殿下と呼ばれる者の懊悩
【Side ケネス】
(まったくもって腹立たしい)
今まで、わたしの思い通りにならない女など居なかった。……いや、実母や義姉は別として、だが。
望めば、どんな女も嬉しそうに頬を染めて寄って来た。むしろ、わたしが望まなくとも。
なのに、ツィーナは……。
馬車が王城に着くと同時に、リーベルトは無言のまま降りて行った。彼としても何か思うところがあるのだろう。しかし、そんなのは知ったことではない。
第二王子という立場にありながら尚、実母にも実兄にも可愛がられている気楽なリーベルト。甥だろうと……いや、甥だからこそ、わたしが気にかけてやる必要なぞ一切感じなかった。
ゆったりと馬車を降りて回廊を進む。
苛立っている時こそ、立ち居振る舞いに気をつけなくてはならない。吹き荒れる感情の嵐を、破片たりとも見せないように。けっして、兄やその腰巾着達に気取られることがないように。わたしはリーベルトとは違う。そのことを今更残念に思うことはないが、正直なところ、忌々しくはあった。
王族という衣は、本当に、心底煩わしい。一挙手一投足を監視され、国のため滅私奉公することを当然のように求められる。
他の貴族達より立派な住居に住み、良い物を食べ、威厳ある装いをする──その全ては、国をより栄えさせるため。自国民の誇りとなるよう、尚且つ他国への威圧となるよう、我々王族は責務として、背筋を正す。
「ルシータ陛下がお待ちかねの手紙を預かって来た」
義姉の護衛にあたっている騎士に取り次ぎを頼み、封書を預ける。
今日はもう間もなく晩餐だろう。着替えて兄の元へと行かねばならない義姉にとっては慌ただしい時間帯だ。顔を見て言いたい文句もあるが、今日のところは離宮に帰る。
(最近突然日和見に主張を変えたから、おかしいとは思っていたが……。いったい、ツィーナとどんな悪企みをしているやら)
道中、詰所に戻って退勤の手続きを終えたのだろうローバーとすれ違った。だが今更話したいこともない。道を譲るオレンジ色の脳天を一瞥し、通り過ぎた。
久々に誰か女性を呼んで酒でも飲みたい気分だ。
(しかし陛下に大見得を切った以上、示しがつかないか……)
婚約を見据えて付き合ってきた令嬢との関係は断ったが、アテなどいくらでもある。
「おかえりなさいませ」
「あぁ。ジェダー夫人の所へ行く。先触れを頼む」
「……かしこまりました」
玄関口で迎える忠実な侍従に申し付けて、老齢の女官に着替えの用意を命じる。さすがに、王族らしい煌びやかな衣服では目立って仕方ない。品質は良くとも飾りの少ない、それなりの格好にしなくては。
(こんな時にドゥーべが居れば楽だったな)
喜んで供を買って出てくれた。馬車も衣服も、ドゥーべに任せておけば問題なかった。
栄えある公爵位にありながら放蕩な、どうしようもない男。だからこそ、気が楽だった。まさか彼の死を惜しむ日が来るとは思わなかったが、居なくなってみると多少はその価値が改まるものだ。
ツィーナに指一本触れなかったというドゥーべ。年増好みという以上に、面倒くさかったのだろうと思う。
若い女性は殊更、色恋沙汰で拗らせやすい。後腐れの無い付き合いを愛するドゥーべだったからこそ、万が一にも歳若い後妻と愛憎劇を繰り広げるようなリスクを避けたのではないか……。若い頃からの付き合いだと言うシャウラの母親も、物分りの良いタイプに見えてその実、昔は悋気がひどかったと言っていた。
「失礼致します。軽食のご用意ができております」
「あぁ」
1人の食事は味気ない。早くツィーナと二人の生活を迎えたいものだ。
ドゥーべが手を出さなかったおかげで、わたしは無垢なままの彼女を手に入れる機会を得た。これもまた、感謝すべき点だろう。しかし恐らく、もしドゥーべがツィーナを手折っていたとしても……変わらず、惹かれていたのではないかと思う。
ツィーナの愛情深さは、まさにわたしの憧れそのもの。むしろ、彼女がわたしへの恋情を拗らせ、執着し、甘えてくれるのならば願ったりだ。あの深い愛情の全てを、わたしにだけ注いで欲しい。
(……が、まさかあそこまで頑なだとはな)
愛らしいツィーナ。新雪のようなまっさらな彼女。
手折るのは簡単なはずだった。それが……こうも慎重を期すことになるとは。彼女はいったい、何をそこまで恐れているのか。
わたしを夫とする以上の幸せなど、ないはずなのに。
(……まぁ、わたしもさすがに、恋愛経験のまったくない女性を相手取るのは初めてだからね。なかなか勝手がわからないが……。それも時間の問題だ)
ツィーナと居ると、心にじんわりと熱が広がって、満たされて行く。初めは、これが愛情というものなのか、と戸惑った。
しかし同時に、一刻も早く隷従させたい……そんな暴力的なまでの衝動にも襲われる。特に、今日のような日には──。
しぶとく諦めないカウスや、身の程知らずにちょっかいをかけてくるリーベルトも許し難いが、物分りの良い顔をして裏で動いていたローバーにも腹が立つ。そして何より、未だ我が手に堕ちてこないツィーナに苛立って仕方ない。義姉の庇護を振りかざして、更に気を持たせようというのだろうか。
透き通って可憐なツィーナ。男を手玉に取るタイプとは思えない。打算的なタイプにも。
なのに……まさか今更、自身の価値をつり上げようとしてくるとは。やはり、義姉から悪い影響を受けているような気がしてならない。
(まったくあの義姉は……昔からだが、敵か味方か、はっきりとさせて欲しいものだ)
実兄の後ろ盾を得た現状、それでもわたしが強硬手段に出ないのは偏に、彼女に心から愛されたいと……彼女の心も欲しい、と思ってしまったからだ。
婚姻してから徐々に愛を教えれば良いと思っていたものの……いつの間にか、ツィーナから自発的に婚姻を請われたいと思うようになっていた。いや、「なってしまった」。ツィーナによって、確実にわたしの価値観は変えられている。
実際、多くの女から愛を請われてきたわたしだ。難しいことではないはずだった。優しく微笑み、甘い言葉をかけてやれば、ツィーナとて簡単に虜にできる。……そのはずだった。
「失礼致します。ジェダー夫人より『お待ち致しております』との伝言でございます」
軽い酒を片手に思案に耽っているところに声がかかった。思ったよりも時間が経っていたらしい。テーブルのオードブルが乾燥している。
「ふむ。では行くか」
城下に忍んで出る時は、王城に幾つかある通用門の1つを使うことにしていた。久しぶりだが……問題はなさそうだ。
ドゥーべが居ないせいで馬車は忍び歩きする王族用。見る者が見ればわかってしまうのが煩わしいが、こればかりはどうしようもない。
「ようこそお越しくださいました。随分と長いことお見限りでしたわね。アタクシ、とても寂しゅうございましたのよ?」
どちらかと言えば平民の街に近い場所にある、こじんまりとした邸宅がジェダー伯夫人パーシアの住まいだ。
わたしより少し歳下のパーシアとの付き合いはそれなりに長い。二人揃って浮気症という風変わりな夫妻で、後腐れの無い、割り切った付き合いができるのが美点だった。本宅は別にあるが、裕福な平民すらその視野に収める彼女は、この手狭な屋敷を好んで根城としている。
「おやパーシア。相変わらずのようで安心したよ」
深緑の髪を豪奢に結い上げ、胸元と背中の開いた派手なドレスを着こなす艶やかな姿は、一流の娼婦と言われても違和感ない。キツい化粧も、しなだれかかってくるその柔らかさも。きちんと計算され尽くしている。
「今日もたくさん集めているんだろう?」
「まぁ! せっかくいらっしゃったのに、意地悪な御方。ネフェリー様は特別なお客様ですもの、アタクシが心を込めてお相手させていただいきたく存じますわ」
享楽的な彼女は、享楽的な若者を集めて乱痴気騒ぎをさせるのが趣味なのだ。日によって、その中に混じってみたり眺めてみたり……ドゥーべに初めて連れて来られた時は驚いたものだった。
「はは、その名で呼ばれるのは久しぶりだ。相棒が死んだからな」
「……えぇ。アタクシも本当にショックでしたわ。
ですが、ネフェリー様だけでもこれからも是非ともお越しくださいませね? いつでもお待ちしておりますから」
真っ赤な唇を吊り上げて、彼女は奥の部屋へと導いて行く。
あちこちの部屋から響く嬌声。男も女も、彼女の気に入る容姿さえ持っていれば、身分に関わらずこの屋敷の門戸は開かれる。
「今日は一段と賑やかなようだね?」
「えぇ。最近お気に入りのお酒が手に入りまして。お酒を飲むとヒトは元来、気が大きくなるものですけれど、あれはなんと言うか……解放してくれますの」
「解放?」
「普段押し殺している心、とでも言うのでしょうか。記憶が飛ぶ程に飲まずとも、とても素直になれますのよ。ネフェリー様もいかがです?」
「ほう。味次第だな」
最奥の広い部屋、勝手知ったるそのソファーに腰掛けた。
パーシアの私室にあたるそこは、彼女が自身で饗すと決めた特別な客しか入れない。奥の扉は寝室や風呂場に繋がった、完全なプライベート空間だ。落ち着いた品の良い家具で統一されたこの部屋までは、邸内の騒音も届かない。
「どうぞ。こちらがその銘柄ですわ。ハーブの香りがお嫌いでなければ良いのですけれど……」
「む。…………悪くない」
グラスに揺れる緑がかった茶色の酒。カラリと氷を揺すれば、ほんのりと甘い香りが幽かに燻る。
「よろしゅうございました」
手早く酒肴を整えて出ていく家人の姿も見慣れたもの。半年以上来ていなかったが、この屋敷は時間が止まったかのように変わり無かった。
「ところでお聞きになられました? ツァイ家の跡目争いの件」
「ツァイ? いや」
「伯爵家といえど末端ですから。高位の方々のお耳に入るのは決着がついてからになるのかもしれませんわね。けれど、なかなかおもしろいことになっておりますのよ?」
「ほう」
(……しかし……こんなものだっただろうか?)
何かにつけて纏わつき、アピールを繰り返すパーシアと世間話を交わしながら、鎌首を擡げた退屈を噛み殺す。
軽やかな話術、程良く刺激的で、退廃的な──。
(もう少し魅力的な女だった気がするが……)
彼女の容姿に衰えはない。接待する技術だとて。
自然に閨事に誘導する流れもその手腕も、恐らくは半年分の磨きがかかったことだろう。
しかし。
(ヒトの外見と房事でのみ相手を判断する滑稽さ、か。なんとも世界の狭いことだ)
この退屈が「己の心の解放の結果」というのならば、なかなかに効能の高い酒だ。確かに、普段ならば無理やりにでも色事に向けるであろう意識が、今はどうあっても動かない。
彼女に魅力がないわけでも、自身が枯れ果てたわけでもないのだが……
(あぁ。ツィーナに会いたい)
わたしがこうして会話を楽しみたいのも、傍に侍らせたいのも、ツィーナ唯一人。そう強く自覚した。
明るく、裏表のない笑顔。気丈な顔も、柔らかな慈愛も。
心が、ツィーナに飢えている。
渇望している。
「あらネフェリー様。お疲れのご様子ですわね? うふふ、あちらのお部屋に安らぐ香りを焚きしめてございますの。少し休憩なさってはいかがでしょう?」
色を滴らせたパーシアのことを、わたしは笑えない。半年程前の自分は、彼女と同族だったのだから。
改めて思う。ツィーナと出会ってからの時間の密度のなんと濃いことか。数年過ごす以上の変化を、彼女はわたしに齎した。
それは、言ってしまえば青臭く、泥臭い変化。洗練されていない、剥き出しの自分と向き合わなければならない試練。
ようやく、愛されることへの執着を捨て、身軽に生きられるようになったはずだった。過度に干渉することのない、使い捨ての人間関係を築けるようになったはず……だった。
それら全てを無意味にし、振り出しに戻した彼女。
彼女の愛を独占したい。愛されたい。
わたしを、必要として欲しい────。
(この女を僅かたりともツィーナだと思えるだろうか……?)
白く柔らかな肌。
真っ直ぐこちらを見る──
「帰る」
「え……?」
欲の浮かんだ瞳。スカーフタイを思わせぶりに弄ぶ細い指先。あられもなくしなだれかかる女の、噎せ返るような香り。
全てに落胆させられた。
あまりにもツィーナと違う。わたしの求める相手とは──。
ツィーナは外見でヒトを見ることをしなかった。
自分のために他人を動かそうとしたりもしなかった。
退廃的なパーシアでは、どうやっても清廉なツィーナの代わりなぞ、務まらないのだ。その差を、ただただ、痛感する。
清々しい朝の森林の空気と、淀んだ夜の歓楽街の空気が別物であるように。二人には、女性という共通点しか存在しない。
「ネフェリー様!? お待ちになってネフェリー様!」
自覚してしまえば、もう無理だった。
(わたしが欲しいのは、ツィーナだけ)
この苛立ちも渇きも、癒せるのは一人だけ。
ツィーナを愛してしまったから──。
ツィーナに愛されたいと願ったから──。
(あぁ…………)
今すぐ。
ツィーナをこの腕に閉じ込めたい。




