。
誰も、火のそばに若いタレントを立たせた責任を取ろうとしない。
そして、LumiRiseは、その火元の真ん中で、今日も仕事をしていた。
午前九時、花音からグループチャットに報告が入った。
起床しました。睡眠六時間。体温36.3度。今日は午前レッスン、午後に事務所面談があります。
優芽。
起きました。睡眠七時間。足首痛み一。レッスンは低負荷でお願い済みです。
奈々。
起きました。睡眠七時間。体温36.5度。面談が少し怖いです。
澪。
起床。睡眠六時間。面談内容は文面でもらうよう確認済み。
花音。
今日の面談は、会社から「今後の活動方針について」と言われています。保護者同席を求めました。
澪。
最初は本人だけって言われたけど、断りました。
優芽。
断れるようになったの、すごい。
奈々。
一人で行かないって決めました。
私は画面を見つめた。
今後の活動方針。
会社がこのタイミングで四人を呼ぶ理由は限られている。
火消しのために協力させる。
形だけの説明をして納得したことにする。
もしくは、活動継続の条件を突きつける。
私は返信しない。
接触制限がある。
だが、緊急性のある相談が来た場合に備え、片桐へこのやり取りを転送した。
片桐からすぐに返信が来た。
保護者同席を求めた判断は適切です。
面談前に、本人たちへ「即答しない」「録音可否を確認」「議事録作成を求める」「持ち帰る権利」を保護者経由で共有します。
数分後、保護者連絡網に片桐事務所から文面が送られた。
私はそれを見て、少しだけ安心した。
私が直接動かなくても、必要な手順は回っている。
それでも落ち着かなかった。
今日は、何かが動く。
そんな予感があった。
午前中のレッスンは、比較的穏やかに進んだようだった。
LumiRiseのグループチャットには、優芽から明るい報告があった。
低負荷レッスン、ちゃんと成立しました!
先生が「動けない日用の見せ方も武器」って言ってくれました。
花音。
今日は休憩も予定通り。
奈々。
レッスン前におにぎり食べました。
澪。
普通の報告なのに、すごく大事に感じる。
優芽。
普通って大事。
そう。
普通が大事だ。
だが、その普通は午後に崩れかけた。
午後一時半。
面談が始まる直前、花音の母から片桐へ連絡が入った。
会社側は、総務部長と法務担当が同席すると言っていた。
しかし、実際に会議室にいたのは、黒崎常務、神田部長、総務部長、法務担当、そして新しく呼ばれた広報部長だった。
保護者側は、四人の保護者全員と、片桐事務所の弁護士。
LumiRise本人は、花音と澪が出席し、優芽と奈々は保護者同席のもと別室からオンライン参加に切り替えた。
未成年である奈々を、黒崎のいる会議室に直接入れない判断だった。
正しい。
午後二時過ぎ、片桐事務所の弁護士から、会議中のメモが共有された。
会社側説明:
・一連の報道でスポンサー対応が必要になっている。
・LumiRiseの活動継続には、事務所として統一した発信が必要。
・今後、メンバー個人による契約や内部事情に関する発信は控えてほしい。
・外部からの影響を受けた発言は、グループのブランドを傷つける。
・佐伯氏との私的連絡は控えること。
・調査中のため、RVE契約の詳細はまだ回答できない。
・活動継続のためには、会社と信頼関係を再構築する必要がある。
信頼関係。
便利な言葉だ。
会社が説明責任を果たさないまま、タレントにだけ従順さを求めるときによく使われる。
午後二時半、さらにメモが来た。
花音さん発言:
「私たちは活動を続けたいです。でも、何に同意していたのかわからないまま、また同じ施策を受けることはできません」
澪さん発言:
「信頼関係と言うなら、先に説明してください。私たちは確認しているだけです」
黒崎氏発言:
「君たちは今、自分たちの立場を危うくしている。仕事を続けたいなら、大人の話を少しは理解したほうがいい」
私は画面を見て、手が冷たくなるのを感じた。
不利益取扱いをしないと会社は文書で出したばかりだ。
それでも黒崎は、立場が危うくなると本人たちに言った。
これは明確に記録すべき発言だった。
片桐からすぐに別メッセージが来た。
こちらから、不利益示唆に当たる可能性があるとその場で指摘済み。議事録に残すよう求めています。
さすがだった。
午後三時前、面談はさらに緊張した。
会社側は「活動継続確認書」という書類を提示した。
そこには、こう書かれていたという。
LumiRiseメンバーは、今後の活動継続にあたり、事務所の方針に従い、契約内容および内部事情について外部へ不必要な発信を行わないことを確認する。
また、一連の報道に関して、事務所と協力して信頼回復に努める。
私はその文面を読んで、はっきりと嫌悪感を覚えた。
活動継続確認書。
名前は柔らかい。
だが、中身は口封じだ。
「契約内容および内部事情について外部へ不必要な発信を行わない」
何が不必要かは会社が決める。
「事務所と協力して信頼回復」
誰の信頼を、誰の責任で回復するのか曖昧にしている。
まるで、LumiRiseにも非があったかのように。
午後三時十五分。
花音の発言メモが届いた。
花音さん:
「この書類には署名できません。私たちが何か悪いことをしたように読めます」
澪さん:
「信頼を壊したのは、私たちではありません」
黒崎氏:
「そういう態度なら、活動継続自体を見直さざるを得ない」
保護者側弁護士:
「契約確認や説明要求を理由とした不利益取扱いを行わないとの文書回答と矛盾します。発言の撤回を求めます」
私は思わず立ち上がっていた。
部屋の中を歩く。
何もできない。
会議室に飛び込むこともできない。
声を上げることもできない。
だが、彼女たちは言った。
署名できません。
信頼を壊したのは、私たちではありません。
私は、画面越しにその言葉を何度も読んだ。
彼女たちは、もう自分たちを責めていない。
大人の都合に、自分たちの罪を背負わされそうになっても、違うと言える。
それだけで、どれほど大きな前進か。
午後三時四十分、面談は一時休憩になった。
そのタイミングで、LumiRiseのグループチャットに花音からメッセージが入った。
休憩中です。
活動継続確認書に署名を求められました。署名しませんでした。
佐伯さんへの返信不要です。記録として残します。
澪。
署名しない。
これは四人の総意です。
優芽。
オンラインで聞いてたけど、無理です。あれにサインしたら、私たちが悪かったみたいになる。
奈々。
怖かったです。でも、署名したくないです。
花音。
このまま活動を続けたいです。
でも、今の条件では続けられません。
その文面を見た瞬間、私は胸の奥が強く鳴った。
今の条件では続けられない。
それは、離脱の入口だった。
まだ「辞める」とは言っていない。
でも、会社が変わらないなら、そこにはいられない。
その意思が、初めて四人の言葉として形になった。
片桐から電話が来た。
「佐伯さん、聞いていますね」
「はい」
「保護者側から、面談をこれ以上続けるのは危険と判断し、終了を求める方向です」
「会社側は?」
「引き留めています。ただ、活動継続確認書への署名を拒否したことで、かなり苛立っています」
「四人は大丈夫ですか」
「花音さんと澪さんは疲れていますが、崩れてはいません。奈々さんはオンラインでもかなり怖がっています。優芽さんは怒っています」
その通りの反応だと思った。
「ここから、契約解除の話になりますか」
「まだ早いです。ただし、本人たちと保護者が『この条件では活動継続できない』と明確にしたことで、会社との関係は新しい段階に入りました」
「離脱の意思」
「はい。ただし、感情で辞めるのではなく、条件改善要求、調査結果、契約上の解除条項を確認しながら進める必要があります」
「わかっています」
私はノートに書いた。
LumiRise、活動継続確認書への署名拒否。
「今の条件では続けられない」と本人意思。
離脱可能性、現実化。
手順:条件改善要求、調査結果確認、契約解除条項確認、保護者・専門家主導。
午後四時過ぎ、面談は終了した。
保護者側は、活動継続確認書への署名を拒否し、以下を会社へ文書で求めた。
一、RVE契約全文または必要部分の開示。
二、疑似自然発生投稿およびネガティブ拡散成果指標の説明。
三、LumiRise本人・保護者に対する説明不足の有無。
四、不仲演出、涙、怪我を利用した施策の有無。
五、契約確認・安全申告を理由とする不利益取扱いを行わないことの再確認。
六、佐伯美月への処分理由と、安全管理判断との関係。
七、第三者性のある調査体制の設置。
八、回答があるまで、本人意思に反する追加施策・生配信・炎上関連取材を行わないこと。
保護者たちは強かった。
いや、最初から強かったのだ。
ただ、これまで情報がなかった。
何を聞けばいいかわからなかった。
今は違う。
契約書があり、記録があり、専門家がいる。
だから、強さが形になった。
夕方、LumiRiseは予定されていた撮影をキャンセルし、帰宅となった。
会社側は「本人たちの精神的負担を考慮」と説明したが、実際には面談の空気が悪くなり、これ以上仕事をさせれば問題になると判断したのだろう。
それでも、帰宅になったこと自体は良かった。
四人は疲れている。
今日はもう、ステージに立たなくていい。
夜七時、グループチャットに花音から長いメッセージが届いた。
今日は疲れました。
でも、署名しなくてよかったと思っています。
私たちはスターリットで活動してきました。スタッフさんにも、ファンにも、感謝しています。
でも、会社が私たちの不安や契約確認を「ブランドを傷つけるもの」と扱うなら、ここで活動を続けることは難しいです。
これは、辞めたいというより、安心して続けたいという話です。
安心して続けることができないなら、別の道を考えたいです。
優芽。
私も同じです。
踊りたいです。ステージに立ちたいです。
でも、怪我をネタにされたり、怖いのに一人で配信させられたりするなら嫌です。
長く踊りたいから、今のままは無理です。
奈々。
私も同じです。
怖いって言ったら仕事がなくなるかもしれないと思っていました。
でも、怖いまま何も言えなくなるほうがもっと怖いです。
私は、泣くための仕事をしたいわけじゃないです。
澪。
私も同じ。
売れたいです。
でも、誰かを悪者にする物語で売れたくない。
私たちが悪くないことに、謝る署名はしません。
スターリットに残るなら、条件を変えてほしい。
変わらないなら、出ることも考えます。
私は画面を見つめたまま、動けなかった。
これが、四人の意思だ。
誰かに言わされたものではない。
怒りだけでもない。
逃げでもない。
活動したい。
売れたい。
でも、壊される形では続けられない。
安心して続けられないなら、別の道を考えたい。
それは、離脱の意思だった。
私は返信しない。
できない。
でも、片桐へこの流れを共有した。
片桐から返信が来た。
重要です。
ただし、これは契約解除通知ではありません。
本人たちの意思形成過程として慎重に扱います。
保護者・専門家と正式に協議しましょう。
わかっている。
ここで私が「出ましょう」と言えば、すべてが壊れる。
引き抜きだと言われる。
扇動だと言われる。
彼女たちの意思まで、私の操作にされる。
だから、私は言わない。
ただ、選べる場所を準備する。
それだけだ。
夜八時半、白石瑠璃からメッセージが来た。
LumiRiseの子たち、今日かなり大きな決断をしたんですね。
私は驚いた。
どこで聞きましたか。
社内の空気でわかります。
神田部長が「若手まで佐伯みたいなことを言い出した」と怒っていたそうです。
でも、それは佐伯さんみたいになったんじゃなくて、自分の言葉を持っただけですよね。
私はその文面を読み、深く息を吐いた。
はい。
彼女たち自身の言葉です。
瑠璃。
美月さん、準備しているんですよね。外の場所。
私はしばらく返信できなかった。
瑠璃は鋭い。
相沢も気づいていた。
片桐も当然知っている。
だが、LumiRiseにはまだ言っていない。
準備はしています。
ただし、誰かを誘導するためではありません。
選択肢を作るためです。
瑠璃。
それでいいと思います。
選択肢がないと、人は我慢を夢だと思い込まされます。
その言葉に、私は胸を突かれた。
我慢を夢だと思い込まされる。
芸能界には、それが多すぎる。
つらいのは売れるため。
寝られないのはチャンスの証。
傷つくのは注目されているから。
泣くのは成長物語。
いつの間にか、本人の悲鳴が「夢の代償」に変えられる。
でも、本当は違う。
夢は、人を壊す免罪符ではない。
夜九時、片桐とオンラインで短い打ち合わせをした。
「LumiRise本人たちの意思は、かなり明確になりました」
片桐は言った。
「ただし、今すぐ契約解除を申し入れるには、まだ材料を整理する必要があります」
「解除事由は?」
「説明義務違反、未成年者への不適切施策、本人意思に反する活動方針、信頼関係破壊。ただし、契約条項上どう主張できるかは契約書全文の確認が必要です」
「違約金は?」
「追加同意書や活動継続条項次第です。会社が違約金を主張する可能性はあります。ただ、不適切な施策や説明不足が認められれば、交渉余地があります」
「グループ名や楽曲は」
「おそらく会社側に権利があります。離脱する場合、LumiRiseという名前や既存楽曲を使えない可能性があります」
予想していた。
それでも、言葉にされると重い。
LumiRiseという名前。
夜明けのプリズム。
白と淡いブルーの衣装。
ファンミの思い出。
会社を離れるということは、それらの一部を置いていく可能性がある。
彼女たちに、その覚悟を求めることになる。
「佐伯さん」
片桐が静かに言った。
「あなたが受け皿を作る準備をしていることは理解しています。ただ、本人たちに話すタイミングは慎重に。まずは、スターリットに対して改善要求を出す。その回答を見てからです」
「はい」
「そして、仮に離脱する場合も、本人・保護者が主体です。佐伯さんは誘導者ではなく、将来の選択肢の一つでなければなりません」
「わかっています」
「もう一つ。会社側は、LumiRiseの離脱意思をあなたの扇動に結びつけてくるでしょう」
「でしょうね」
「だからこそ、今日のグループチャットの流れは重要です。あなたが返信していないこと、保護者と弁護士同席の面談後に本人たちが意思を形成していること。これは記録上、非常に大切です」
私は頷いた。
返信しないことにも意味がある。
黙ることが、彼女たちの意思を守ることになる。
もどかしい。
でも、必要だ。
通話後、私は新事務所準備ノートを開いた。
ページの上に、こう書いた。
離脱後のリスク整理
一、グループ名使用不可の可能性。
二、既存楽曲使用不可の可能性。
三、ファンクラブ・SNSアカウント喪失。
四、違約金請求。
五、スポンサー契約の再交渉。
六、学校・保護者対応。
七、メンタルケア。
八、ファンへの説明。
九、活動休止期間の生活費。
十、新しい名前、新しい楽曲、新しい契約。
書けば書くほど、道は険しい。
それでも、不可能ではない。
必要なのは、準備。
資金。
専門家。
仲間。
そして、本人たちの意思。
今日、その最後の一つが初めて明確になった。
深夜前、LumiRiseのグループチャットに最後のメッセージが届いた。
花音。
明日、四人と保護者で改めて話します。
スターリットに残る条件、残れない場合のこと、全部整理します。
優芽。
怖いけど、ちゃんと話す。
奈々。
私も、泣いても話します。
澪。
泣いてもいい。署名はしない。
優芽。
それ合言葉みたい。
花音。
今日の合言葉にしよう。
泣いてもいい。署名はしない。
奈々。
はい。
私は画面を見ながら、静かに笑った。
泣いてもいい。
署名はしない。
なんて強い言葉だろう。
涙を否定しない。
でも、不当なものにはサインしない。
それが今の彼女たちだった。
私は今日の記録をまとめた。
会社、LumiRiseへ「活動継続確認書」署名を求める。
内容:会社方針への従属、内部事情発信抑制、信頼回復協力。
LumiRiseおよび保護者、署名拒否。
黒崎「活動継続自体を見直さざるを得ない」と発言。不利益示唆として指摘。
四人「今の条件では続けられない」「安心して続けられないなら別の道」と意思表明。
現時点では契約解除通知ではなく、本人意思形成過程。
離脱可能性が現実化。
最後に、一行を加えた。
泣いてもいい。署名はしない。
保存。
LumiRiseは、スターリットを離れるかもしれない。
それは、大きな喪失を伴う。
名前も、曲も、場所も、これまで積み上げたものの一部を失うかもしれない。
でも、彼女たちは今日、自分たちの言葉を失わなかった。
大人に囲まれ、活動継続を人質にされ、曖昧な書類を差し出されても、署名しなかった。
それは、ただの拒否ではない。
自分たちの未来を、自分たちの手元に取り戻す最初の行動だった。
明日から、離脱の準備が始まる。
もちろん、まだ決定ではない。
スターリットが本当に変わるなら、残る道もある。
だが、変わらないなら。
彼女たちは出る。
そしてそのとき、外に受け皿がなければならない。
私はノートを閉じ、深く息を吐いた。
怖い。
責任が重い。
でも、確認して進む。
あの子たちが泣きながらでも署名しなかったのなら、私は外で、署名できる未来を作る。
本人が理解し、納得し、自分の名前を書ける契約を。
誰かを黙らせるためではなく、守るための署名を。




