第61話 終了予定
次年度活動方針面談の日、夕奈は品川の会議室へ向かう電車の中で、先週のスクリムマップを開いていた。
高架下から斜面を抜け、建物の裏へ入る細い経路。画面には、夕奈が引いた赤い線と、航平が追加した注意書きが残っている。
――ラウンド3以降は、北側の高所から射線が通る可能性あり。
警告文はまだ仮説で、予選で使えるとは限らない。夕奈は赤い経路を一度拡大してから、会社から届いた面談資料を開いた。
表紙には、『NOVA-3 次年度活動方針』とだけ書かれている。詳しい内容は会議で説明するとあり、添付資料は開けないようになっていた。
面談資料には、DWCの文字はなかった。
◇
会議室には、夕奈が着いたときには遥真と航平が揃っていた。
航平は配布された資料をまだ開かず、表紙の年度だけを確認している。遥真は窓際の席に座り、スマートフォンでDWC国内予選の日程を見ていた。
「おはようございます」
「おはようございます。夕奈さん、先週の道、録画でも見ました?」
「見ました。北側の高所から撃たれたら、途中で止まれません」
「なので、候補は候補です。万能の秘密通路ではありません」
「分かっています」
「ハルさんは、もう使う気でしたけど」
遥真が画面から顔を上げる。
「通れるなら使う」
「通れない条件を今から確認する話なんですよ」
「通れなかったら使わない」
「その判断をするために録画を見るんです」
航平はそう言いながら、次の録画時刻を記入した。夕奈は面談予定の通知を閉じた。
玲奈が会議室へ入ってきた。いつもなら席へ着く前に端末を開くのに、今日は閉じたまま立っている。
「お待たせしました」
三人が席に着いても、正面のモニターは暗かった。
「実績の確認から始める予定でした」
玲奈は言った。
「でも、数字を先に見せると、伝える順番を間違える気がします」
航平が資料表紙の角を親指で押した。
「悪い数字なんですか」
「いいえ。配信もイベントも、競技成績も計画を上回っています」
玲奈はそこで言葉を止めた。夕奈は褒められた気がしなかった。遥真もスマートフォンから手を離し、暗いモニターを見る。
「失敗したから呼ばれたわけではありません。それだけは、先に言わせてください」
「それだけ、ですか」
航平の指の下で、表紙がわずかに鳴った。
玲奈はようやく端末を開いた。暗かった画面に、夕奈がまだ見たことのないロゴが現れる。
アークライン。
「次年度、会社はこのタイトルを大きく展開します」
玲奈が説明を続ける。番組、イベント、契約プレイヤー。夕奈の知らない名前がいくつか通り過ぎた。
「デルタフィールドは」
遥真が途中で聞いた。
「大会も配信も、なくなりません」
その返事なら、安心していいはずだった。誰も息を抜かなかった。
「俺たちは」
今度は航平だった。
玲奈は画面を切り替えようとして、やめた。端末を伏せる。
「NOVA-3の三人が、デルタフィールド専任で活動するのは、DWCシーズンまでです」
夕奈は、画面ではなく玲奈の口元を見た。
「今、何と」
「DWCのあと、今と同じ形の活動は続きません」
資料のどこにも線は引かれていない。それでも夕奈には、自分たちの名前の横へ「終了」の二文字が置かれたように見えた。
「別のゲームへ移るんですか」
航平は早口になった。
「三人で、ですか。NOVA-3の名前は残るんですか。それとも――」
「航平さん」
玲奈に止められ、航平は口を閉じた。押さえていた資料の端だけが折れ、白い筋が残る。
「まだ、そこまで決まっていません」
「終わる方だけ決まった」
遥真が言った。
玲奈はすぐに返事をしなかった。
「三人一緒とは限らないんですね」
夕奈が聞く。
「約束はできません」
「名前も?」
「それもです」
二つの返事は短かった。夕奈は、詳しく聞けば聞くほど、自分たちの形が減っていく気がした。航平はクロスサイトの話を持ち出さず、白い筋を爪でこすっている。
「DWCは?」
遥真が聞いた。
「最後まで支援します」
「世界へ行っても」
「行ってもです」
「その次の日は」
玲奈の呼吸が一度止まった。
「次の日に、すべてを取り上げるわけではありません。ただ、同じ三人、同じタイトルの計画は、そこで切れます」
遥真はDWCの日程を表示したスマートフォンに指を置いた。国内予選、代表決定、世界大会。どこまで進んでも、その先を指で送れない。遥真は画面を伏せた。
「失敗したからではないんですよね」
夕奈はもう一度聞いた。さっきと同じ質問だと分かっていた。
「違います」
玲奈の返事も同じだった。
「だったら、どうして終わるんですか」
玲奈は答えかけ、伏せた端末へ目を落とした。会社の重点、新作、次の展開。さっき通り過ぎた言葉のどれを返されても、夕奈が聞きたい答えにはならない。
「すみません」
玲奈が言った。
夕奈は、その謝罪を聞くつもりではなかった。
机の下で、膝が航平の椅子に触れた。いつもなら「狭いですね」と引くはずの航平が動かない。遥真のスマートフォンも、画面を伏せたままだった。
三人でグリムマスターへ入った夜は、順位が確定するまで誰も喋れなかった。あの沈黙には、同じ結果を待っている感触があった。今は三人とも同じ部屋にいるのに、誰がどこへ出されるのか、一人ずつ違う扉の前へ立たされたようだった。
夕奈は航平の椅子から膝を離さなかった。触れていることに、航平が気づいているかは分からない。
「DWCで勝ったら」
夕奈は言った。
日本代表になり、世界大会で結果を出せば。その先を言えば、さっきの終わりを取り消せる気がした。
玲奈は夕奈の顔を見た。
「選べるものは増えます」
「私たち三人で続けることも?」
玲奈は答えなかった。その沈黙で、夕奈にも分かった。
「優勝してもですか」
「……はい」
「勝てば」
夕奈はそこまで言って、二人を見た。遥真は続きを引き取らなかった。航平も、勝つための条件を数え始めなかった。
「私たちが続けたいかどうかは、関係ないんですか」
玲奈が答える前に、夕奈は続けた。
「じゃあ、私たちは次に何を選ばされるんですか」
返答を待つ間、「選ばされる」の語尾が、夕奈自身にもきつく聞こえた。
玲奈は資料を閉じなかった。
「関係はあります」
玲奈は言ったが、夕奈の目をまっすぐ見続けられなかった。
「希望は聞きます。私から会社にも――」
「聞いたあと、同じ答えになるかもしれない」
航平が、資料を見たまま言った。
「俺たちが決めた目標なのに、終わる時期はもう決まってるんですね」
玲奈は反論しなかった。
航平は資料に残った白い筋を爪でなぞった。笑わなかった。遥真も「じゃあ勝てばいい」とは言わず、DWCの日程を閉じた。
玲奈が端末に触れると、アークラインのロゴが消えた。
夕奈は暗くなったモニターを見た。国内予選はまだ始まっていない。世界へ行けるかも分からない。その先の終わりだけが、先に部屋へ来ていた。
玲奈は黒い表紙の薄いファイルを三人の前へ置いた。
「今日は答えを出さなくていいです。来週、まずこのゲームを触ってもらいます」
夕奈は表紙を見た。黒い背景に、細い白線で描かれた都市と、四人のキャラクターの影。その上に、まだ一般公開されていないタイトルが記されている。
『アークライン・非公開プレイテスト』
夕奈はファイルを数センチ、玲奈の側へ押し戻した。新しいタイトルの白い線が、指先から逃げる。
「これは、三人で受けるんですか」
航平が尋ねた。
「今回のテストは三人です」
「その先も、三人ですか」
玲奈は首を横に振った。
「それは、まだ約束できません」
遥真が自分の一冊を取った。航平は白い筋のついた資料の上に、新しいファイルを重ねる。夕奈も、押し戻した分を引き寄せた。
面談が終わっても、三人はすぐに立てなかった。
「今日の練習」
遥真が言った。
航平は折れた資料の端を指で伸ばした。
「二十一時から入ってます」
「やる?」
夕奈は、先週引いた赤い経路を思い出した。北側から射線が通れば使えない、まだ仮説の道。今朝は続きを試すつもりだった。
「やります」
声にすると、意地なのか、いつもどおりに戻りたいだけなのか、自分でも分からなかった。
「先週の道から?」
航平がようやく聞いた。
「はい。北が通る場合と、通らない場合を」
「通れたら使う」
遥真が言う。
「だから、その前に条件を見るんです」
航平の返しはさっきと同じだったが、声の最後が少しかすれた。夕奈は笑えなかった。それでも、会議が始まる前に止まった会話へ、三人で戻れた気がした。
遥真が先に立つ。航平も二冊の資料を重ねて抱えた。夕奈は最後に席を離れ、暗いモニターへ一度だけ頭を下げそうになった。相手は機械なのに、今日までのNOVA-3がそこに残っているように見えた。
廊下へ出ると、遥真がいつもの速さで先を歩いた。航平は夕奈の隣にいたが、練習の話を始めなかった。三人の靴音は揃わないまま、同じエレベーターへ向かった。




