第二話「森の音と、静かな問い」
翌朝、ギルドの扉が開く音とともに、リルドはいつもの足取りで依頼ボードへと向かった。
ボードには様々な依頼書が所狭しと貼り付けられている。
上段には討伐や護衛といった高ランク向けの依頼が並び、中段には運搬や調査、そして最下段にひっそりと、採取系の依頼が数枚まとめて留められていた。
リルドは迷う様子もなく、その最下段へと手を伸ばし、一枚を丁寧に剥がした。
「おはよう、リルド。今日もそれかい?」
声をかけてきたのは、ギルドマスターだった。
帳簿を片手に持ちながら、呆れとも親しみともつかない顔でこちらを見ている。
「おはようございます、マスター。
ええ、この時期の森の奥には『月見草』が出てくるんです。
夜に咲く花なんですけど、根の状態は朝のうちに確かめるのが一番で」
「……相変わらずだな」
ギルドマスターは苦笑しながら首を振り、リルドを見送った。
周囲の新人冒険者たちが「またあいつか」と顔を見合わせて鼻で笑うのを、リルドは特に気にする様子もなく受け流す。
ただ、その場にいた数人の熟練冒険者だけは笑わなかった。
依頼書を手にギルドを出ていくリルドの歩き方に、一切の無駄がないことを、彼らは知っていたからだ。
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森に入ると、リルドはすぐに獣道を外れた。
整備された道を歩くよりも、木漏れ日が静かに差し込む場所を選んで進む方が、彼には性に合っている。
下草を踏む音、どこかで鳴いている小鳥の声、風が梢を揺らす柔らかな音。
それらをゆっくりと聞きながら歩くうちに、目当ての場所へとたどり着いた。
「お、あったあった」
木々の隙間から差し込む光の中、淡い青緑の葉をした草が一面に群生している。
月見草だ。
リルドはその前に静かに腰を下ろすと、土を傷めないよう細心の注意を払いながら、一株ずつ丁寧に根から掘り起こし始めた。
焦りも雑念もなく、ただ手と土と草だけに集中する、穏やかな時間が流れていた。
ガサリ、と茂みが揺れたのは、そのときだった。
「……やっぱり、あんた、ただのFランクじゃないだろ」
草をかき分けて現れたのは、見覚えのある顔だった。
昨日、フォレストベアに追われていたDランクパーティーの一人、剣士の青年だ。
息を切らせているところを見ると、ここまで追いかけてきたらしい。
その目はまっすぐリルドに向けられ、真剣そのものの色をしていた。
「昨日のあの一撃……Sランクの剣聖だって、あんな芸当ができるかどうかわからない。
あんた、本当は何者なんだ?」
リルドは手を止め、困ったように眉を少し下げた。
そして、掘り起こしたばかりの月見草を一株、青年の前にそっと差し出した。
「僕はただのリルドだよ。
それより、これ嗅いでみて。
夜にしか咲かない花なんだけど、根っこの部分がこんなに甘い香りがするんだ。
これを知ることが、僕にとっては何よりの報酬なんだよね」
「そんなことを聞いてるんじゃなくて……!」
「君が求めている『強さ』は、きっともっと騒がしい場所にあると思う。
でも僕は、この森の静かな音が好きなんだ」
リルドがふんわりと微笑んだ。
不思議なことに、それだけで青年の中に満ちていた剣幕がするりと抜けていった。
リルドの周囲だけ、空気の質が違う。
森そのものが彼を中心に静まり返っているような、説明のつかない圧倒的な静寂がそこにあった。
青年はしばらく口を開けたまま立っていたが、やがて絞り出すように言った。
「……あんた、損してると思わないのか?
その力があれば、王宮騎士にでも英雄にでもなれるだろうに」
リルドは土のついた手をはたきながら、ゆっくりと首を傾けた。
「英雄になったら、一日中こうして石を眺めたり、薬草の香りを嗅いだりできなくなっちゃうじゃない。
それは僕にとって、世界が滅びるより悲しいことなんだよ」
言い終えると、リルドは籠を背負って立ち上がった。
自然な動作で土を払い、空を一度見上げてから、歩き出す。
「さて、今日はこれで十分かな。
帰りに河原でお弁当を食べようと思って。
君も、あまり根を詰めすぎないでね」
ひらひらと軽く手を振り、リルドは森の奥へと消えていった。
残された青年は、その背中が木々に隠れて完全に見えなくなるまで、ただ立ち尽くしていた。
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夕暮れ時、ギルドに戻ったリルドを待っていたのは、いつもと変わらない「万年Fランク」の日常だった。
受付で薬草を納め、銅貨を受け取り、受付嬢の苦笑を一身に浴びる。
それでもリルドの足取りは軽く、顔には満足の色が滲んでいた。
夜、自宅に戻ると、リルドは窓辺に向かった。
小さな窓の桟に、今日拾ってきた石を一つ、そっと並べる。
月明かりを受けた石は、淡く、静かに光を返した。
宝石のような華やかさはない。
けれど、その優しい光は確かにリルドの部屋を照らし、小さな部屋を満たしていた。
リルドはしばらくその光を眺めてから、ゆっくりと目を閉じた。
明日も、きっとFランクのままだ。
そして明日も、きっとそれでいい。




