第81話 離れるの、怖くないの
マンションの自動ドアが閉まると、夜の空気が思っていたより冷たかった。
沢渡夕奈は薄い上着の前を押さえ、隣を歩く久我遥真を見た。遥真は部屋着に近い格好のまま、何も言わずに歩き出す。
どこへ行くかは決めていなかった。
日付が変わる直前の西大井は、昼間より道が広く見えた。駅前のスーパーは照明を落とし、飲食店のシャッターもほとんど下りている。コンビニだけが明るく、帰宅を急ぐ人がときどき二人の横を通りすぎた。
明日の朝には、航平も含めた三人で成田空港へ向かう。
一分でも早く眠るべき夜だった。夕奈は何も聞かずに自分の部屋へ戻れず、遥真の隣を歩いた。
「パスポート、本当に入れましたか」
夕奈は前を向いたまま尋ねた。
「入れた」
「取り出しやすい場所ですか」
「鞄の内側」
「現地で眠れなかったら、どうします?」
「目を閉じる」
「それで眠れたら苦労しません」
「夕奈は?」
「私は飛行機で寝ないようにします。現地の夜まで起きていた方がいいと、玲奈さんから言われたので」
「たぶん寝る」
「私がですか」
「うん」
夕奈は反論しかけて、やめた。長時間の移動で、自分だけが最後まで起きていられる自信はない。
話していることは、どれも明日に必要なことだった。けれど、聞きたかったことではなかった。
遥真は急かさない。なぜ歩きたいと言ったのかも尋ねず、夕奈より半歩ほど前を歩いている。夕奈が足を緩めると、遥真の速度も自然に落ちた。
そのことに気づいたら、余計に言い出しにくくなった。
駅を過ぎ、線路沿いの道へ入る。遠くで電車が走る音がした。明日の夜には、この音も聞こえない場所にいる。
「TIERAXへ移籍したら、練習は毎日ですか」
夕奈はようやく尋ねた。遥真は驚いた様子を見せなかった。
「たぶん」
「今みたいに配信する時間は減りますよね」
「競技が優先になると思う」
「活動場所も変わりますか」
「変わる」
一つずつ、普通の返事が返ってくる。
遥真が別の場所で毎日練習する。NOVA-3の予定表を確認する必要がなくなり、三人で録画を見る時間もなくなる。夕奈が配信を始めても、遥真は同じ通話にはいない。
同じ東京にいたとしても、会う理由がなくなれば、会わなくなるのは簡単だった。
「東京にはいる」
夕奈は首を振った。
「同じ東京にいるって話じゃないです」
思ったより強い声が出た。遥真が足を止める。
夕奈は二歩ほど先まで進んでから、自分も止まった。振り返ると、閉まった店の看板から落ちる薄い光の中で、遥真がこちらを見ている。
これまではスクリムやグリムマスター、国内予選を理由に、NOVA-3にいてほしいと言えた。DWCのあとに、同じ理由は使えない。遥真の競技選手としての道を、自分の寂しさで狭くしたくなかった。
「TIERAXへ行かないでほしいって、言いたいんじゃないです」
夕奈は言葉を選びながら続けた。
「ハルが行きたいなら、行ってほしいです。NOVA-3に残るために、競技を諦めてほしいわけでもありません」
口にしたことに嘘はない。夕奈は靴先へ視線を落とした。
「でも、ハルは……離れるの、怖くないの」
口から出たあとで、敬語が外れていたことに気づいた。言い直せなかった。
線路の向こうから電車が近づいてくる。車輪の音が大きくなり、二人の間を埋めた。明るい窓が連なって通りすぎ、やがて赤いランプだけが遠ざかる。
音が消えてから、遥真が答えた。
「怖い」
夕奈は顔を上げた。
「毎日、同じ通話に入らなくなる。三人で試合を見る理由もなくなる。航平とも、夕奈とも、今みたいには会わなくなる」
遥真は線路の向こうへ目を向けた。
「でも、会わなくなる方が嫌だ」
冷えていた夕奈の指先に、遅れて熱が戻った。
「TIERAXへ行っても連絡する。夕奈が試合に出るなら見る。会えるなら会う」
「嫌?」
遥真が尋ねる。夕奈はすぐに首を振った。
「嫌じゃないです。連絡しなくなる方が嫌です」
遥真は詰めていた息を鼻から吐いた。
航平と離れることも、三人の通話がなくなることも寂しい。けれど航平には、終わったあとも会うのかと確かめようとは思わなかった。その違いは、今夜は口にしなかった。
「戻りますか」
夕奈が尋ねる。
「もう少し歩く」
遥真はそう言って、再び歩き始めた。夕奈も隣に並ぶ。
帰りは肩の距離も、揃った歩幅も、横顔を見る回数も気になった。遥真も普段より口数が少ない。二人は明日の予定を持ち出さず、遠回りの道を歩いた。
遠回りをしてマンションへ戻った頃には、日付が変わっていた。
自動ドアが開き、二人は同じエレベーターに乗る。夕奈が自分の階のボタンを押し、遥真がその上の階を押した。
箱の中で、階数表示だけが一つずつ増えていく。夕奈の階で扉が開いた。
「朝、空港で」
遥真が言う。夕奈は降りかけて、振り返った。
「空港だけじゃないですからね」
遥真は閉じかけた扉へ一歩寄った。夕奈は説明せず、そのまま廊下へ出る。
「分かってる」
扉が閉じ、エレベーターの上昇音が再び聞こえた。夕奈は部屋の前まで行き、上下を逆にしたカードキーを一度差し込んだ。赤いランプが点く。持ち替えて差し直すと、今度は緑に変わった。




