第四話「湿原の虹と、古い友人」
数日後、リルドの住む小さな家には、いつも通りの穏やかな朝が訪れていた。
窓辺に並べた石たちが朝の光を浴びてぼんやりと白く輝き、部屋の空気はまだ少し夜の冷たさを残している。
リルドはそれを眺めながら、ゆっくりと身を起こした。
昨晩、銀狼の抜け毛で作ったクッションを枕代わりに試してみたところ、あまりの寝心地の良さに珍しく二度寝をしてしまい、気づけば日が随分と高くなっていた。
「ふあぁ……。今日はいい天気だ」
窓を開けると、柔らかな風が部屋に流れ込んできた。
空は薄く霞んでいて、雲が一枚もない。
こういう日は、少し遠くまで足を伸ばしたくなる。
「南の湿原に、『七色苔』が生えているって話を聞いたんだよなあ」
リルドは庭に出ると、並べてある石たちに向かって「行ってくるよ」と声をかけ、籠を背負って歩き出した。
---
湿原へ向かう道は、街道から少し外れたところに続いている。
人通りは少なく、道の両脇には背の高い草が茂り、遠くには湿地特有の霞んだ景色が広がっている。
リルドは急ぐでもなく、ゆっくりと歩きながら、道端に咲く名も知らない小さな花を見つけては立ち止まり、空を流れる雲の形を眺めては一休みした。
早く着くことは、彼にとって重要ではない。
道の途中にある景色のすべてが、彼の大切な日常の一部だった。
湿原の入り口に差し掛かったところで、リルドは足を止めた。
先客がいた。
巨大な斧を地面に突き立て、岩のような体躯を惜しげもなく草の上に投げ出している男。
王都でも指折りの実力者として名の知れた、Sランク冒険者のガルドだ。
彼はリルドの正体を知る数少ない人物の一人で、長い付き合いの親友でもある。
「よお、リルド。相変わらず、そんななまくら一本でこんな場所まで来たのか」
ガルドは顔を上げ、豪快に笑った。
聞けば、高難度クエストの帰り道に偶然この湿原で休憩していたらしく、装備のあちこちに戦いの跡が見える。
それでも表情には余裕があり、疲労よりも達成感の方が滲んでいた。
「あはは、ガルドさん。僕はただの苔観察ですよ。ガルドさんこそ、そんな大きな荷物を背負って大変ですね」
「これが仕事だからな。だが、お前を見てると、どっちが本当の『冒険』をしてるのか分からなくなるぜ」
ガルドは苦笑いしながら、草の上に寝転がり直した。
リルドはその隣に腰を下ろし、湿原の景色を眺めながら布包みを開く。
今日の昼飯は、朝に準備した小さなパンと、塩漬けの木の実だ。
二人がそんな言葉を交わしながら、のんびりとした時間を過ごしていたときだった。
湿原の泥の中から、ぶくぶくと泡が立ち上った。
次の瞬間、水面を割るようにして巨大な触手が伸び上がってきた。
それは、この湿原の主とも呼ばれる魔獣「ヒュドラ」の幼体だった。
幼体とはいえ、その触手一本でCランク冒険者を容易く吹き飛ばすほどの力がある。
胴体から無数に生える触手が、空気を震わせながらゆっくりとこちらへ向かってくる。
「ちっ、休ませちゃくれねえか。リルド、下がってろ。俺が――」
ガルドが斧を掴んで立ち上がろうとした瞬間だった。
「あ、危ないよ」
リルドがそれより先に立ち上がり、ひょいとヒュドラの前へ出た。
ヒュドラが反応する。
太い触手が鞭のようにしなり、リルドへと叩きつけられた。
しかし、リルドはそれを紙一重でかわすと、まるでお辞儀をするように自然に体を沈めた。
そのまま足元の泥をすくい取り、ヒュドラの顔とおぼしき部分へ向かって、ぺちゃりと投げつけた。
「めっ、だよ。ここは皆がお昼寝する場所なんだから」
ただの泥投げだった。
しかし、リルドの手から放たれた泥は、寸分違わず魔獣の感覚器官を正確に塞いだ。
さらに、その衝撃が脳に当たる部位を的確に揺さぶり、ヒュドラは自分が何に攻撃されたのかも理解できないまま、ぐにゃりとその場に崩れ落ちた。
触手がばたばたと力なく揺れ、やがて静止する。
深い眠りについたのだ。
「……おいおい。相変わらずデタラメだな、お前の『お仕置き』は」
ガルドは斧を持ったまま、呆れたように肩をすくめた。
「だって、せっかくの七色苔が踏まれちゃうのは嫌だもん」
リルドは気に留める様子もなく、湿った岩の陰を覗き込んだ。
そこに、虹色に輝く小さな苔がひっそりと生えていた。
光の当たり具合によって、緑から青、青から紫、紫から金へと色が変わっていく。
「あった。本当に七色だ」
リルドは目を輝かせ、その前にそっと座り込んだ。
しばらく眺めてから、丁寧に少しだけ分けてもらい、持参した小瓶に詰めた。
ガルドは眠り続けるヒュドラを横目で見ながら、何も言わずに斧を背中に戻した。
---
帰り道、リルドとガルドはしばらく並んで歩いた。
「お前、本当にそれでいいのか」
ガルドが、どこか真剣な声で言った。
「何がですか?」
「その力があれば、王都の守護騎士にでも、どんな英雄にでもなれる。なのにお前は毎日、石を拾って苔を眺めて……もったいないと思わないか」
リルドは少し考えてから、小瓶を光に透かした。
七色苔が、夕暮れの光の中で柔らかく色を変える。
「ガルドさんがいるから、大丈夫ですよ」
「そういう話じゃ……」
「僕が英雄になったら、こういうものを見る時間がなくなっちゃう。それは僕には耐えられないな。それに、世界を守るのはガルドさんたちの方が、絶対に上手いと思うし」
ガルドはしばらく黙ってから、ふっと笑った。
「……敵わねえな、お前には」
---
夕暮れ時、ギルドに戻ると、内部では「Sランクのガルド様が湿原の主を討伐した」という噂で持ちきりになっていた。
リルドはその輪の外でそっと耳をそばだてながら、ガルドの方を見た。
ガルドはギルドマスターと話しながら、こちらへ向かってちらりと目配せをしている。
リルドは小さく頷いた。
もし自分が倒したことになれば、明日から「のんびり石拾い」ができなくなってしまう。
そんなのは御免だ。
「リルドさん、今日は何をしてたの? 少し泥がついてるわよ」
受付嬢が、リルドの服の裾を見て苦笑いした。
「ちょっと泥遊びをね。でも、いいものが見られたよ」
リルドは小瓶を懐にしまいながら、報酬の銅貨を受け取った。
今夜は、七色苔の淡い光を眺めながら、ゆっくりとハーブティーを飲むつもりだ。
---
家に戻ったリルドは、窓辺に七色苔の小瓶を置いた。
部屋に灯りを点けると、苔がその光を受けて静かに色を変え始めた。
緑から青へ、青から紫へ。
世界中のどんな宝石よりも、リルドにはそれが美しく見えた。
彼はハーブティーの入った椀を両手で包むように持ちながら、しばらくその光をただ眺めた。
世界を救う英雄の称号よりも、窓辺で色を変える苔の美しさを選ぶ。
それが、万年Fランク冒険者リルドの、譲れない至福のひとときだった。




