第64話 話せないことと、隠すこと
翌日の講義で、夕奈は板書を一ページ分写し、強調箇所に線を引き、提出期限も端に書いた。内容だけが頭に残っていなかった。
『俺たちの次が、俺たちのいないところで、もう――』
航平の言葉が、ノートの余白までついてきた。夕奈は「守秘義務」と書きかけ、横線で消した。昨夜はそれを理由に、話せる気持ちまで伏せた。
航平が通話を抜けたあと、遥真だけが残った。
夕奈が名前を呼ぶと、彼は『いる』とだけ答えた。HALの表示が残っているうちに、夕奈の方から通話を閉じた。
講義終了を知らせる声が聞こえ、周囲の学生が一斉に荷物を片づけ始める。夕奈も遅れてノートを閉じた。
「沢渡さん」
隣から呼ばれ、顔を上げる。相沢千紘が、数枚の資料を差し出していた。
「この前の合同説明会でもらったやつ。ゲーム関係の企業だけ、予備があったから」
「ありがとう」
受け取った資料には、ゲーム開発会社や映像制作会社、配信運営会社の名前が並んでいた。
夕奈が説明会を断ったあと、千紘が送ってくれた資料よりも詳しい。職種ごとの業務内容や、夏季インターンから採用選考までの流れも載っている。
「沢渡さん、ゲーム会社に就職するつもりなの?」
夕奈は資料の「入社後の働き方」を親指で隠した。
自分はすでにゲーム会社の子会社と契約している。けれど、資料に並ぶ「入社後の働き方」と同じ場所にはいない。
「まだ決めてない」
千紘は頷いた。
「そうだよね。三年の夏で決めてる人の方が少ないか」
「千紘は決めてるの?」
「映像か配信関係がいいなとは思ってる。でも、実際に働くとなると違うかもしれないし」
千紘は資料の一社を指した。
「ここ、説明してくれた人は面白そうだった。でも繁忙期の話を聞いたら、ちょっと怖くなった」
「そこまで話してくれたんだ」
「いいところだけ聞いて決めるよりは助かるけどね」
千紘は次の講義があると言って教室を出ていった。ドアが閉まったあとで、夕奈は昨夜、航平へ返した「詳しい話はできません」を思い出した。
候補に入ったのは嬉しかった。その気持ちまで会社の秘密ではない。夕奈は三人のチャットを開いた。夜の練習開始まで、まだ三時間以上あった。
『昨日はすみません』と先に打つ。航平が「話せる範囲で大丈夫です」と返す画面が浮かび、送る前に消した。
『今日は、少し早く通話できますか』
送信して一分も経たず、遥真から返事が来た。
『できる』
航平からの返事は、十分ほどあとだった。
『分かりました』
夕奈は二つの返信を見比べた。KOHEIの返信を表示したまま、画面を閉じる指を止めた。
◇
夕奈は普段より三十分早く、通話を開いた。最初の入室音は、すぐに鳴った。画面にHALの表示が出る。
「お疲れさま」
遥真は挨拶のあとも、マイクを切らずに待った。
「お疲れさまです」
夕奈は返したが、その先を始めなかった。遥真のノイズゲートが一度だけ開き、閉じる。数分後、もう一度入室音が鳴った。
KOHEIの表示が加わる。
「お疲れさまです」
航平は挨拶だけをした。
「お疲れさまです」
夕奈はコントローラーを両手で裏返し、元へ戻した。
「昨日のことを話します」
二人は何も挟まない。
「会社から、私自身の次について話を聞きました。内容は言えません」
「二人の配置について聞いたわけではありません。二人がどこへ行くのか、私も知りません」
夕奈はコントローラーの背面へ爪を当て、二人の表示から目をそらさなかった。
航平の表示は動かなかった。
「私が何かを決めたわけでもありません」
「まだ決められないだけじゃないですか」
共有画面のカーソルが右端へ跳ねた。
「はい」
「会社が決めたら、そのあとで俺たちに伝わるんですよね」
夕奈は否定できなかった。
「そうなる可能性はあります」
夕奈は答えた。
「でも、昨日話せなかった理由は、それだけではありません」
夕奈は「でも」を一度言い損ねた。
「話せないことはあります。でも、二人に知られたくなかったこともありました」
「嬉しくない、とは言えません。……嬉しかったです」
「自分がやってきたことを、見てもらえた気がしたからです」
夕奈は机の上のコントローラーを見た。
「でも、それを二人に言ったら、ここが終わってもいいと思っているみたいに聞こえる気がしました」
「だから、会社の決まりで話せないことと、自分が言いたくなかったことを一緒にしました」
共有画面のカーソルが、予定表の空欄で点滅した。
「嬉しかったことを、責めているわけではありません」
航平が言った。
「でも、それを聞けたのは俺が怒って抜けたあとです。次も、俺が変だと気づいて質問するまで待つんですか」
「待っていました」
夕奈は否定しなかった。
「二人がどう受け取るか怖くて、自分から言えませんでした。すみません」
航平は予定表を閉じた。軽口は足さない。
「謝ってもらったから、昨日までと同じに戻れるとは言えません」
遥真が、そこで初めて口を開いた。
「今日やることは決まってる」
「試合はできます」
航平は答えた。
「それと、元に戻ったことは別です」
夕奈はスクリム用のマップを開いた。
「次も、すべて話せるとは約束できません。でも、自分がどう思ったかを隠したときは、隠したと言います」
「それも、今は信じると約束しません」
「はい」
三人は和解の言葉を決めないまま、予定されていたスクリムへ入った。
◇
予定されていたスクリムが始まった。
二試合目の中盤、NOVA-3はラウンド3の収縮を前に、工業区画の外側を移動していた。
正面の倉庫には一部隊がいる。
遥真なら撃ち合える距離だったが、NOVA-3の物資は多くない。航平のシールドパックは四つ、夕奈は三つ。長引けば、次の移動で回復が足りなくなる。
左へ戻れば、一度エリアの外側へ膨らむことになる。ただし収縮が始まれば、倉庫の部隊は正面の高所から撃たれる。その間に、裏の建物へ回れる可能性があった。
夕奈は決めた。
「戦いません。全員、左へ戻ってください」
「戻る」
遥真のキャラクターが、すぐに射線から外れた。
航平は動かなかった。ほんの一拍だった。倉庫の窓から弾が飛んでくる。
「航平さん、下がって」
「はい」
航平が動き始めたときには、シールドを削られていた。
夕奈は理由を重ねなかった。
「左です。三人で戻ります」
航平が足元にスモークを入れる。
遥真が倉庫の窓へ短く撃ち返し、敵が顔を出せない間に二人と合流した。
三人は戦わず、来た道を戻る。
遮蔽へ入った航平が、シールドパックを使った。
二秒半後、減っていた耐久が二十五戻る。
「パック、残り三です」
「私、一つ渡せます」
「まだ大丈夫です」
パック受け渡しの操作は入らず、航平は先に次の建物へピンを置いた。
収縮が始まると、予想していた通り、倉庫の部隊が高所から撃たれた。
応戦する銃声を聞きながら、NOVA-3は建物の裏へ回る。
入口は空いていた。
「入ります。二階まで取ります」
今度は二人が同時に動いた。
撃破はゼロ。使わずに済んだはずのパックを一つ失ったが、三人とも生きたまま、次の収縮を待てる建物へ入った。
試合は終盤まで続き、最後は二部隊に挟まれて五位。夕奈は録画のブックマークを、航平が遅れた場面だけでなく、終盤の挟撃にも付けた。
結果画面のまま、航平は準備完了を押さなかった。
「二試合終わったので、今日はここで抜けます」
「録画は、今見ませんか」
夕奈が尋ねる。
「ブックマークを送ってください。今日は見ません」
「明日は来る?」
遥真の問いに、航平は少し間を置いた。
「予定には入っています」
前夜と同じ答えだった。航平が通話を抜ける。夕奈は開きかけた次のマッチ検索を閉じた。
「今の聞き方、俺も昨日した」
遥真が言う。
夕奈は航平へ送る録画の時刻を探した。ブックマークは二つあり、どちらから送るか決められないうちに、遥真が「両方」と言った。




