第55話 中華料理店、二度目
西大井駅を出ると、夜の空気が思ったより冷たかった。
夕奈はコートのポケットに手を入れ、航平から送られた地図を開いた。道順を確かめる必要はない。以前、一度だけ三人で来た店だった。
見られる仕事だから、手を抜くのか。選手として、本気で勝つのか。
あの夜、夕奈は冷めた餃子を前にして、自分が勝つことを怖がった理由を初めて話した。
今夜話さなければならないのは、もっと先のことだった。
店の扉を開けると、油と香辛料の匂いが流れてきた。奥の四人掛けのテーブルには、すでに遥真と航平が座っている。前回と同じ席だった。
「お疲れさまです」
夕奈が声をかけると、航平が片手を上げた。
「お疲れさまです。今日は戦術的に後入りしました」
「集合時間には間に合ったんですか」
「ハルさんより一分遅かっただけです」
「それを後入りとは言いません」
夕奈は航平の隣に座った。正面には遥真がいる。
「こんばんは」
遥真が言った。
「こんばんは」
夕奈は遥真の顔を見ずに返した。航平がメニューを中央に置く。
「先に注文しましょう。空腹で進路を決めると、あとで全部食欲のせいにしたくなるので」
三人は前回とほとんど同じものを頼んだ。夕奈は五目麺、遥真と航平は炒飯。それから餃子を二皿。
「二皿ですか」
「今日は冷える前に話してもらいます。前回は結論が出る頃には、餃子が被害者になってましたから」
「話しながら食べればいいでしょう」
「それができる空気なら、俺がこの店を指定してません」
航平はメニューを閉じ、二人の前に置いた。
遥真は水のグラスに触れたまま、何も言わない。夕奈も、自分から始めなければならないと思いながら、最初の言葉を決められなかった。
先ほどのスクリムで、自分が指示を遅らせた理由は話した。遥真を失いたくなかった。けれど、試合が終わったあとにどうしたいのかまでは、まだ言えていない。
航平が二人を交互に見た。
「俺から一つ、言っていいですか」
「はい」
夕奈が答えると、航平は箸袋の端を揃えたまま言った。
「二人とも、相手のためみたいな顔で、相手の答えまで決めてませんか」
夕奈は思わず眉を寄せた。
「私は、ハルの将来を邪魔したくないだけです」
「それで、行ってほしくないとは言わない」
「言ったら、困らせるでしょう」
遥真が静かに口を開いた。
「夕奈が止めないなら、無理に残るとは言えない」
夕奈は、遥真の手元にある水のグラスを見た。
「それは、私に決めろということですか」
「違う。行くかどうかは俺が決める」
「だったら――」
「どっちでもいいみたいな顔するなよ」
そこへ航平が割って入った。箸を置き、最初の「ハル」だけ、さんを付けなかった。
「ハルがどこで勝ちたいかの話だろ。夕奈さんが邪魔になるかどうかでも、ハルさんが遠慮するかどうかでもない」
夕奈は返せなかった。
航平はテーブルの端に置いたスマートフォンを伏せ、そのまま続けた。
「それに、俺も三人でグリムマスターを目指すって言った側です。二人だけで、俺の目標まで終わったことにしないでください」
「ごめんなさい」
夕奈が言うと、航平は首を振った。
「謝って終わる話じゃないです。俺も聞きます」
航平は遥真を見た。
「TIERAXへ行きたいんですか」
遥真は水のグラスを置いた。厨房で鍋を振る音が響き、隣の席では仕事帰りらしい二人組がビールを追加していた。
「行きたいと思った」
「競技だけ考えられる。判断が返ってくるのも速い。強い相手と毎日やれる」
「私を待つより、ですよね」
夕奈が言うと、遥真は水のグラスから手を離した。
「速かった」
遥真は夕奈から目をそらさなかった。
「撃った場面も、待った場面も、全部競技の結果で見てもらえる。あそこなら、もっと強くなれると思った」
夕奈は水のグラスへ手を伸ばし、途中で止めた。
TIERAXは、遥真が以前から求めていた場所だった。配信も商品紹介もなく、競技のためだけに一日を使える。そこで通用する力があると、佐伯にも認められている。
夕奈が応援すべき未来に見えた。
「私は……」
夕奈は「すごい」「応援したい」と言いかけ、どちらも口にしなかった。遥真は水のグラスを見たまま待った。
「行ってほしくないと言ったら、ハルの邪魔になると思いました」
遥真は黙っている。
「TIERAXに行けば、もっと強くなれるかもしれない。競技だけを考えられる場所に行きたいのも、分かります」
そこまで言っても、遥真は目をそらさなかった。
「でも、行ってほしくないです」
声が店の奥まで届いても、夕奈は言い直さなかった。
「私が困るからです」
一度出してから、夕奈は引っ込めなかった。
「次の移動も、その先の大会も、まだ三人で決めたいです」
「行くなとは言えません。最後に決めるのはハルです。でも、私たちは、まだ一緒に勝ってない」
遥真の眉がわずかに動いた。
「AURAVEXには勝った」
「あれで終わりだとは思ってないでしょう」
「思ってない」
「私もです」
夕奈は遥真を見た。公式スクリムで勝ち、航平はマスターへ上がった。けれど、この三人でどこまで行けるかはまだ誰も知らない。
「だったら、今はここにいて」
夕奈は水のグラスを両手で持った。店員が餃子を二皿運んできて、焼けた皮の匂いと湯気が三人の間に広がった。
航平が箸袋を三人分に分けた。夕奈が自分の袋を開ける前に、遥真が言った。
「次のスクリムは、NOVA-3でやる」
「返事は、そのあとにする」
遥真は一番近い餃子の皿を自分の側へ引かず、三人の中央へ戻した。航平は箸袋の折り目を指で伸ばし、夕奈が開くのを待った。
「分かりました」
夕奈はグラスを持ち直した。航平がようやく箸を取る。
「では、俺の目標も次のスクリムまでは生存ですね」
「勝手に短くしないでください」
「安心しました。夕奈さんが普通に突っ込めるくらいには戻ってます」
「突っ込んでません」
「今日は会話の話です」
夕奈は皿の端にある餃子へ箸を伸ばした。話している間に少し冷え始めたものを取ろうとすると、遥真が中央の皿を夕奈側へ動かした。
「こっち、まだ温かい」
「……ありがとうございます」
「冷えてる方を取ろうとしてたから」
それだけ言って、遥真は自分の炒飯に箸を入れた。夕奈は温かい餃子を取り、熱さに一度だけ息を吹きかけてから食べた。
店を出る頃には、餃子の皿も炒飯の皿も空になっていた。
駅へ向かう道で、遥真がスマートフォンを取り出す。少し歩いたところで立ち止まり、画面を見たまま指を動かした。
「佐伯さんに送った」
航平が尋ねる。
「何てですか」
「もう一度、NOVA-3でスクリムをお願いしますって」
遥真はスマートフォンをポケットに戻した。
「今の三人で戦ってから、返事をする」




