第6話 同じマンション別の階
顔合わせ翌日の夕方、夕奈は西大井の部屋で会社貸与のPCを起動した。白い1Kの机に、モニター、マイク、ヘッドセット、確認用カメラが増え、そこだけ会社の一部のようだった。
夕奈は椅子に座り、画面の向こうの配信担当スタッフと通話をつないだ。
マイク音量、ノイズ、アバターの位置、待機画面、配信遅延。敵の足音は聞き分けても、椅子のきしみまで注意されたことはない。配信は、思っていたより細かかった。
ゲーム映像の右下でYUNAが動く。会議室で見た顔が自室のモニターへ映ると、借り物だった形が生活へ入り込んできた。
開始挨拶を一度読むと、緊張で少し早口になっていると言われた。本番では半拍ゆっくりでいい。コメントの反応を待たず、間を埋めようとしなくていい。夕奈は頷き、その半拍まで練習なのだと覚えた。
一時間ほどで確認が終わった。PCを閉じるとYUNAもスタッフの声も消え、機材だけが残った。
夕奈は冷蔵庫を開けた。中には、昨日買った水と、コンビニのヨーグルトしかなかった。
「……ご飯、買わな」
夕奈は財布とスマホを持ち、部屋を出た。西大井の夕方は、品川のビル街とはまるで違っていた。
駅前では仕事帰りの人が歩き、スーパーから揚げ物の匂いが流れていた。夕奈は弁当売り場の前で立ち止まる。
焼き魚弁当。唐揚げ弁当。親子丼。サラダ。カップ味噌汁。夕奈が迷っていると、横から声がした。
「その時間帯の焼き魚、意外と当たりです」
振り向くと、航平がいた。
手には弁当と、ペットボトルのお茶。それから、値引きシールの貼られた惣菜が一つ。
「航平さん」
「こんばんは。生活圏、さっそく被りましたね」
航平は軽く笑った。Tシャツに薄いパーカー。会議室より話しやすく見えた。
夕奈は焼き魚弁当を見た。
「これ、おいしいんですか」
「たぶん。俺も今日で三回目なんで、まだ統計としては弱いですけど」
「三回食べたら、もうだいぶ信じてません?」
「信じたいんです。遅い時間だと、選択肢がだいたい減るので」
夕奈は、会議室より自然に笑えた。
「配信環境確認、終わりました?」
航平が聞いた。
「はい。マイクとアバターと、待機画面と終了画面を見ました」
「あれ、地味に緊張しません?」
「します。ゲームじゃないのに、変に汗かきました」
「俺もです。椅子の音が入るって言われました。今日から俺は、椅子と和解しないといけません」
「椅子と」
「公式契約プレイヤー、まず家具に負けるところから始まるとは思わなかったです」
夕奈は今度こそ、はっきり笑った。
「ハルさんは、もう確認終わったんですかね」
「さあ。あの人、問題なさそうですけどね。マイクに向かって余計なこと言わなそうだし」
「確かに」
「ただ、無言すぎて音声確認が進まない可能性はあります」
夕奈は会議室の遥真を思い出した。静かだが、人を無視はしない。ただし、こちらの判断を待ち続ける相手でもなかった。
夕奈は焼き魚弁当を手に取った。
「じゃあ、今日はこれにします」
「ようこそ、焼き魚側へ」
「その言い方だと、何か派閥みたいですね」
「唐揚げ派も強いですよ。初心者はだいたい唐揚げに行きます」
「スーパーの弁当で初心者扱いされると思いませんでした」
航平は笑いながら、惣菜を一つ追加でかごに入れた。
「でも、こういうの大事ですよ。練習して、配信して、打ち合わせして、夜に戻ってきたら、食べるものがないと普通に詰みます」
「ゲームより生活が先に詰みそうです」
「それです。ランクより先に冷蔵庫管理を覚えないといけない」
冷蔵庫の水とヨーグルトを思い出し、夕奈は何も言い返せなかった。会計を済ませ、二人でスーパーを出る。
外はもう暗くなり、駅前の看板が一つずつ明るくなっていた。
航平が歩きながら言った。
「この辺、品川と近いのに、ちゃんと生活って感じしますよね」
「分かります。最初、東京ってもっとずっと派手なのかと思ってました」
「俺も来たとき思いました。意外と普通だなって。でも、その普通の場所に会社の予定が毎日入ってくるんで、だんだん不思議になります」
航平の声から、軽口が消えていた。
「近い方が、チームとしては便利なんですよね」
夕奈は言った。自分でも、少し探るような声になったと思った。
「練習のあとにすぐ話せますし、何かあったときも集まりやすいですし」
「便利だよ。逃げ場も近いけどな」
航平は笑ったが、夕奈は笑いきれなかった。「逃げ場」だけが、夜の駅前に冷たく残った。
「航平さんは、逃げたいんですか」
踏み込みすぎたかと思ったが、航平は怒らず、答えるまでに間を置いた。
「逃げたいっていうか、逃げ道がある方が落ち着くタイプです」
「それ、同じじゃないんですか」
「少し違います。逃げる予定があるわけじゃない。でも、逃げ道がないって思うと、余計なところで息が詰まるんです」
「分かる気がします」
夕奈が言うと、航平は少しだけ目を細めた。
「ユウナさんは、逃げなさそうですけどね」
「そんなことないです」
「そうですか」
「普通に逃げたい時あります。初配信の挨拶、今日読んだだけで恥ずかしかったですし」
「こんゆな、ですか」
夕奈は足を止めかけた。
「なんで知ってるんですか」
「俺も資料見ました。チーム内の基本挨拶一覧にありました」
「一覧に」
「ありました。俺のもありましたよ。胃がどうこう書いてありました」
「それ、航平さん用なんですか」
「たぶん俺用です。会社に胃を把握されてる」
夕奈は吹き出した。からかわれると、「こんゆな」が借り物ではなくなっていく。
マンションの前まで来ると、入口近くに人影があった。遥真だった。
片耳だけイヤホンを外し、コンビニの袋を持っている。
「お疲れさまです」
夕奈が声をかけると、遥真は少しだけこちらを見た。
「お疲れさま」
それから、航平の手元の袋を見た。
「買い物?」
「はい。ユウナさんを焼き魚派に勧誘してました」
「焼き魚派」
遥真は真面目に繰り返した。航平が少しだけ困ったように笑う。
「そこ、真面目に受け取られると、こっちが変な人みたいになるんですよね」
「違うの?」
「違うと言い切れるほど自信はないです」
夕奈はまた笑った。遥真も、二人の会話から離れなかった。
「ハルさんも、配信環境確認終わりました?」
夕奈が聞くと、遥真は頷いた。
「終わった」
「問題なかったですか」
「声が小さいって言われた」
航平がすぐに反応した。
「でしょうね」
「でしょうね?」
「いえ、納得感があっただけです」
遥真は少し考えるように黙ったあと、言った。
「本番は、少し大きく話す」
「それがいいと思います」
夕奈は頷いた。
三人でエントランスに入る。
オートロックの電子音が鳴る。扉が開く。中の空気は、外より少しだけ涼しかった。
同じ会社に用意されたマンションでも、カードキーと部屋は別々だ。エレベーター前の数十秒には、埋める台本がなかった。
扉が開き、三人で乗り込む。
航平が先に階数ボタンを押した。夕奈も自分の階を押す。遥真も、別の階を押した。
三つの階数ボタンが光る。近いのに、まだ遠い。エレベーターが上がり始めると、遥真が言った。
「明日、初ランクですよね」
「はい。配信なしで、三人だけの確認です」
夕奈は答えた。
遥真は少しだけ間を置いた。
「判断、早めに言ってください」
まっすぐな言葉に、夕奈は返事を詰まらせた。
「遅いと、先に撃つかもしれない」
航平が小さく息を吐く。
「予告してくれるだけ、かなり親切ですね」
遥真は航平を見た。
「そう?」
「はい。何も言わずに撃たれるより、胃の準備ができます」
「胃」
「俺の重要部位です」
遥真は少しだけ不思議そうな顔をした。夕奈は二人のやり取りを見ながら、明日の試合を想像した。
夕奈は弁当の袋を握った。
「分かりました。早めに言います。でも、私もまだ二人の動きを見ないと分からないところがあるので」
「うん」
「明日は、合わせるための確認にしたいです」
遥真は短く頷いた。
「分かった」
返事はあった。エレベーターが航平の階で止まった。
「じゃあ、俺はここで。焼き魚派の今後に期待してます」
「まだ入った覚えはないです」
「初回購入はもう仮入会です」
航平は軽く手を上げて降りた。扉が閉まる。エレベーターの中には、夕奈と遥真だけが残った。
急に静かになった。夕奈は明日のことを話そうとして、言葉を選びきれなかった。
迷っているうちに、遥真が先に言った。
「アバター、見ました」
「え?」
「YUNAの」
夕奈は思わず遥真を見た。
「どう、でしたか」
聞いてから、変な質問だったと思った。遥真は少し考えた。
「分かりやすい」
夕奈は思わず聞き返した。
「分かりやすい?」
「見つけやすいと思う」
かわいいでも似合うでもなく、「分かりやすい」「見つけやすい」。遥真らしい感想だった。
夕奈は少しだけ笑った。
「ありがとうございます。たぶん、見つけてもらうための顔なので」
「うん」
エレベーターが夕奈の階で止まった。扉が開く。夕奈は降りる前に、軽く頭を下げた。
「明日、よろしくお願いします」
「よろしく」
遥真の返事は短く、目はそらさなかった。夕奈は廊下に出た。扉が閉まる。
エレベーターは、遥真の階へ上がっていった。
部屋に戻ると、夕奈は弁当をテーブルに置き、自分のノートパソコンを開いた。会社貸与のPCと並べると、広いと思っていた机が急に狭くなる。片方には明日の初ランク、もう片方には大学の学習支援システムが表示された。
翌朝は一限のメディア表現基礎。講義資料の未読表示が一件あり、基礎演習のグループページには、明日の二十時までに確認する資料が共有されていた。二十一時からはNOVA-3の初ランクが入っている。
夕奈は焼き魚弁当の蓋を開け、資料を読み始めた。食べながら済ませれば早いと思ったが、一ページ戻るたびに箸が止まった。大学の文章へコメントを書き込み、誤字を直し、共有ボタンを押す頃には、焼き魚は少し冷めていた。
翌朝六時二十分にアラームを設定し、学生証とノートを鞄へ入れる。夕奈はスマホを伏せ、コントローラーを手に取った。同じマンションの別の階には、明日同じロビーへ入る二人がいる。
ゲームを起動すると、暗い部屋に短い起動音が鳴った。




