第三話「白い石と、銀の毛並み」
その朝、リルドはいつもより少しだけ遅く目を覚ました。
寝ぼけ眼で窓の外を確かめると、柔らかな朝の光が部屋に差し込んでいる。
昨日窓辺に並べた河原の石が、その光を受けて白くぼんやりと輝いていた。
リルドはしばらくそれを眺めてから、むくりと身を起こした。
「今日は……上流の方に行ってみようかな」
以前、街の古参の行商人から聞いた話が、ふと頭に浮かんだ。
上流へ進んだ先の岩場に、川に長い年月をかけて削られた、形の良い白い石が転がっているという。
真偽は定かではないが、それを確かめに行くだけでも十分な理由になる。
リルドは小さなパンと干し肉を布に包んでから、使い古された籠を背負って家を出た。
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ギルドに顔を出すと、ちょうど入り口近くで昨日の剣士の青年が仲間たちと何やら話し込んでいた。
リルドは特に声をかけるでもなく、目立たないように壁際を歩いて常設依頼のボードへと向かった。
そこに貼られた「河原の清掃と石材確保」の依頼書を一枚、静かに引き抜く。
「あ、リルドさん。またその依頼ですか?」
受付嬢が苦笑いを浮かべながら、慣れた手つきで受理のスタンプを押した。
「うん。上流の方に、面白い形の石があるって話を聞いたから、確かめに行こうかと思って」
「ふふ、相変わらずですね。あ、そうだ。上流は足場が悪いところもあるって聞きますから、気をつけてくださいよ」
「はーい」
リルドはのんびりと答えながら、ギルドの扉を押し開けた。
朝の空気が、ふわりと顔に触れた。
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街を抜け、川沿いの道を辿っていくと、やがてせせらぎの音が耳に届き始めた。
上流へ向かうにつれて道は細くなり、足元には大小の岩が増えていく。
これより先は、普通のFランク冒険者であればまず足を踏み入れない地帯だ。
険しい岩場が続き、足を滑らせれば川に落ちる場所も少なくない。
しかしリルドは、まるでそれを気にする様子もなかった。
岩から岩へ、まるで水面を渡る石のように、ひょいひょいと軽やかに飛び移っていく。
体に余計な力が入っていない。
重心の移し方も、踏み込む場所の選び方も、すべてが自然で無駄がなく、見る者が見れば思わず息を呑むような動きだった。
もっとも、リルド本人は鼻歌を歌いながらそれをやってのけていた。
そして、目的の場所へとたどり着いた。
「わあ」
思わず声が漏れた。
川に洗われた岩場一面に、人の拳ほどの大きさの石が、ごろりごろりと転がっている。
どれも長い年月をかけて川に削られたものだろう、表面が滑らかで、色は白く澄んでいた。
「これはいい。お漬物の重石にも使えそうだし、庭に並べても綺麗だろうなあ」
リルドはその場にしゃがみ込み、一つ一つを手に取っては眺め、重さを確かめ、表面の手触りを確認した。
真剣な顔で選別する様子は、どこかの宝石商のようでもあった。
ガラ、と上方で岩が転がる音がした。
「グルルル……」
低く、腹の底に響くような唸り声が、崖の上から降ってきた。
リルドがゆっくりと顔を上げると、そこに巨大な影があった。
三つの目を持つ銀色の狼、トリプルアイズ・シルバーウルフ。
Bランク以上のパーティーが数組がかりで挑んでようやく討伐できると言われる、この地域でも最上位に位置する強靭な魔獣だ。
三つの瞳がそれぞれ異なる角度で獲物を捉え、死角をほぼ持たない。
銀色の毛並みは鋼のような硬度を誇り、並の刃では傷一つつけられない。
その銀狼が、崖の上からリルドを静かに見下ろしていた。
次の瞬間、音もなく崖を駆け下りた銀狼が、背後からリルドへと鋭い爪を振り下ろした。
「……危ないなぁ。せっかく選んだ石が汚れちゃうじゃないか」
リルドは振り返りもしなかった。
ただ、背負っていた籠を、ほんの少しだけ右に引いた。
それだけだった。
銀狼の爪は完全に空を切り、勢い余った巨体がそのまま地面に激突する。
岩場に重い衝撃音が響いた。
リルドはよろけた銀狼の首筋へと、石を拾い上げるついでのような動作で、指先をそっと添えた。
「トン」と、ほとんど音のしない、ごく軽い一触れだった。
それだけで、銀狼は動きを止めた。
山をも揺るがすほどの膂力を持つとされたその巨体が、まるで糸を切られた操り人形のように、静かに横たわった。
息はある。
ただ、完全に力が抜けている。
神経の急所を一点で捉えなければ不可能な、人間業とは思えない技だった。
リルドはそちらにはほとんど目もくれず、視線を石に戻した。
「よし、この石にしよう。この丸み、なかなか良い」
お気に入りの白い石を籠に収め、リルドは満足げに息をついた。
それから、ふと横たわる銀狼の方に目をやった。
間近で見ると、その毛並みは本当に見事だった。
月光のような銀色が、日差しを受けてきらきらと輝いている。
そしてよく見ると、岩場の地面には、銀狼が崖を駆け下りた際に抜け落ちたらしい毛が数本、風に揺れていた。
「そうだ」
リルドはそれを丁寧に拾い上げ、布で包んだ。
手触りを確かめると、しなやかで、驚くほど柔らかい。
「枕の詰め物にしたら、すごく暖かそうだなあ」
鼻歌を歌いながら、リルドは来た道を戻り始めた。
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夕暮れ時、ギルドの扉を開けると、中が普段より騒がしかった。
「上流の岩場に銀狼が出たって報告が入った! 捜索隊を組まないと!」
冒険者たちが慌ただしく動き回っている。
リルドはその脇を「お疲れ様ですー」とのんびり通り抜け、受付カウンターへと向かった。
「リルドさん! 無事だったんですね!」
受付嬢が駆け寄ってきた。
その顔には心底ほっとしたような色がある。
「うん、いい石が拾えたよ。あ、そうだ。これ、道に落ちてたんだけど、何かの素材になるかな?」
リルドが布の中から取り出したのは、銀色に輝く、数本の毛だった。
カウンター越しにそれを見た瞬間、受付嬢の顔が固まった。
次いで、奥のギルドマスター室の扉が勢いよく開いた。
「こ、これは……銀狼の毛じゃないか。それも、こんなに純度の高い……」
ギルドマスターが毛を受け取り、震える手で光に透かした。
その目が、リルドへと向いた。
「リルド。お前、まさか銀狼と戦ったのか?」
「え? いえいえ、落ちてたのを拾っただけですよ。ちょうど河原の清掃の依頼もあったので、お掃除のついでといいますか」
リルドはあははと笑い、報酬の銅貨を受け取ると、他の冒険者たちの騒ぎには目もくれずギルドを後にした。
しばらくの沈黙の後、ギルドマスターは深く息をついた。
「……あいつ、またやりおったな」
手の中の銀の毛は、灯りの下でも変わらず静かに輝いていた。
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その夜、リルドの家の小さな庭には、今日拾ってきた白い石が一列に並べられた。
月明かりを受けた石たちは、どれも柔らかく光を返している。
窓辺には、銀狼の抜け毛を丁寧にまとめて作った小さなクッションが置かれていた。
試しに頬を当ててみると、想像していた以上に温かく、しっとりと柔らかかった。
「これは名作だ」
リルドは満足げに伸びをして、窓の外の夜空を見上げた。
明日も、薬草を摘んで、石を拾う。
それ以上の幸せなんて、彼にはいつだって、必要なかった。




