第80話 出発前夜
提出完了の表示が出ても、沢渡夕奈はすぐにノートパソコンを閉じなかった。
画面には、大学の授業名とレポートの提出時刻が並んでいる。本来の締切は三日後だった。ラスベガスに着いてからでも間に合うが、慣れない回線や時差の中で提出できなくなるのが怖くて、出発前に終わらせた。
誤字が残っていないか。添付するファイルを間違えていないか。もう一度だけ確認してから、夕奈は画面を閉じた。
机の左側には、読み終えた大学の資料が重なっている。右側には、玲奈から渡されたDWCの渡航書類が置かれていた。
その間に、使い慣れたコントローラーがある。この部屋へ来た日にも、同じ机の上に置いたものだった。
白い壁も、黒いワークチェアも、会社が手配した回線も変わらない。服と大学の資料とコントローラーだけで来た部屋に、三年分の授業、練習、配信が積み重なっていた。
負けた夜に録画を見返し、三人の通話を切れないまま朝を迎えたこともある。
明日、その部屋から世界大会へ向かう。ベッドの脇には、開いたスーツケースが置かれていた。
世界大会へ行く荷物は、思っていたより普通だった。画面の中では日本代表でも、忘れ物をすれば空港で困る。夕奈はパスポートを確認し、スーツケースの内ポケットに戻した。
スマートフォンが震える。
『二十二時から、最終確認をします』
航平からのメッセージだった。夕奈が通話へ入ると、今回は映像まで開いていた。画面の中央に航平の顔、右下には遥真の部屋の天井だけが映っている。
「お疲れさまです」
『お疲れさまです。ハルさん、カメラが逆です』
「もういる」
天井が動き、遥真の開いたスーツケースが映った。半分以上を黒い服が占め、その上にマウスが裸で置かれている。
『それ、預ける方へ入れてませんよね』
「分からない」
『分からないまま閉めないでください。試合用デバイスは手荷物です』
遥真はマウスを持ち上げ、画面の外へ置いた。代わりにパスポートが服の間から滑り、床へ落ちる。
「落ちた」
『見れば分かります。拾ってください』
夕奈は笑いをこらえながら、自分のスーツケースを画面へ向けた。内ポケットにパスポート、隣に赤い封筒。コントローラーは鞄へ移してある。
「私は、ここです」
航平が画面を拡大するように目を細めた。
『本当に俺が聞く前に入れたんですか』
「代表発表の夜に、航平さんが確認票を三回送りました」
『あれは更新版が出たからです』
「俺も終わった」
遥真が拾ったパスポートをカメラへ近づけた。近すぎて、表紙の一部しか映っていない。
『顔写真のページを配信しないでください』
遥真が慌てて画面を伏せ、また天井になる。
「航平さんの準備は終わっているんですか」
『俺は一時間前に終わりました。二人が何かやると思ったので』
『二人とも、急に自立しないでもらえます?』
「今、ハルの荷物を見て正解だったと思っていませんか」
『思ってます。でも、夕奈さんが自分の分を見せてくれたのも助かりました』
「減ったんじゃなくて、見る相手を選べるようになったんです」
『それ、調整役を納得させるときに便利な言葉ですね』
航平の語尾に笑いが混じった。遥真の画面がようやく正しい向きへ戻り、閉じかけたスーツケースの隙間から、さっきのマウスのケーブルが一本だけはみ出している。
『ハルさん。それを直したら確認は終わりです。このまま真面目に寝ますか』
明日の集合は早い。夕奈は通話終了のボタンに触れず、二人のアイコンを見た。
「何か食べませんか」
自分から言うと、航平がすぐに反応した。
『いいですね。世界大会前最後の西大井飯にしましょう』
「大げさです」
『次に戻るときは、日本代表から世界王者になってる予定ですから』
遥真が答える。
「まだ勝ってない」
『だから予定です』
◇
三人はマンションの前で合流し、いつもの中華料理店へ向かった。勝ち方も、遥真の進路も、DWC後のことも話してきた店だ。しかし入口のシャッターはすでに下り、中央には「本日の営業は終了しました」と書かれた白い札が掛かっていた。航平が足を止めた。
「世界大会前の最後の飯くらい、予定どおりにいってほしかったですね」
「営業時間を確認しなかったからです」
夕奈が言うと、航平は札の時間を見る。
「確認役として一生の不覚です」
「コンビニでいい」
遥真は、もう駅の方へ歩き始めている。
「世界へ行く前ですよ」
「明日の空港でも食える」
「情緒を手荷物に置いてきました?」
「まだ家にある」
「持ってきてください」
夕奈は笑いながら、二人のあとを追った。駅前のコンビニには、仕事帰りらしい客が何人かいた。三人は別々に店内を回る。
夕奈が選んだのは、鮭のおにぎりと小さなスープだった。遥真はパンと水。航平の籠には弁当とサラダと、明日の朝に食べるらしい栄養補助食品まで入っている。
「空港で買えばよくないですか」
「空港価格から生活防衛をしています」
「会社から食費が出ますよ」
「出るからって高い方を選んでいい理由にはならないでしょう」
航平はそう言いながら、レジ前の菓子を一つ追加した。
「それは必要なんですか」
「海外で日本のお菓子が恋しくなったときの保険です」
「明日出発ですよ」
「未来を見ています」
特別な夜食にはならなかった。練習が長引いた日にも、配信を終えたあとにも、何度も買ったものだった。その普通さが、夕奈には妙に嬉しかった。
◇
航平の部屋は夕奈の部屋と同じ間取りだった。違うのは、二枚のモニターを囲む付箋と、種類ごとにまとめられたケーブル、箱に戻された予備のマイクだった。
机の下には会社貸与のPCがある。モニターも、マイクも、配信用の機材も会社の備品だった。三人は床に座り、ローテーブルに夜食を広げた。
航平は弁当の蓋を開けたあと、机の下へ目を向ける。
「契約が終わったら、このPCも返すんですよね」
軽い口調だった。夕奈はスープの蓋を半分まで剥がし、湯気越しに航平を見た。
「そうですね」
「分かってたんですけど、こうして見ると結構ありますね」
「椅子も?」
遥真が聞く。
「これは部屋の備品です。ここを出るなら返します」
「机も?」
「たぶん」
航平は自分の部屋を見回した。
遥真が座り直したとき、踵で机下の電源タップを押した。二枚のモニターが同時に消え、冷却ファンの音も止まる。
「抜けた」
「ハルさん、足」
航平の声が本気で低くなった。遥真がすぐに足を退ける。ケーブルは抜けていなかった。電源タップのスイッチを踏んだだけだった。
航平が入れ直すと、黒い画面へ会社の管理表示が出る。起動を待つ数秒、三人の顔だけがモニターに薄く映った。
「返したら、これが点かなくなるんですよね」
さっきより冗談に聞こえなかった。
「今のアバターもチャンネルも使えません。次の配信を始めても、今見てくれている人が来る保証はないです」
航平は机の下から、もう一本の細いケーブルを引いた。つながっていたのは、会社のPCではなく、私物の小さなノートパソコンだった。蓋には、何度も剥がしたステッカーの跡が残っている。
「これで始めるんですか」
夕奈が尋ねる。
「今のままでは、ゲームと配信を同時に動かしたら止まります」
「じゃあ無理だろ」
「最初の日には、ゲームをしないという方法もあります」
「ゲーム配信なのに?」
「雑談から始めたっていいでしょう。誰も来なかったら、一人で喋る練習になります」
航平は笑ったが、指はノートパソコンの傷を何度もなぞっていた。
「普通に怖いですよ。会社にいれば、場所も機材も予定も来る。外に出たら、最初の配信を始めるボタンまで自分で押さないといけない」
「それでも、押すんですか」
夕奈が聞く。
航平は起動した会社のモニターではなく、古いノートパソコンを開いた。画面は暗いままだった。
「会社の機材じゃなくても、KOHEIでやるなら俺の配信だろ」
ここで覚えた話し方や、試合の見せ方や、二人の声を聞くときにどこを見るか。それは返却箱へ入らない。
「だから、ここから先は俺が点けます」
航平が電源を押す。小さなファンが頼りなく回り始め、三人とも音が続くか黙って聞いた。
「航平さんの配信なら、見に行きます」
夕奈が言うと、航平が眉を上げた。
「初回から身内がコメント欄にいるの、ちょっと恥ずかしくないですか」
「見に来てほしくないんですか」
「見に来てください。人数は多い方がいいので」
「現実的」
遥真が言う。
「生活がかかってますからね。ハルも来てくださいよ」
「行く」
「コメントもしてください」
「何を書けばいい」
「そこから教えないといけないんですか」
航平が困った顔をして、夕奈は笑った。
スープの表面から湯気は消えていた。夕奈は蓋を畳み、ローテーブルの現地行程表を自分の方へ引いた。
「現地に着いたら、最初に何をしますか」
夕奈が尋ねる。
「寝る」
遥真が即答する。
「時差調整がありますからね。ホテルに着いてすぐランクを回すのは禁止です」
「一試合だけ」
「一試合で終わらない人が言う台詞です」
「練習場は見たいです」
夕奈が言うと、航平は現地行程表を開いた。
「会場までの動線も確認しましょう。食事できる場所と、遅れたときの連絡方法も」
「また三人分を見るんですか」
「これはチームの確認です」
「自分の分に集中できるようになったんじゃなかった?」
遥真に返され、航平が黙る。
「その言葉、今日だけで便利に使われすぎじゃないですか」
航平は時差調整の欄へ赤い丸をつけた。遥真がペンを取ろうとすると、行程表ごと自分の側へ引く。
「一試合も駄目です」
「まだ何も言ってない」
◇
食べ終わった頃には、日付が変わる少し前になっていた。航平が空になった容器をまとめる。
「そろそろ寝ましょう。渡航前夜に三人揃って寝不足は、玲奈さんに報告できません」
「明日の朝、寝坊しないでくださいね」
「夕奈さんに言われたくないです」
「私はアラームを三つかけました」
「それは寝坊する人の対策です」
遥真が立ち上がる。
「俺が起こす」
「どうやって?」
「返事がなかったら、電話する」
「同じマンションって便利ですね」
航平は笑ったあと、言葉を切った。
「……今のうちは」
夕奈と遥真は航平の部屋を出た。背後でドアが閉まりかける。
「おやすみなさい。明日、空港で」
「遅れるなよ」
「それ、俺が言う側ですからね」
航平はドアを閉める前に、拳を一つ廊下へ出した。
「次にこのドアを開けるときも、三人で帰ってきましょう」
遥真が先に、自分の拳を当てる。夕奈も一拍遅れて重ねた。
「勝って帰る」
「はい」
三人はすぐに手を離した。航平が笑ってドアを閉める。廊下に、夕奈と遥真だけが残った。エレベーターの前まで歩く。
上へ行けば遥真の部屋がある。夕奈も自分の階へ戻れば、あとは眠るだけだった。明日の朝には三人で成田空港へ向かい、その日のうちに東京を離れる。
夕奈は階数表示を一度見てから、遥真へ向き直った。
「ハル」
「何?」
航平の部屋では聞けなかったことが残っている。
「少しだけ、歩きませんか」
遥真は夕奈を見た。理由は聞かなかった。
「うん」
二人はエレベーターに乗り、一階のボタンを押した。
「どこまで歩く?」
「まだ決めていません」
遥真は一階の表示を見てから、もう一度聞いた。
「長い?」
夕奈は答えられなかった。




