(73) つぐ姫の丸木舟《うつおぶね》
わたじは、村の港に一人立っていた。祭りのために来た舟も繋ぎ、上の歌垣会場の灯りも見える。空の望月と、穏やかな海。
こいしにも、来るなと釘を差した。歌垣の会場から、港が見える。そこで、誰にも言わずに見送ってくれと言った。
つぐひと名乗る娘は、少し離れた村の者なのだろう。約束の舟は本当に来るのだろうか。不安がよぎらないこともない。
遠くに小舟が見えた。望月とはいえ、海は暗い。篝火も焚かず近づいて来るそれは、大昔の漁師が使っていたような、不気味なほど立派な、一本の巨木をくり抜いた丸木舟だった。
丸木舟なら、今も使っている。海女をする時に採った獲物を集めておくのも、用事で隣村などにひとり二人で行くのも、昔からの古い丸木舟だが、こんな大きく立派な舟は見たことがない。
乗っているのは、女がひとり。漕ぎ手も居ないのに、音もなく港に入って来た。つぐ姫だった。
今日のつぐ姫は、村の娘の姿ではなかった。わたじが見たこともない色の服を何枚も重ねて着ている。この世の人とは思えないほど美しかった。
空を舞うように、いつの間にか、つぐ姫は、わたじの前に立っていた。
つぐひは無言で微笑んでいるのに、わたじは、耳ではなく、心に囁くような不思議な声を聞いた。
『わたじ……罪なき御身の捕らえられ、失われ給わんを、ただ見過ぐし果つること、いかでか忍ぶべき。新たなる世へ逃れさせ奉らん。心安らかに、ただ我が身とともに来かし。……この一ひらの餅を、まいらせ給え』
ただの村の娘ではない。わたじには聞いた事もない、高貴な貴族が使う言葉らしいが、意味は心の中にすっと入って来ていた。そして、つぐひの差し出すひとかけらの白い餅を口にして、舟に乗り込んだ。
遠く歌垣の会場の小山の上から、こいしは様子を見ていた。わたじの家族も、こはくも、見守っていた。
それを隣村の若者が気がついて、声をあげた。
「あれは、弟のわたじじゃないか? 龍の背中に乗ってるんじゃないのか?」
月夜の浜に遠く浮かぶ、見たこともないほど大きな丸木舟は、確かに龍の背に見えても不思議ではない。
ぞろぞろと人が集まり、遠くからわたじの旅立ちを見ていた。
わた助は、思った。
『これは使える』




