第63話 先に知らされた人
扉が閉まると、テストルームに残ったのは夕奈と玲奈だけになった。
正面のモニターには、アークラインの勝利画面ではなく、結成以来の活動記録が表示されていた。東京ゲームショウ、NOVA3Radio、公式スクリム、外部企画。今日より前の日付が並んでいる。
ついさっきまで、遥真と航平もそこにいた。二人の前で確認されたのは、今日の得点につながった判断と、最後に敵を一人見失った判断だった。
玲奈は二人の足音が聞こえなくなるまで待った。夕奈には、その待ち方だけで、二人に聞かせられない話だと分かった。
「まだ、決まった話ではありません」
夕奈は膝の上で手を重ねた。
「はい」
「アークラインの立ち上げから活動する人を、社内で選んでいます」
玲奈が結成以来の記録を指で送る。東京ゲームショウで言葉を失った日、NOVA3Radioで初めて台本から外れた日、三人で入った公式スクリム。夕奈には、一つずつ別の失敗や手触りがある。画面の上では、すべて同じ幅の行だった。
「その候補に、沢渡さんの名前があります。今日より前からです」
「候補」の二文字で、膝の上に重ねた手がずれた。
「私が、ですか」
聞き返すと、喜びが先に来た。胸の中が浮き、すぐに二つの空いた椅子へ引かれた。
「今日、勝ったからですか」
「それだけではありません」
玲奈は三戦目を小さく再生した。夕奈がコアを渡す。少しあとで、敵を一人見失う。
「今日のことも見ます。よかったことも、危なかったことも」
どちらがどれだけ重いのか、玲奈は言わなかった。夕奈はもう一度、閉じた扉へ顔を向けた。口元が緩んでいたことに気づき、慌てて戻す。
二人へ知らせたくて、夕奈の手が上着のポケットへ動いた。スマートフォンは入口で預けている。手元にあったとしても、送れる内容ではなかった。
「ハルと航平さんは」
玲奈の表情が止まった。
「それは、私からは言えません」
「二人には、いつ」
「まだ分かりません」
夕奈は膝の上で手を組み直した。
「では、今日、二人が聞いても」
「ご自身が候補だとは話さないでください」
理由を聞く前に、夕奈にも未確定という言葉が浮かんだ。候補から外れるかもしれない。他の誰かの名前も動いているかもしれない。分かるからこそ、納得したとは言えなかった。
「いつまでですか」
「私にも、まだ日付は出せません」
玲奈の返事はそこで途切れた。二人が会議室を出された理由を、当の二人へ説明できない。
「二人のことも、私だけが先に知っているんですか」
「二人の行き先は、何もお伝えしていません」
そこだけなら言える。夕奈は口の中で試した。では何を聞いたのか、と続いた瞬間に黙る自分まで見えた。
玲奈が一枚の書類を差し出した。話せないことを確認するための紙だった。契約を始めた日にも、同じ会社の会議室で本名を書いた。会社ロゴも署名欄の位置も、あの日とよく似ている。
「沢」の最初の一画だけが濃くなった。夕奈がペンを止めている間、玲奈は急かさなかった。夕奈は残りを続けて沢渡夕奈と記す。書き終えても、自分の名前が誰か別の人のものに見えた。
玲奈が紙を引き取る。
「喜んではいけない話ではありません」
夕奈は返事ができなかった。喜んだ直後に、その顔を二人へ隠さなければならない。
◇
帰りのエレベーターで、夕奈は「二人の配置は聞いていません」と小さく口にした。会社の報告文のように聞こえた。「聞いたのは私の――」まで続けたところで到着音が鳴り、扉が開いた。
会社を出ると、遥真と航平の姿はもうなかった。三人のチャットには、航平から一件だけ届いていた。
『先に戻ります。夜は予定どおりで大丈夫です』
句点のあとには、武器の感触も役割交代の話も続いていなかった。
夕奈は返信欄を開いた。
『確認は終わりました』
そこまで打って、消す。
航平なら「何の確認ですか」と聞く。遥真は聞かないかもしれない。どちらの返事も想像できて、夕奈は入力欄を空に戻した。
夕奈は練習開始の時刻を入力した。
『分かりました。二十一時からお願いします』
遥真の既読が先につき、少し遅れて航平の既読も並んだ。返事は来なかった。
◇
二十一時になると、三人はいつもの通話へ入った。
「こんばんは」
夕奈が言うと、航平が返す。
「こんばんは。今日は国内予選用の移動確認からやります。前に見つけた高架下の道、反対側から入る形も試します」
「分かりました」
「入れる」
遥真は返事のあと、すぐ準備完了を押した。夕奈は書類へ署名した右手を机の下で握った。マッチが始まる。
序盤は大きく崩れなかった。遥真が敵を削り、航平が周辺部隊の銃声を拾い、夕奈が戦うか離れるかを決める。
報告の合間に「候補」の二文字が浮かび、そのたび夕奈の右手に力が入った。
終盤、ラウンド4の収縮が始まった。
三人は低い倉庫の裏にいる。エリアに入るには、左の斜面を戻るか、正面の建物を抜けなければならない。
正面には敵がいる。左の建物には、航平が直前に撃ち込んだパルスセンサーの反応がなかった。二度の走査はもう終わっている。左は今なら空いているが、数秒後には別部隊の射線が通る。
先に左へ戻れば、収縮後も空いている建物へ入れる。センサーが示したのは数秒前の輪郭だけだと分かっていても、夕奈には、そう見えた。
「左へ戻ります」
夕奈はキャラクターを倉庫裏で止めたまま、説明を続けた。
「左なら今は射線を切れます。建物もまだ空いている可能性があって、右の部隊は正面を見ているので、ここで撃ち合うより――」
「行くんですか、待つんですか」
航平の声が割って入った。
「行きます。左へ――」
「建物、入られた」
遥真が言った。
センサーの二度目の走査が消えたあとで、別部隊が斜面から滑り込んでいた。
進路の先で、空いていた建物に別部隊が入る。夕奈が説明している間に、使える場所が一つ消えた。
「正面、来る」
遥真が敵に射線を通す。
一人を大きく削り、三人が戻る時間を作った。航平がスモークを置き、夕奈も倉庫の反対側へ下がる。しかし、入りたかった建物はもう使えない。
三人はエリアの端を移動しながら、左右の部隊から削られた。航平のシールドパックがなくなり、夕奈もフルシールドパックを一つ使う。遥真が一人を割っても、詰める余裕はなかった。
次の収縮が始まる前に、正面から来た部隊に止められた。
夕奈が先にダウンし、航平も起こせる位置まで戻れない。遥真が一人を落としたが、残り二人と横から撃つ部隊に挟まれ、NOVA-3は全滅した。
結果画面の「次へ」に、誰の選択も入らなかった。
「左、最初は空いてましたよね」
航平は結果画面を閉じずに言った。
「はい」
「じゃあ、どうして行かなかったんですか」
夕奈は答えようとした。北から射線が通る可能性、正面の部隊、センサーが消えた時刻。さっき口にした説明がもう一度並び、どれも今の問いへの答えにはならなかった。
「決めきれませんでした」
「今日、何かありました?」
航平が尋ねる。机の端の大学ノートには、提出前の課題名が残っている。「課題があります」と言えば、ここで終えられる。夕奈はノートから手を引いた。
「今日、会社から話がありました」
夕奈は言った。
「内容は、今は伝えられません」
航平の共有画面で、録画の再生カーソルだけが点滅した。
「アークラインのことですか」
夕奈は黙った。
「夕奈さんだけ、残されてましたよね」
「はい」
「俺たちの配置について、何か聞いたんですか」
「二人のことは聞いていません」が喉まで出た。次を問われるのが怖くて、夕奈はその一文も閉じた。
「詳しい話はできません」
航平は共有画面を移動確認用の表へ切り替えた。今日の日付の下に、空欄が並んでいる。
「分かりました」
航平はそこで一度、息を吸った。
「じゃあ、予定だけ作ります」
「航平さん」
「空いた欄を埋めるのは慣れているので」
「また、俺だけあとなんですか」
航平の声が途中で細くなり、言い直した。
「いや、違う。何を待ってるのかも分からないまま、俺が質問を作るんですか」
航平は机の上のシャープペンを拾い、芯を一度だけ出した。クロスサイトの選考から落ち、別タイトルの席をあとから示された話をした日には笑っていた。今日は笑わない。
「ハルにはTIERAXの話が来た。夕奈さんにも、今日なにか来た」
航平は空欄を指した。
「ここだけじゃないです。俺が空いてるのか、三人がもう空けられてるのか、それも分からない」
「私は、二人に黙って別の道へ行くと決めたわけではありません」
「でも、会社ではもう決まり始めてるんですよね」
夕奈はミュートキーの縁を爪で押した。点灯はさせない。航平は「俺たち」を二度とも強く発音した。
「俺たちの次が、俺たちのいないところで、もう――」
航平は最後まで言えず、机を一度押した。
「そういう話なのかを聞いてます」
「私は、二人の行き先を聞いていません」
「じゃあ、夕奈さん自身の話ですか」
夕奈の親指が、今度はミュートキーの中央へ触れた。押さないまま答えた。
「そこから先は、話せません」
航平は出した芯を指で戻し、何も書かなかった。
「俺たちのことを聞いてないって、最初に言えましたよね」
夕奈は握った指を解いた。
「……はい」
「それまで言えないことにしたのも、会社ですか」
「違います」
「今日は抜けます」
「航平さん」
「お疲れさまでした」
航平が通話を抜ける音がした。遥真は何も言わない。
「ハル」
夕奈は呼んだ。
「いる」
夕奈は、声を出さずに「嬉しかった」と口を動かした。指はミュートキーに触れたままで、マイクには何も入らなかった。
「今日は切ります」
「分かった」
夕奈は通話を切った。
遥真は航平へ個別の通話をかけた。一度目はつながらない。二度目で、KOHEIの表示が点いた。
「何ですか」
「明日、来る?」
「予定には入っています」
「予定じゃなくて、航平が」
航平は返事をしなかった。遥真は、自分がTIERAXの話をした夜には航平が期限を尋ねたことを思い出した。
「俺のときと同じじゃない」
「分かってます」
「分かってる声じゃない」
「なら、どういう声ならいいんですか」
遥真には答えられなかった。
「でも、明日は航平に来てほしい」
「それ、夕奈さんにも言いましたか」
「まだ」
「俺が先なんですか」
「今は」
航平が息を吐いた。
「順番、下手ですね」
「うん」
「明日は行きます。予定だからじゃなくて、二人に文句を言うために」
「分かった」
「それまで、勝手に三人の次を決めないでください」
「決めない」




