第五話「井戸の底の、小さな奇跡」
翌朝、リルドは目を覚ますより先に、窓からの光で目蓋が明るくなるのを感じた。
ゆっくりと瞼を開けると、窓辺に置いた七色苔の小瓶が、朝の光を受けて淡く輝いている。
昨夜眺めていたときとはまた色合いが違い、朝の光の中では青みがかった透明な緑が柔らかく滲んでいた。
リルドはしばらくそれを眺めてから、むくりと身を起こした。
「うん、やっぱり綺麗だ」
小瓶を手に取り、光に透かしてみる。
苔の細かな繊維の一本一本が、光を受けて虹色に輝いた。
眺めているうちに、自然と次の考えが浮かんできた。
「今日は、この光に合うような透明な石でも探しに行こうかな」
リルドは小瓶を窓辺に戻し、軽くストレッチをしてから、いつものヨレヨレの服に着替えた。
袖口がほつれ、襟元が少し色褪せているが、着心地は抜群だ。
新しい服を買うつもりは、今のところない。
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ギルドに着くと、中は昨日にも増して騒がしかった。
「ガルド様が湿原のヒュドラを!」
「さすがSランクだ、化け物だ!」
冒険者たちが興奮気味に話し込んでいる。
リルドはその輪の外をのんびりと歩き、掲示板の隅へと向かった。
上段の討伐依頼や護衛依頼には目もくれず、最下段に貼られた依頼札を一枚一枚確かめていく。
「ん、これは」
一枚の依頼札に目が止まった。
『街外れ別荘地・古井戸の清掃。詰まりの除去および底の確認。報酬・銅貨三枚』
冒険者というより便利屋に近い仕事だ。
報酬もごくわずかで、他の冒険者が見向きもしないのは一目瞭然だった。
しかしリルドは、その依頼札を迷わず手に取った。
「井戸の底か。涼しくて良さそうだな」
受付嬢は依頼札を受け取りながら、苦笑いを隠しきれない顔をした。
「リルドさん、また地味な依頼ですね。もう少し報酬のいいものにしたらどうですか?」
「地味な仕事ほど、面白いものが見つかるんですよ」
リルドはにこりと笑って、ギルドを後にした。
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依頼主の屋敷は、街外れの静かな一角にあった。
立派な門構えだが、庭には草が茂り、長い年月が建物全体にゆっくりと染み込んでいるような、落ち着いた古さがあった。
依頼主は白髪の老人で、リルドを見ると安堵したように小さく頭を下げた。
「来てくれたかね。なに、大した仕事じゃないんだが、わしにはもう体が追いつかなくてな」
「お任せください。ゆっくり拝見してきますね」
庭の奥に進むと、石積みの古い井戸があった。
縁に手をかけて覗き込むと、底には確かに冷たい水が溜まっており、落ち葉や泥が積もって水の流れを塞いでいるのが見えた。
リルドは持参したロープを井戸の縁に固定し、するすると底へと降りていった。
底に着くと、空気がひやりと変わった。
地上の熱気が嘘のように消え、静かで冷たい空気が満ちている。
頭上を見上げると、丸く切り取られた空が小さく見え、そこから光の柱が一本、まっすぐ水面に落ちていた。
「気持ちいいな」
リルドは小さく呟き、バケツと小さな鋤を取り出して作業を始めた。
「よいしょ、よいしょ……」
鼻歌を歌いながら、底に溜まった泥や落ち葉をバケツに詰めていく。
急ぐ必要はない。
この静かな空間が、リルドにはどこか心地よかった。
しばらく作業を続けていると、泥の中に硬い感触があった。
指先でそれを確かめ、ゆっくりと引き上げる。
水で丁寧に洗い流すと、手のひらに収まるほどの大きさの、透明な塊が姿を現した。
丁寧なカッティングが施された水晶だ。
光の柱を受けて、内部が白く輝いている。
「おや、これは……」
リルドは水晶を光に透かした。
魔力の気配はない。
武器でも魔道具でもなく、ただ美しい、飾り石だ。
「誰かが大切にしていたものだろうな」
その時だった。
井戸の壁の隙間から、粘り気のある黒い液体がじわりと染み出してきた。
スライム・ダーク。
湿気と闇を好む魔獣で、物理攻撃をほとんど受け付けない厄介な性質を持つ。
この井戸の湿った闇に引き寄せられ、長い時間をかけて住み着いていたのだろう。
黒い液体はゆっくりと形を成し、リルドの全身を覆い尽くそうとするように、上から覆いかぶさってきた。
「あ、ダメだよ。せっかく綺麗にしたばかりなんだから」
リルドは片手に水晶を握ったまま、もう一方の手で足元の掃除用ブラシを拾い上げた。
どこにでもある、ごく普通の木製のブラシだ。
それを、スッと前に突き出した。
シュパッ、という鋭い風切り音が井戸の底に響いた。
ブラシの先端が、スライムの核を正確に、しかし優しく弾いた。
ほんの一瞬の出来事だった。
核を失ったスライムは、ただの水のようにパシャリと弾け散り、底の汚れと一緒に排水路へと流れていった。
井戸の底に、再び静寂が戻った。
「よし、これで綺麗になったかな」
リルドは満足げに底を見渡してから、ロープを掴んで地上へと戻った。
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地上に出ると、老人が心配そうに井戸の縁から覗き込んでいた。
リルドが顔を見せると、老人は胸を撫で下ろした。
「無事だったかね。随分と時間がかかっていたから」
「詰まりはきれいに取れましたよ。あと、これ」
リルドは水晶を差し出した。
老人はそれを受け取り、しばらく黙って眺めていた。
やがて、その目がゆっくりと潤んでいった。
「おお、これは……。亡くなった妻が昔、井戸に落としてしまった指輪の飾り石じゃ。あの日から何度探しても見つからなくて、もう諦めておったんじゃよ」
老人の手が、水晶を包むように静かに閉じた。
「ありがとう。本当に、ありがとう」
リルドは何も言わず、ただ小さく頷いた。
老人はしばらくしてから、庭の奥へと歩いていき、やがて両手に木の実をいくつか持って戻ってきた。
庭の隅に植わっている木から採れたばかりのもので、皮が張って艶やかに光っている。
「これはわしからの気持ちじゃ。報酬とは別に、受け取ってくれんかね」
「ありがとうございます。大切にいただきます」
リルドは木の実を布に包み、籠の中へそっと入れた。
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夕暮れ時、ギルドに戻ったリルドは、受付カウンターに依頼札を置いた。
「お疲れ様、リルドさん。井戸掃除、無事に終わりましたか?」
受付嬢が、リルドの服についた泥汚れを見て苦笑いする。
「うん、きれいになったよ。あと、老人がとても喜んでくれた」
「まあ。……リルドさんって、なんでそんな地味な依頼ばかり選ぶんですか? もったいないと思いませんか?」
リルドはポケットの中の木の実を一つ取り出し、幸せそうに眺めた。
「地味な仕事ほど、面白いものが見つかるんですよ」
受付嬢は呆れたような、しかしどこか温かい顔で「もう」と笑った。
リルドは銅貨三枚の報酬を受け取り、ギルドを後にした。
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家に戻ると、窓辺の七色苔の小瓶が、夕暮れの光の中で橙色に輝いていた。
リルドはその隣に、今日もらった木の実を一つずつ丁寧に並べた。
苔の淡い光と、木の実の艶やかな色が、窓辺に小さな景色を作り出している。
窓の外では、一番星がぽつりと輝き始めていた。
Sランクの力を持っていても、今日リルドが一番誇りに思っていることは、古い井戸をきれいにしたことと、老人が水晶を胸に抱えて泣いていたことと、この甘い木の実を手に入れたことだった。
「さて、明日は何をしようかな。久しぶりに、マスターを誘って焚き火でもしようか」
リルドは穏やかな眠りについた。
万年Fランク冒険者の夜は、今日もどこまでも静かで、満ち足りていた。




