第六話「焚き火と、パンの欠片」
翌朝、リルドはギルドの裏庭にいた。
普段はあまり使われていない古びた焚き火場で、小枝を集めて丁寧に組み上げていく。
昨日もらった木の実と、市場で安く分けてもらった堅焼きのパンが、布の上に並んでいる。
朝の空気はまだ涼しく、鳥の声が遠くから聞こえてくる。
今日の依頼は、まだ決めていない。
決めなくてもいい朝というのは、リルドにとって格別だった。
「よし、今日はここでゆっくり朝ごはんを食べよう」
火打ち石を打つと、小枝の先に小さな炎が宿った。
パチパチという音が裏庭に広がり、煙が細く空へと昇っていく。
リルドはその前に腰を下ろし、パンを火にかざした。
「……朝っぱらから、贅沢な時間を過ごしてるな、リルド」
背後から低い声がした。
振り返ると、ギルドマスターが腕を組んで立っていた。
いつもは険しい顔で書類と格闘しているか、冒険者たちの騒動に頭を抱えているかのどちらかだが、今朝はそのどちらでもなく、ただ少し疲れた顔をしていた。
その目が焚き火の炎をぼんやりと見つめている。
「あ、マスター。おはようございます。よかったら一緒にどうですか? パン、炙ると美味しいですよ」
「ふん、ありがたく頂戴するか」
ギルドマスターはリルドの向かい側に、どっかりと腰を下ろした。
パンを一枚受け取り、火にかざす。
しばらく、二人の間には焚き火の音だけが流れた。
やがて、ギルドマスターが遠い目のまま、ぽつりと言った。
「近頃、隣国の国境付近で不穏な動きがあるとか、各地で魔獣の活性化が報告されているとか、騒がしい知らせばかりが届いてな。胃が痛い日が続いておる」
「マスターもたまには休めばいいのに。ほら、この木の実、甘いですよ」
リルドは木の実を一つ差し出した。
ギルドマスターはそれを受け取り、少し間を置いてから口に入れた。
眉間の皺が、わずかにほぐれた。
「……甘いな」
「でしょう。昨日、依頼先のおじいさんにもらったんです」
二人は並んで、炙ったパンを齧った。
パンの表面がほんのり焦げて、香ばしい匂いが漂う。
ギルドマスターは何も言わなかったが、その横顔から少しずつ、張り詰めた空気が抜けていくのが分かった。
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そのときだった。
裏庭の木々が、突然激しくざわめいた。
影が差した。
空から、巨大な何かが降りてくる。
その翼が広げた影だけで、裏庭の半分が暗くなった。
ワイバーンだ。
飛行能力を持つ竜種の中でも、その凶暴さで知られる魔獣だ。
王都の周囲には防衛の魔道具が張り巡らされているはずだが、どこかの隙間を潜り抜けてきたらしい。
苛立ったように低く唸りながら、ギルドの建物へと首を向け、喉の奥で炎を溜め始めた。
「チッ、こんな時に……! 全員避難させろ!」
ギルドマスターが立ち上がろうとした。
「あ、熱いのは困るなぁ」
リルドが、静かに呟いた。
立ち上がりながら、手に持っていたパンの欠片を指先で摘んだ。
そのまま、ひょい、と空中のワイバーンへ向けて放り投げた。
ただのパンの欠片だった。
しかしそれは、まるで矢のように空気を切り裂き、ワイバーンの喉元へと一直線に飛んだ。
喉の内側にある、炎を制御する神経の急所。
そこを、パンの欠片が正確に弾いた。
「ガフッ……」
ワイバーンは炎を吐き出す寸前で、その動きが止まった。
大きな瞳がぼんやりと霞み、翼がゆっくりと畳まれていく。
そのまま裏庭の隅へとズシン、と着地し、大きな寝息を立て始めた。
裏庭に、静寂が戻った。
「……マスター、あの子、お腹が空いてたみたいですよ。おとなしくなったし、続き食べましょうか」
リルドは何事もなかったかのように座り直し、火の番を始めた。
ギルドマスターは、眠り込んだワイバーンと、涼しい顔でパンを炙っているリルドを、交互に見た。
それを三往復ほど繰り返してから、深く、深く息をついた。
「……お前なぁ。今のは、Sランク冒険者が十人がかりでかかる仕事だぞ」
「ええ? 僕はただ、せっかくの朝ごはんを邪魔されたくなかっただけですよ」
「…………」
ギルドマスターはしばらく黙ってから、諦めたようにパンを口に入れた。
香ばしい匂いが、また裏庭に広がった。
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その後、駆けつけたSランク冒険者たちがワイバーンを回収していった。
ガルドもその中にいて、眠り込んだワイバーンを見た瞬間、何かを察したような顔をして、リルドの方へちらりと目をやった。
リルドは小さく手を振った。
世間にはすぐに「ギルドマスターの気迫だけでワイバーンが気絶した」という噂が広まったが、ギルドマスター本人は否定も肯定もせず、ただ苦い顔で書類に向かっていた。
夕方、リルドが帰り支度をしていると、受付嬢が声をかけてきた。
「リルドさん、今日は裏庭の掃除まで手伝ってくれたって聞きましたよ。これ、お礼に」
差し出されたのは、一枚の金色の落ち葉だった。
裏庭の古い木から落ちたものらしく、縁がくっきりと金色に染まって、形が整っている。
「わあ」
リルドは目を輝かせ、落ち葉を光に透かした。
葉脈の細かな模様が、光を受けて浮かび上がる。
「ありがとうございます。大切にしますね」
受付嬢は「大げさな」と笑ったが、リルドは本気だった。
今夜は、この落ち葉を栞にして、古い植物図鑑でも眺めよう。
そう決めながら、リルドは夕暮れの街へと歩き出した。
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家に戻ると、窓辺の七色苔がいつものように静かに光っていた。
リルドはその隣に、金色の落ち葉を丁寧に立てかけた。
苔の柔らかな光が落ち葉を照らし、金色がじんわりと部屋に滲んだ。
本棚から古い植物図鑑を引っ張り出し、落ち葉を栞として挟む。
椅子に深く座り直して、図鑑をゆっくりとめくった。
パチパチという音はもうない。
焚き火の温もりだけが、まだどこかに残っているような気がした。
どんなに世界が騒がしくなろうとも、リルドの周りだけには、いつも穏やかな時間が流れている。
万年Fランク冒険者の日常は、今日も誰に邪魔されることもなく、ゆるやかに過ぎていった。




