第七話「川の午後と、木の枝一本」
雲ひとつない快晴の午後だった。
リルドは午前中に薬草採取の依頼を早々に終わらせ、いつもの河原へとやってきていた。
お気に入りの場所は、白い石が川底に敷き詰められた浅瀬のポイントだ。
水が透き通っていて、流れが穏やかで、木陰がちょうどよく日差しを遮ってくれる。
リルドはそこに腰を下ろし、ゆっくりと靴を脱いだ。
「ふぅ……。今日は一段と暑いな」
空を見上げると、日差しが真っ直ぐ降り注いでいる。
風は時折吹くが、どちらかといえば生ぬるい。
川の水面だけが、きらきらと涼しげに光っていた。
「絶好の水浴び日和だ」
リルドは服を脱ぎ、岩陰に丁寧に畳んで置いた。
それから、ゆっくりと川の中へ足を踏み入れる。
ひんやりとした水の感触が、足先から膝へ、膝から腰へと伝わっていく。
思わず声が漏れた。
「冷たくて気持ちいい……」
腰のあたりまで浸かったところで、リルドはそのまま仰向けに身を預けた。
川の流れが体をゆっくりと揺らし、水面が耳元でさらさらと音を立てる。
空が、広い。
目を細めると、透き通った水の中を小さな川魚たちが泳ぎ回っているのが見えた。
リルドの周りを恐れる様子もなく、むしろ興味深そうにゆらゆらと近づいてくる。
彼が放つ穏やかな気配は、自然界の生き物たちにとって、脅威でも異物でもなく、ただの風景の一部として感じられるのだろう。
リルドは目を閉じた。
水の音だけが世界のすべてになる。
このまま夕方まで、ここにいてもいいかもしれない。
そんなことを考えていた。
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上流の方から、騒がしい足音が聞こえてきたのは、そのときだった。
「逃げろ! あれは『アビス・サーペント』の変異種だぞ! 攻撃が通じない!」
川岸を、Dランクの冒険者パーティーが必死の形相で走っていた。
三人組で、装備はすでにあちこちが傷んでいる。
その背後から、川を割るようにして巨大な水蛇が迫っていた。
体長は優に十メートルを超える。
鱗は通常の個体より黒みが強く、変異種特有の不規則な模様が体を覆っている。
本来この川に生息する魔獣ではない。
どこからか流れてきたのか、あるいは魔獣の活性化と関係があるのか、いずれにしても、このまま放置できる状況ではなかった。
逃げ遅れた冒険者の一人が足をもつれさせた。
水蛇が大きく口を開け、その冒険者へと飛びかかろうとする。
「……あーあ」
リルドは水に浸かったまま、面倒そうに目を開けた。
「せっかく静かだったのに。暴れると水が濁っちゃうよ」
水面に目をやると、流れに乗って小さな木の枝が漂ってきていた。
リルドはそれを指先で軽く摘み、ひょいと水面に置いた。
そして、人差し指の先でピンッと弾いた。
シュッ、という小さな音が響いた。
木の枝は水面を滑るように飛んでいき、獲物へと飛びかかろうとしていた水蛇の眉間を、コン、と一度だけ叩いた。
音は小さかった。
衝撃も、傍目にはほとんど見えなかった。
しかし水蛇の巨体は、まるで時が止まったように硬直した。
三つの瞳が一斉に霞み、鱗が弛緩し、口が静かに閉じていく。
自分に何が起きたのかを理解する間もなく、水蛇はふにゃりと力を失い、そのまま川底へとゆっくり沈んでいった。
水面には小さな波紋が広がり、やがてそれも消えた。
「よし。これでまた静かになるね」
リルドは再び仰向けになり、目を閉じた。
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「え……。今、何が……?」
川岸で、冒険者たちが立ち尽くしていた。
足をもつれさせていた一人も、なぜか転ばずに済んでいて、ぽかんと口を開けたまま水面を見つめている。
彼らの目に映ったのは、川の中でぷかぷかと浮かんでいる、呑気なFランクの青年だった。
何かをした様子はない。
ただ水浴びを楽しんでいるようにしか見えない。
「あ、君たち」
リルドが顔だけこちらへ向けた。
「あんまり騒ぐと魚が逃げちゃうよ。少し上流に行ったところに、日陰で休める岩場があるから、そっちで休んだら? 足も震えてるし」
冒険者たちは顔を見合わせた。
それから、狐につままれたような顔のまま、「……あ、ああ。すまない」と頭を下げ、ぎこちない足取りで去っていった。
せせらぎの音だけが、また河原に戻ってきた。
リルドは岸へと上がり、太陽の光で温まった平たい岩の上に寝転んだ。
空が青く、広い。
遠くで鳥が鳴いている。
体に残った水の感触が、風に当たって少しずつ乾いていく。
「うん、いい感じだ」
しばらくそのまま岩の上でうとうとしてから、リルドは身を起こした。
帰り道に、川底で光っていた石をいくつか拾い上げ、籠に収める。
どれも小ぶりだが、水に磨かれて形が整っていた。
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夕暮れ時、リルドは水浴びですっかり軽くなった体で、家路を歩いていた。
籠の中には今日拾った石が数個と、川岸で見つけた面白い形の流木が一本入っている。
ギルドではおそらく、「川にいたFランクが幸運にも魔獣の自滅で生き延びた」という噂が広がっているかもしれないが、リルドにはどうでもいいことだった。
家の扉を開けると、窓辺の七色苔が夕暮れの光の中で橙色に輝いていた。
「今夜は、ハーブをたっぷり入れたスープにしよう」
水浴びで冷えた体の芯を温めるには、熱いスープが一番だ。
リルドは鼻歌を歌いながら、竈に火を入れた。
外では夕暮れが夜へと変わりつつある。
川の音が、遠くからかすかに聞こえるような気がした。
万年Fランク冒険者の一日は、今日もまた、静かに幕を下ろしていく。




