第79話 勝ってから決める
練習を終えたあと、三人は西大井駅から少し歩いた中華料理店へ向かった。奥の四人掛けに座ると、航平は夕奈が話を始めるより先に店員を呼んだ。
「今日は先に注文します」
「何の対策ですか」
「俺たちが話し始めると、食事が止まることへの対策です」
遥真がメニューを閉じた。
「炒飯」
「ハルさんは止まったことないでしょう」
炒飯を二つ、五目麺を一つ、餃子を二皿。厨房で鍋を振る音を聞きながら、三人はさっきの練習で失敗した移動を一度だけ確認した。
餃子が最初に届いた。航平が一つ取り、夕奈の小皿にも置く。遥真は言われる前に二つ取った。
「一個は食べてから話しましょう」
「進行するんですね」
「食事だけです」
焼けた皮は熱く、夕奈は噛んだ途端に口を閉じた。遥真は平気な顔で二つ目へ箸を伸ばしている。航平も一つ食べきった。
夕奈は水を飲み、グラスを置いた。
「今日、会社から正式に話がありました」
夕奈は膝の上で手を組んだ。
「DWCが終わったあと、アークラインの立ち上げに参加してほしいそうです。チームの中心として」
航平の視線が夕奈へ向いた。
「正式な打診なんですね」
「はい。返事は大会が終わってからです」
「すごいですね」
航平は「すごいですね」と言ったあとも笑わず、伏せたスマートフォンに手を置いていた。
「受けたい?」
遥真が尋ねた。
夕奈は資料に記されていたYUNAの名前を思い出した。
「やりたいです」
口にすると、嬉しいはずなのに喉が詰まった。NOVA-3の終了後を、自分の声で初めて予定に入れた。
遥真はグラスの水滴を親指で拭った。
「なら、受ければいい」
幕張でも聞いた言葉だった。今夜は、遥真が夕奈を手放す準備をしているように響いた。
「そんなに簡単に言わないでください」
思ったより硬い声が出た。航平が口を挟みかけてやめる。遥真は夕奈を見た。
「簡単じゃない」
遥真は箸を置き、夕奈から航平へ視線を移した。口を開きかけて、一度閉じた。
「DWCが終わったら、TIERAXの話をもう一回聞きたい」
「移籍するんですか」
「決めてない。今は条件も聞いてない」
「DWCが終わったらって、いつ決めたんですか」
「代表が決まったあと」
「あのとき『また決める』と言っていたのは、そこなんですか」
夕奈の問いが重なった。遥真は水のグラスを置いてから答えた。
「あのときも、TIERAXへ行きたい気持ちは変わってなかった。DWCへ行けるって決まって、そのあとにもう一回話を聞こうと思った」
夕奈は箸へ伸ばしかけた手を戻した。
TIERAXとの再スクリムを終えた夜、遥真は今はNOVA-3に残ると選んだ。「終わったら、また決める」とも聞いたはずだった。
夕奈は、遥真が次を決める日は契約終了よりもっと先だと、勝手に受け取っていた。遥真は嘘をついていなかった。
「競技だけを考えられる場所へ行きたい気持ちは、まだある」
遥真は言った。
「NOVA-3で覚えたことを、競技で試したい」
「よかったですね」と言おうとして、言葉が出なかった。知らない場所で遥真が撃ち、別の誰かの判断を待つ姿を思い浮かべると、胸が痛んだ。火力役が抜ける不安とは違う。
「夕奈がアークラインをやりたいのと、同じだと思う」
「同じでも、平気にはなれません」
「俺も平気じゃない」
遥真はすぐに返した。夕奈が顔を上げる。
「夕奈が別のチームで判断するのは、嫌だと思う」
遥真は箸袋の端を押さえたまま、夕奈の返事を待った。
「食べながら聞いていいですか、と言える空気でもなくなりましたね」
航平が餃子の皿を見ながら言った。
「すみません」
「謝られると、余計に食べにくいです」
そう言いながら、航平は餃子を一つ取った。夕奈は手を伸ばせず、遥真は自分の炒飯を食べ続けている。
「二人だけじゃないです」
「何がですか」
「次のことを黙っていたのは、俺もです」
航平はテーブルの端に置いていたスマートフォンを取り、画面を開いた。黒い待機画面の中央に、仮置きの文字で「KOHEI」と出ている。
「契約が満了したあと、KOHEIの名前で個人活動をすることを考えています」
今度は夕奈と遥真が、航平を見る番だった。
「独立するんですか」
「まだ決めてません。会社に残る選択肢がなくなったわけでもないですし、外から話が来ているわけでもありません」
航平は試しに作った配信画面を切り替えた。話す内容を書く欄も、視聴者のコメントが流れる欄も、まだ空だった。
「ただ、名前を残すだけでは配信にならないので。自分一人で、どこまで作れるか試しています」
「いつから調べていたんですか」
「天城ミオさんと話したあとから、少しずつです。もう少し形になってから言おうと思ってました」
「私たちも、同じことをしていましたね」
「そうなんですよ。今日は誰も、『黙っていた』と相手だけを責められません」
「自由になりたいだけなら、もっと簡単に言えたんですけどね」
航平は、視聴者のいないコメント欄を指で隠した。
「誰にも見られなくなるのは、普通に怖いです」
夕奈は、何も言えなかった。
これまで航平は、夕奈と遥真の言葉をつなぎ、配信の台本を整え、記録を残し、二人が前へ出られる形を作ってきた。
その航平が、会社のチャンネルもスタッフもない場所で、自分の名前だけを出そうとしている。最初の画面を作っても、そこへ誰かが来る保証はなかった。
「二人に言えていない次の話があるのは、私だけだと思っていました」
夕奈は言った。
「二人に話したら、私が先にNOVA-3から離れようとしているように見えるんじゃないかって」
「俺は、逆です」
航平が答える。
「まだ決めていない話まで伝えたら、二人が考えることを増やすだけだと思ってました。だから、言わない方がいいって」
「では、どうして今、話したんですか」
「二人の話を聞いたあとで、俺だけ進行役みたいな顔をしている方が、ずるいと思ったからです」
航平は空のコメント欄を消さなかった。遥真が箸を止めたまま言う。
「俺は、言ったつもりだった」
「言われていました」
夕奈は答えた。
「私が、自分の欲しい長さに変えました」
「三人で続けたいと思っていたのに、私は次のゲームをやりたいです」
夕奈は、今度は二人から目をそらさなかった。
「それを認めたら、NOVA-3を大事にしていないことになる気がしていました」
「俺は、続けたいのか、終わったあと誰にも見られなくなるのが怖いだけなのか、まだ分かってません」
航平は答えた。
「でも、その怖さだけで会社に残っても、会社の方針も契約もなくなるわけじゃない。行きたい場所を諦めて続けたら、あとで誰かのせいにすると思います」
遥真は頷かなかった。
「俺は二人と続けたい。競技も捨てたくない」
夕奈は水のグラスを持ったまま、航平はスマートフォンに手を残し、遥真は止めていた箸を動かした。
「ハルさん、今の話のあとでも食べるんですね」
「冷める」
「俺が最初に言ったときだけ正しいみたいに返さないでください」
航平も箸を取り直した。夕奈が遅れて餃子へ手を伸ばすと、最後の一つを取ろうとした遥真の箸と当たった。
「夕奈が食べて」
「半分にします」
航平が空いた皿を指す。
「話は三つに割れましたけど、餃子は二つにしか割れませんよ」
夕奈は遥真と半分ずつにした。
「俺たち、世界でまだ一試合も勝ってないのに、先のことで揉めてるんですよ」
「代表にはなった」
遥真が言う。
「国内です。世界では、まだ何も取ってません」
航平は二人を見た。
「このまま終わったら、俺たちは会社の予定どおり活動を終えて、それぞれ次へ行くだけです」
「だったら、なおさらDWCで勝つしかないだろ」
航平の声から、いつもの丁寧さが外れていた。夕奈は遥真を見る。遥真は迷わず答えた。
「勝つ」
「はい」
夕奈は二人を見た。
「この三人で勝ってから、次を決めます」
遥真が言った。
「DWCまでは、NOVA-3で行く」
「その先の話は、世界を取ってからにしましょう」
航平は自分で作った配信画面を閉じた。
「次の画面は作りますけど」
「そこは続けるんですね」
「勝ってから作るとは言ってませんので」
夕奈は笑った。遥真は空になった餃子の皿を見て、もう一皿頼んだ。
◇
店を出ると、夜の空気が火照った頬に冷たかった。三人はマンションへ向かって並んで歩いた。
夕奈はTIERAXの話を蒸し返さなかった。祝福はまだできない。それでも、さっきより遥真の隣を歩きにくくはなかった。
駅前の信号が点滅し、航平が「まだ渡れます」と歩調を上げた。
「次でいい」
遥真は信号の手前で止まった。航平も立ち止まると、信号が赤へ変わった。
「間に合いませんでしたね」
夕奈は通知を閉じ、二人と並んで次の青を待った。




