第16話 限界の合図
自宅待機三日目の朝、私は自分の部屋で資金計画表を作っていた。
法人設立費用。
弁護士費用。
税理士顧問料。
小さな事務所を借りる場合の初期費用。
外部レッスン費。
交通費。
イベント保険。
スタッフ業務委託費。
医療機関・カウンセリング相談費。
数字を並べていくと、理想は簡単に現実へ引き戻される。
誰かを守る場所を作りたい。
その願いだけでは、家賃は払えない。
タレントに「無理をしないで」と言うなら、無理をしなくても回る予算を組まなければならない。
私は表計算ソフトのセルに、最低六か月分の運転資金を入力した。
予想より大きな金額だった。
貯蓄だけでは厳しい。
融資、出資、業務委託案件、コンサルティング収入。考えなければならないことはいくらでもある。
そのとき、スマートフォンが震えた。
LumiRiseのグループチャットではない。
奈々からの個別メッセージだった。
佐伯さん、すみません。緊急じゃなかったら返事しなくて大丈夫です。
今日、須藤さんから夜の個人配信をやるように言われました。
私だけです。
「泣き虫じゃないところを見せるチャンス」って。
でも、少し怖いです。
私は画面を見つめた。
胸の奥が冷たくなる。
奈々だけの個人配信。
ファンミ後、不仲説、切り抜き動画、契約確認申請。
この状況で、十五歳の奈々を夜に一人で配信させる。
狙いは明らかだった。
奈々の不安を利用する。
コメント欄に切り抜きや澪の話題が流れれば、泣くかもしれない。
泣けば、また「守りたくなる最年少」として消費できる。
私はすぐに返信したくなる衝動を抑えた。
自宅待機命令。
接触制限。
ただし、安全・健康・権利侵害に関する緊急相談は、総務部へ転送するための必要最小限の応答を妨げない。
これは、その範囲に入る。
未成年者の夜間個人配信。
心理的安全。
コメント管理。
十分に緊急性がある。
私は短く返した。
緊急性があります。
すぐに保護者、花音さん、総務部へ同じ内容を共有してください。
口頭で了承しないこと。
「未成年者の夜間個人配信について、保護者同意、終了時刻、コメント監視体制、体調不良時の中断基準を文面で確認したい」と送ってください。
私からは総務部へ転送します。
送信後、すぐに片桐弁護士にも共有した。
そして総務部長へ、接触制限の追記条項に基づく転送としてメールを作成する。
件名:未成年メンバーへの夜間個人配信指示について
三枝奈々さんより、須藤氏から本日夜の個人配信指示を受け、不安を示す連絡がありました。
自宅待機命令における緊急性のある安全・健康・権利侵害相談の転送として共有します。
未成年者の夜間配信につき、保護者同意、終了時刻、コメント監視体制、体調不良時の中断基準、責任者を文面で確認してください。
送信。
すぐに既読はつかない。
だが、送信記録は残った。
数分後、花音からグループチャットにメッセージが入った。
奈々から共有を受けました。
四人で確認します。
澪。
奈々一人でやる必要ありますか。ないですよね。
優芽。
ない。絶対ない。
奈々。
すみません。私だけ怖がってるのかと思ってました。
花音。
怖がっていい。これは一人で抱えないことです。
私は返信しない。
彼女たち自身の会話を見守る。
その数分後、花音が須藤へ送った文面をグループに共有した。
本日の三枝奈々個人配信について確認します。
三枝は未成年であり、ファンミおよびSNS炎上対応後の心理的負荷が続いています。
実施する場合、以下を文面でご回答ください。
・保護者同意の有無
・開始時刻、終了時刻
・コメント監視担当者
・不仲説、切り抜き、個人攻撃コメントの扱い
・体調不良時の中断基準
・責任者
なお、本人は現時点で不安を示しています。
完璧だった。
その後、奈々の母、朋子さんからも須藤と総務へメールが送られた。
未成年である三枝奈々の夜間個人配信について、保護者として詳細説明を求めます。
本人が不安を示している状態での実施には同意できません。
実施判断を保留してください。
状況は動いた。
しかし、須藤の返信は予想通りだった。
大げさです。
ファンミで注目が集まっている今、奈々ちゃん個人の成長を見せる良い機会です。
泣き虫じゃないと言うなら、一人でも話せるところを見せましょう。
保護者同意については事務所契約上問題ありません。
配信は予定通り実施します。
私はその文面を見て、怒りより先に、冷静な判断が走った。
「泣き虫じゃないと言うなら」
本人の不安を煽っている。
「一人でも話せるところを見せましょう」
未成年者への圧力だ。
保護者が同意しないと言っているにもかかわらず、契約上問題ないと押し切ろうとしている。
これは危険だ。
私は総務部長へ追加メールを送った。
須藤氏より、保護者が詳細説明を求めているにもかかわらず、配信実施予定との返信あり。
未成年者本人が不安を示しており、保護者も同意保留しています。
総務および法務で至急確認してください。
片桐にも共有する。
片桐からはすぐに返信が来た。
保護者が明確に同意保留している以上、強行は危険です。
保護者から会社へ正式に実施中止を求める文書を出すべきです。
こちらで文案を作れます。
私は朋子さんへ、片桐法律事務所へ相談するよう一般的に促した。
そこからの動きは早かった。
朋子さんが片桐へ直接連絡し、未成年者の夜間個人配信中止を求める文書を会社へ送った。
宛先は黒崎、神田、須藤、総務部長。
内容は簡潔だった。
三枝奈々は未成年であり、現在SNS上の不仲説および切り抜き動画拡散に関連した心理的負荷がある。
本人が不安を示している状態で、保護者への具体説明なく夜間個人配信を実施することには同意しない。
実施する場合は、保護者同席、終了時刻、コメント監視、中断基準、責任者を文書で提示すること。
それまでは実施を認めない。
十五時過ぎ、総務部長から全員宛に返信があった。
本日の三枝奈々個人配信は、保護者同意および実施体制の確認が整うまで延期とします。
延期。
実質中止だった。
私は画面の前で静かに息を吐いた。
奈々を一人で火の前に立たせずに済んだ。
グループチャットでは、優芽が大きく反応していた。
止まった!
澪。
止めた、です。
花音。
奈々、よかった。
奈々。
ありがとうございます。みんながいなかったら、たぶん「やります」って言ってました。
澪。
言わなくてよかった。
優芽。
怖いって言ってくれてよかった。
花音。
怖いは、止まる合図だね。
私はその言葉で手を止めた。
怖いは、止まる合図。
花音らしい言葉だった。
これまで彼女たちは、怖さを押し殺してきた。
疲れも、痛みも、不安も、全部「プロ意識」で隠してきた。
でも今は違う。
怖いと言えたから、止められた。
限界の合図は、倒れることではない。
怖い、痛い、眠い、嫌だ。
その言葉が出た時点で、もう対応すべきなのだ。
私は返信しなかった。
ただ、その一文をノートに書いた。
怖いは、止まる合図。
夕方、片桐弁護士との短い電話で、私はこの件を共有した。
「良い対応でした」
片桐は言った。
「佐伯さんが直接会社と争うのではなく、本人、保護者、総務、法務のルートで止めた。会社側は『佐伯が妨害した』と言いづらい」
「須藤はそう言うと思います」
「言うでしょう。でも記録上は、未成年者本人の不安、保護者の同意保留、総務判断です」
「はい」
「LumiRise側が自分たちで手順を使えるようになっているのが大きいですね」
「そう思います」
片桐は少し間を置いてから続けた。
「ただ、これで須藤氏や黒崎常務はさらに苛立つでしょう。次は、佐伯さんではなく、メンバー本人たちの仕事を減らす形で圧をかけるかもしれません」
「仕事を人質にする」
「はい。『言うことを聞かないなら仕事がなくなる』という形です」
私は目を閉じた。
想定していた。
それでも、実際に来れば彼女たちは傷つく。
特に花音は、「自分たちのせいで仕事が減った」と責任を感じるだろう。
優芽は「踊れないから」と自分を責めるかもしれない。
奈々は「怖いと言ったから」と思うかもしれない。
澪は怒りで正面衝突しそうになる。
それぞれの弱点を、会社は突いてくる。
「対策は?」
「仕事が減った場合、その理由を文面で求めること。スポンサーや制作会社から直接断られたのか、会社判断なのかを分けること。曖昧に『お前たちのせい』とされるのを防ぐ必要があります」
「本人たちへ伝えるには?」
「接触制限があります。保護者や片桐事務所を通すのが安全です」
「わかりました」
電話を切ったあと、私は新事務所準備リストに新しい項目を加えた。
仕事を人質にしない。
その下に書く。
タレントが安全確認や契約確認を求めたことを理由に、仕事機会を恣意的に減らさない。
仕事減少時は、外部要因・本人希望・安全上の理由・営業判断を明確に分け、本人へ説明する。
「言うことを聞かないと仕事がなくなる」という圧力を禁止する。
書きながら、私は思った。
スターリットで見た悪いものが、次々に新しいルールの種になっている。
皮肉だ。
でも、それでいい。
痛みをただの痛みで終わらせない。
仕組みに変える。
午後六時過ぎ、優芽の父からメールが来た。
橘優芽の父です。
本日、娘から夜配信延期の件を聞きました。
佐伯さんの立場上、直接のご助言が難しいことは理解しています。
ただ、娘が「怖いと言っていい」と学んだことは大きいです。
契約確認の面談には、片桐先生に同席を相談します。
続いて、花音の母からも。
花音が、以前より自分の不安を話してくれるようになりました。
リーダーだから我慢するのではなく、四人で確認すると言っています。
事務所への説明要求は、保護者として進めます。
保護者たちが、少しずつ同じ方向を向き始めている。
これは会社にとって大きな圧力になる。
タレント本人だけなら「わがまま」と片づける。
マネージャーだけなら「越権」と切る。
でも、保護者が正式に説明を求めれば、簡単には無視できない。
私はそれぞれに慎重な返信をした。
感謝と、専門家相談の勧めと、文書化の重要性。
それ以上は踏み込まない。
夜八時。
本来なら奈々の個人配信が始まるはずだった時間。
公式アカウントには、代わりに四人の写真が投稿された。
ファンミーティングの舞台裏写真だった。
白と淡いブルーの衣装で、四人が円陣を組んでいる。
キャプション。
昨日のファンミーティング、ありがとうございました。
LumiRiseはこれからも四人で、自分たちの言葉を大切に進んでいきます。
今日はしっかり休んで、また元気に会いましょう。
宣伝担当の文面だとすぐにわかった。
無理に配信しない。
休むことを前向きに伝える。
それだけで、ファンの反応は温かかった。
休んでくれて安心した
昨日すごく良かったからゆっくりして
四人で進むって言葉、嬉しい
奈々ちゃん無理しないでね
優芽ちゃん足お大事に
私は投稿の反応を見ながら、少しだけ肩の力を抜いた。
休むことも、発信になる。
無理を美談にしなくても、ファンは受け止める。
会社が思っているほど、ファンは痛みを求めていない。
少なくとも、本当に応援している人たちは。
そのとき、相沢からメッセージが届いた。
今日の奈々さん個人配信延期、把握しました。
これも重要な流れです。
RVE側は、予定していた「個別感情コンテンツ」を潰されたと見ている可能性があります。
こちらで、RVEの成果報酬契約に関する別ルート証言が取れました。
「ネガティブ拡散も評価対象」と明言した人物がいます。
私は背筋を伸ばした。
誰ですか。
すぐに返事。
広告代理店の元担当者。匿名条件。
大崎氏の部下だった人物です。
彼いわく、LumiRise案件は「炎上耐性テスト」と呼ばれていたそうです。
炎上耐性テスト。
私はその文字を、何度も読み返した。
彼女たちの不安も、奈々の涙も、澪の言葉も、優芽の怪我も、花音の責任感も。
全部、テストの材料だったというのか。
ふざけるな。
怒りが胸の奥から上がってきた。
だが、私はそれを飲み込んだ。
今は怒鳴るときではない。
記録するときだ。
その証言は、記事化可能ですか。
まだ不可。
ただし、裏取りとしては強い。
大崎、真壁、黒崎の会議で使われていた言葉らしい。
私はすぐに片桐へ共有した。
片桐からの返信は短かった。
重要です。
ただし匿名証言が増えているため、使用範囲と保護が課題になります。
証言者を守る設計が必要です。
証言者を守る設計。
莉子。
瑠璃。
広告代理店元担当者。
宮内。
宣伝担当。
衣装担当。
総務部長。
誰もが少しずつ声を出している。
でも、その声は脆い。
会社とRVEが本気で潰しに来れば、個人は簡単に傷つく。
だから、構造として守る必要がある。
弁護士、記者、保護者、本人、記録。
すべてを組み合わせなければならない。
夜九時半、LumiRiseのグループチャットに奈々からメッセージがあった。
今日、配信がなくなって、少しほっとしました。
でも、ほっとしたあとに、自分が弱いのかなと思いました。
花音。
弱くないよ。
優芽。
絶対弱くない。
澪。
弱かったら、怖いって言えない。
奈々。
そうですか?
澪。
そう。
優芽。
澪、今日優しい。
澪。
今日は怒る元気がないだけ。
花音。
怒る元気がない日も休む合図です。
優芽。
花音、名言多い。
奈々。
怖いも、怒れないも、休む合図。
澪。
記録。
私はそれを見て、胸の奥が温かくなった。
彼女たちは、限界の合図を学んでいる。
体調不良だけではない。
怖い。
ほっとした。
怒る元気がない。
それも、心のサインだ。
私は返信しないまま、そのやり取りを見守った。
すると、花音が最後にこう送った。
明日からまた仕事がどうなるかわからないけど、何か言われたら四人で確認しよう。
一人で返事しない。
口頭で決めない。
怖かったら止まる。
澪。
了解。
優芽。
了解!
奈々。
はい。
私はスマートフォンを伏せた。
もう、彼女たちは私の言葉をただ真似ているだけではない。
自分たちの言葉に変えている。
一人で返事しない。
口頭で決めない。
怖かったら止まる。
それは、彼女たち自身のルールになり始めている。
深夜前、私は今日の記録をまとめた。
須藤、三枝奈々単独夜間配信を指示。
本人不安あり。保護者同意なし。
LumiRise四名および保護者が文面確認。
片桐弁護士を通じ、保護者より実施中止要請。
総務判断で配信延期。
公式は休養を前向きに伝える投稿へ切替。ファン反応良好。
RVE関連証言:「炎上耐性テスト」との表現あり。
LumiRise内で「怖いは止まる合図」という認識が生まれる。
保存。
その後、新事務所準備ノートを開く。
今日の出来事から、また一つルールを追加した。
限界の合図を本人が出した場合、業務継続ではなく確認を優先する。
「怖い」「嫌だ」「痛い」「眠い」「ほっとした」「怒る元気がない」は、業務上の重要情報として扱う。
根性論で上書きしない。
書き終えたあと、私はペンを置いた。
限界は、倒れた瞬間ではない。
倒れるずっと前から、体と心は合図を出している。
スターリットは、その合図を無視してきた。
私は、無視しない場所を作りたい。
まだ何も持っていない。
会社からは自宅待機を命じられ、業界から消すと脅され、現場には戻れない。
でも今日、奈々の個人配信は止まった。
私が現場にいなくても、本人と保護者と記録が止めた。
これは小さな勝利だ。
そして、大きな前進だ。
誰か一人の正義感ではなく、仕組みで止める。
それができた日だった。
窓の外は暗い。
けれど、机の上のノートには、少しずつ新しい場所の輪郭が増えている。
外に出る準備は、もう私だけのものではない。
限界の合図を聞き逃さない場所。
彼女たちが、怖いと言える場所。
そんな場所を作るために、明日もまた記録を続ける。




