第82話 ラスベガス
空港の自動ドアを抜けた瞬間、沢渡夕奈は唇の乾きを感じた。
十一月だというのに、外の日差しは強い。東京を出た朝の冷たさとは違い、肌に当たる空気にはほとんど湿り気がなかった。
長い移動で体は重いのに、目は次々と新しいものを拾った。
何列にも並ぶ送迎車。英語で行き先を呼ぶスタッフ。広い道路の向こうには、青空を切り取るように巨大なホテルが立っている。
夕奈は肩にかけた鞄の上から、試合用コントローラーの硬い感触を確かめた。
「ありますよ」
隣を歩いていた航平が言った。
「何がですか」
「コントローラー。飛行機を降りてから、三回は触ってます」
「壊れていないか気になるだけです」
「鞄の上から分かるのは、消えてないことくらいですけどね」
前を歩いていた遥真が振り返った。手には黒いデバイスケースがある。
「俺も見た」
「ハルまで不安だったんですか」
「壊れてたら困る」
「二人とも、預け荷物に入れるなって何度も言った意味はありましたね」
航平は自分のリュックの肩紐を直した。
昨夜の航平は、パスポートから予備ケーブルまで三人分を把握しようとした。成田空港でも、二人が搭乗口を通るまで何度も振り返っている。
「送迎車、あれですね」
航平が、フロントガラスにDWCのロゴを掲げた大型車を指す。表示の下には、複数のチーム名が並んでいた。
NOVA-3。
TIERAX。
ほかは、これまで配信でしか見たことのない海外チームだった。
夕奈たちが乗り込むと、すでに何人かの選手が席についていた。色の違うユニフォームを着て、足元には大きな機材ケースを置いている。
誰も画面の中にはいない。
選手たちはスマートフォンを見たり、仲間と話したり、窓へ顔を向けたりしている。同じ会場へ向かう車の座席にいた。
航平は夕奈と遥真の間に座ると、声を落とした。
「前から三列目、NEXORAです」
「聞こえたらどうするんですか」
「チーム名を言っただけです。対策を車内で読み上げたわけではありません」
車が動き出した。
空港周辺を抜けると、窓の向こうに巨大な看板とホテルが次々に現れる。建物の外壁を覆う広告モニターには、映画やショーの映像が流れ、その合間にDWCの告知が差し込まれていた。
DELTA FIELD WORLD CHAMPIONSHIP。
各地域代表のロゴが順番に通り過ぎる。NOVA-3が映った。夕奈が姿勢を変えた頃には、もう別のチームに切り替わっていた。
「見ました?」
航平が尋ねる。
「見ました」
「ラスベガスまで来た感じがしますね」
「空港を出た時点で来ています」
「まだ俺たちの今日の実績、入国と荷物回収だけですよ」
遥真は窓の外を見たまま言った。
「失敗しなくてよかった」
「そこを勝敗に入れると、帰国まで連勝を維持するのが大変ですよ」
二人の声は、東京にいるときと変わらなかった。夕奈は膝の上の手を緩めた。昨夜、遥真とマンションの前へ戻ったときのことが、不意に頭をよぎる。
空港だけではない。
そう確かめ合ってから十数時間後、二人は航平を挟んで、世界の選手たちと同じ車に乗っている。
夕奈は遥真の横顔を見ないように、窓の外へ視線を戻した。
◇
選手用ホテルのロビーは、夕奈が想像していたものより広かった。
高い天井から照明がいくつも下がり、壁際の案内モニターには各地域の代表チームが表示されている。宿泊客が行き交う通路の先には、レストランや売店が並び、その奥にも別の廊下が続いていた。
「部屋から会場までの道で迷いそうですね」
航平が案内板を見上げる。
「選手用の通路があります。地図は行程表に入れています」
前を歩く玲奈が答えた。
航平は三人分の地図を同時に開き、拡大したまま歩き出した。五歩も行かないうちに、NEXORAのロゴが貼られた機材室の前で止まる。
中から出てきた選手と目が合った。送迎車の前から三列目にいた一人だった。
相手は航平の端末をのぞき、画面を指で反対へ払う仕草をした。受付は逆方向らしい。
「サンキュー」
航平が頭を下げると、相手は笑い、NOVA-3の三人を順に数えてから、また反対を指した。
遥真が先に来た道を戻る。
「三人分、間違ってた」
「地図は合ってます。俺の向きが逆だっただけです」
「三人とも逆へ連れていくところでしたね」
夕奈が言うと、玲奈は航平の端末で、ほかの二人の地図を閉じた。
「早坂さんも、今回は選手として来ています。移動は私と大会スタッフに任せて、自分の機材と体調を見てください」
「今ので、かなり説得力が出ました」
受付前には、四つの色に分かれた列があった。八十チームを二十ずつ四組に分け、各組の上位十チームが二組のセミファイナルへ進む。さらに各組上位十チーム、計二十チームが決勝へ残る。
案内モニターでは国内予選の105ptが消え、NOVA-3の横に大きな0が表示されていた。順位ptと1キル1ptは国内と同じでも、段階が変わるたび積み上げはゼロへ戻る。
「本当に何も残らない」
遥真が言った。
「出場権は残ってます」
航平は公式データパックを開きかけ、閉じた。すぐ近くを、そこに載っているNEXORAの選手が歩いていたからだ。画面には、NEXORAの移動、AETHERIXの高所、GRAVENORの回復装置という分析見出しが並んでいる。
「本人の横で読むものじゃないですね」
「ホテルに戻ってから見ます」
夕奈も端末をしまった。データに書かれた通りの選手が来るとは限らない。さっきのNEXORAは三人の到着を揃えるどころか、一人で機材室から出てきた。
受付では、パスポートと選手登録情報の照合が行われた。夕奈の番になり、活動名を尋ねられる。
「YUNA」
スタッフが端末を操作する。画面には、パスポートと照合された本名、顔写真、活動名が並んでいた。
確認が終わると、一枚のカードを差し出された。上部には国名。
JAPAN。
中央にはチーム名。
NOVA-3。
その下に、YUNAと記されている。東京へ来る前から、ランクで使い続けてきた活動名だった。
カードの表面に、大学で使う沢渡夕奈の名前も、契約書に書いた本名も載っていない。
YUNAは運営の登録情報でパスポートの本名と結びつき、世界大会ではその名が公開される。
そして今、その名前の上には日本代表を示す国名があった。
「グッドラック、ユナ」
「サンキュー」
夕奈はカードを受け取った。
隣では、遥真がHALのカードを首にかけている。航平の胸元にも、KOHEIの名前が下がっていた。
三人とも、登録内容に間違いはなかった。
◇
競技会場へ向かう通路には、DWCの歴代優勝チームや、今回出場する代表の紹介パネルが並んでいた。
その一枚に、NOVA-3がある。
画面に表示されているのは、三人の顔写真と、YUNA、HAL、KOHEIの活動名だった。YUNAの横には、日本国旗が置かれている。
通常配信で見慣れた白と青のアバターはない。世界大会の公式試合では、選手は本人として扱われる。運営スタッフにも、同じ車に乗った海外チームにも、ここを通る観客にも、素顔は見られている。
紹介文にあるのは、国内予選二位と最終試合チャンピオン、終盤の判断とチーム連係だった。
「ずいぶん、すっきりしましたね」
航平が英語の紹介文を読む。
「何がですか」
「日本だと、会社のチームで、アバターで配信して、宣伝もしてるってところから説明されるじゃないですか」
「事実ですから」
「はい。でも、ここでは予選二位のチームです」
航平の言葉に、夕奈はもう一度パネルを見た。通路を、黒と赤のユニフォームを着た選手が通り過ぎる。胸元には北米代表、BLACK CIRCUITのロゴがあった。
その一人がNOVA-3のパネルへ目を向け、次に夕奈たちの登録カードを見る。
「ノヴァ・スリー?」
航平が応じた。
「イエス」
相手は国内予選の最終試合を見たらしく、短い英語でチャンピオンを祝った。
「ラストゲーム。グッドチーム」
「サンキュー」
航平が返すと、選手は親指を立て、仲間のあとを追っていった。夕奈は、首から下げたカードを握った。
相手はYUNAスキンを知らないかもしれない。NOVA3Radioを見たことも、日本でNOVA-3が何を言われてきたかも知らない。
知っていたのは、国内予選の最終試合だった。三人が勝った試合だけが、この場所まで先に届いている。遥真は何も言わず、NOVA-3の紹介パネルをもう一度見た。
「海外選手から、グッドチームって言われましたね」
航平が声を弾ませる。
「一試合見ただけ」
遥真が答える。
「それでも、悪いとは言われてない」
「ハルさん、評価基準を低いところから始めすぎじゃないですか」
三人はパネルの前を離れた。
通路の先のモニターでは、GRAVENOR Esportsの紹介映像が流れていた。
中央に映っている選手の活動名は、NOAH。
インタビュアーが、勝つために最も大事なものは何かと尋ねている。ノアは答えかけたが、隣からVIKが何かを言い、通訳字幕が一度消えた。
二人が同時に話したらしい。MILOがVIKの腕を押し、先にノアへ譲る。ノアは表情を変えず、短く答えた。
『この二人がどこへ行くか、最後まで聞くこと』
それが戦術なのか、今の割り込みへの嫌味なのか、夕奈には分からなかった。
紹介映像は前年の欧州地域決勝へ切り替わった。VIKが二人を倒し、長い通路の入口で一度止まる。退路へピンを置いたのはVIK自身だった。
その直後、MILOの声に反応して三人目を追う。あとで付いた字幕には『行ける』とある。VIKは三人目を倒したが、画面の外側でMILOが別部隊に足を止められ、NOAHも通路の角を越えて援護に走ったため、後ろの射線が消えた。
VIKが左右から撃たれてダウンする。NOAHは起こそうと通路の中ほどまで近づいたが、そこから先へは進めずに引き返した。MILOだけが収縮際に残された。GRAVENORは四位で終わった。
試合後、誰が三人目を追うと決めたのかを聞かれる。
『俺だ』
VIKが答えるのと同時に、MILOが首を振った。
『私が行けると言った』
『聞こえる前に行っていた』
『でも、止めなかった』
二人の答えは噛み合わない。インタビュアーがNOAHへ判定を求める。
『私は起こせない距離まで走った。二人を呼び戻す声も出さず、自分まで通路へ入った』
『では、正しい判断は?』
ノアはリプレイの停止位置を少し戻し、VIKが自分で置いた退路のピンを示した。そのピンは、三人とも通らなかった場所に残っている。
『私はここに残って撃ちたかった。ヴィクが戻るまで、相手に出口を渡さずに。次は先に取る。通したくない三人が、まだ何チームもいる』
VIKが横から何か言い、今度はノアが明らかに眉を寄せた。字幕には出ない。MILOだけが笑い、映像は四位の表示を残して終わった。
夕奈は足を止めた。
航平もモニターを見上げている。
「負けた映像で、もう次の相手を追い出す話ですか。嫌なこと言いますね」
「嫌ですか」
「強い人が、自分の強さをちゃんと分かって言ってる感じがします」
遥真は紹介映像のNOAHへ指先を向けた。
「戦いたい」
夕奈も戦いたいと思った。ただし、撃ち合う前にこちらの道を奪う相手として。
紹介パネルの前を、夕奈には聞き取れない言葉が行き交った。販促チームという日本語は聞こえない。聞こえたのは選手名とチーム名、それから試合の話だけだった。
◇
選手ブースには、大会指定の机と椅子が一列に並んでいた。
夕奈は自分の席に座り、モニターとの距離を合わせる。鞄から黒いコントローラーを取り出し、ケーブルを接続した。
西大井の部屋へ来た日に持ってきたものだった。
会社の机でも、国内予選の会場でも使ってきた。その同じ道具が、ラスベガスの選手席に置かれている。
大会用クライアントを立ち上げ、入力と感度を確かめる。
「夕奈さん、音声どうですか」
ヘッドセットから航平の声が入った。
「聞こえます。航平さんは?」
「問題ありません。ハル」
「聞こえる」
机の高さを合わせ、ヘッドセットの音量を東京と同じ数値に戻す。三人は確認用のルームへ入った。
航平が周辺の状況を伝え、遥真が試し撃ちをする。夕奈は二人の位置を見て、移動先を決めた。
「右の遮蔽まで行きます。ハル、先に射線を作れますか」
「作れる」
「俺、左を見ます」
「行きます」
三人のキャラクターが同じ方向へ動く。そのとき、壁の向こうから大きな歓声が響いた。
低い音が床へ伝わり、夕奈の足元をわずかに震わせる。配信で聞く歓声とは違った。音量を下げることも、画面を閉じて消すこともできない。
壁の向こうには、世界中から集まった観客がいる。映像で見てきた選手たちも、この建物のどこかにいる。明日から、NOVA-3もその試合に入る。
「続けましょう」
夕奈はヘッドセットを押さえ直した。
「はい」
「分かった」
二人の返事が重なり、三人のキャラクターがもう一度走り出した。
◇
機材調整を終える頃には、外の空が暗くなっていた。会場のモニターに、翌日の公式練習マッチの組み合わせが表示される。
公式練習マッチにはTIERAX、NEXORA、BLACK CIRCUIT、NOVA-3が並び、その下に欧州代表のGRAVENOR Esportsがあった。選手欄の中央には、司令塔の活動名「NOAH」が記されている。
「同じロビーです」
航平は表示を拡大し、NOAHの名をもう一度確かめた。夕奈もモニターを見上げる。
明日の公式練習マッチでは、NOAHが同じロビーにいる。
遥真が言った。
「戦える」
会場スタッフが調整終了を知らせ、選手用回線を切った。遥真はそれでも、自分の端末でGRAVENORの試合履歴を開いた。
「ホテルで一本見る」
「今日は寝る日です」
「一本だけ」
「その一本を三回戻すので駄目です」
「二回」
「交渉ではありません」




