第42話 金曜十九時の沈黙
金曜の午後六時三十二分。
ネクスフィアプロモーションの会議室には、まだ配信前の白い照明がついていた。
正面の待機画面ではYUNA、HAL、KOHEIが笑っている。その下に並ぶ三人は、誰も笑っていなかった。
夕奈の進行表には、普段どおりの近況報告やメール紹介に挟まれて、一つだけ灰色の枠があった。
そこにあるのは、記録を提出したことと、後日、複数のアカウントが利用停止になったこと。それ以上をNOVA-3の口から結びつけないための文章だった。夕奈は二度読んだが、あの試合で三人が戻ったことは、どこにも書かれていない。
「これだけで終わるんですか」
夕奈が聞くと、玲奈は灰色の枠を指した。
「会社から言えるのは、提出したことと、運営の発表があったことまでです」
「私たちが、あの試合で何をしたかは話せますか」
「沢渡さん自身の判断としてなら話せます。ただ、『一般プレイヤーを守った』という会社の見解にはできません」
夕奈は玲奈を見た。
「どうしてですか」
「助けられたかどうかを、こちらから決めることはできません」
玲奈は言葉を切った。夕奈が止めた進路は録画に残っている。そこから逃げた人の声は、この部屋にはなかった。
夕奈は言い返しかけた口を閉じた。閉じると、灰色の枠だけが正しい答えのように見えた。
「普通に試合をしたかったんです」
夕奈は、前の配信で航平が一つのコメントを読んだあと、次へ移れなくなった間を思い出した。書き込んだ人が本当にあの試合にいたかは、今も確かめられない。
「強い相手に負けるなら仕方ないです。でも、隠れても位置を知られて、姿を見せる前から撃たれて終わるのは違う。だから、次の部隊へ行かせたくなかった。私たちが勝つためでもあったけど、それだけじゃなかったです」
玲奈は進行表の余白に、ペンで線を引いた。
「そのとき、あなたが何を考えたかなら」
玲奈は言って、引いた線の終わりを二度なぞった。
「ただ、私は放送のあとまで同じ意味で残るとは約束できません」
夕奈は、次のメールへ移る灰色の矢印を指で隠した。
「何も言わなければ、安全ですか」
「今夜、余計なものを増やさずに済みます」
玲奈は答えたあと、ペンを持ち直した。
「それを安全と呼ぶかは、私には決められません」
玲奈は灰色の枠から手を離した。
「言った後に荒れたら、俺の仕事が増えますね」
航平は椅子の背にもたれ、余白に「記録のために撃たれに行った」と書いた。自分の名前はつけず、モデレーター欄に印をつけた。
「先に共有します。個人情報の探索と、相手の表示名の連投は止めてもらいます」
「航平は、言っていいと思う?」
「俺が決めると、夕奈さんがあとで怒るので」
航平は笑おうとして、うまく口角が上がらなかった。
夕奈は遥真を見た。遥真は壁際の席で、修正前の進行表を読んでいた。
「ハルは?」
「言いたいなら言えばいい」
「それだと、何でもいいみたいに聞こえる」
夕奈が言うと、遥真は紙から顔を上げた。
「次もやるんだろ」
「同じ状況なら、やります」
「なら、言っていい」
遥真はそれだけ答え、進行表を閉じた。夕奈は灰色の枠の下に、自分で一文を書き始めた。
◇
午後七時。NOVA3Radioの待機画面が消え、三人のアバターが配信画面に現れた。
「こんゆな。NOVA-3のYUNAです」
「HALです」
「こんばんは。今週も三人とも元気に会社へ回収されました。KOHEIです」
航平の挨拶に、コメント欄へ笑いが流れる。
『こんゆな』
『金曜きた』
『回収されるな』
『今日はあの話する?』
『アカウント停止の件聞きたい』
番組モデレーターが不審なリンクと同じ質問の連投を非表示にしていく。それでも、先日の試合について聞くコメントは消されなかった。
夕奈は普段どおり、近況報告から始めた。提出資料を送る直前にファイル名を間違えた話をし、航平から「ゲームの装備名より先に提出ファイルを確認してください」と言われた。
遥真は最近使っている武器について聞かれ、アタッチメントが揃わないときの方が練習になると答えた。
笑いも流れた。けれど夕奈には、画面の右端にある時刻がずっと見えていた。十九時二十七分。
コメント欄が一画面分流れた。進行表では、次の項目だった。
「ここで、先日のランク配信についてお話しします」
コメントの流れが速くなった。
『きた』
『待ってた』
『あれやばかった』
『相手チーターだったの?』
『公式から説明ある?』
夕奈は進行表を見た。
記録を運営へ提出したことと、その後の利用停止措置について読み上げる。自分たちには個別の判断を話せないことも伝えた。
灰色の枠に入ってから、声が少しだけ遠くなった。誰かが書いた言葉だからではない。間違えないよう、一文字ずつ踏んでいるせいだった。
コメント欄に、少しずつ別の反応が混ざる。
『運営の仕事か』
『はっきり言ってほしい』
『公式なら慎重でいい』
進行表では、ここで次のメールへ移る。夕奈の目の前にあるモニターにも、進行を促す表示が出ていた。次の話題は、視聴者から届いたおすすめの夜食だった。
航平は次のメールを開かず、進行表の行を指で押さえた。遥真のマイクにも音は入らない。コメント欄だけが数秒ぶん先へ流れた。
夕奈は、進行表の下に自分で書いた文章を見た。
言えば、そこだけ切り取られるかもしれない。もう黙れば、さっきまでの文だけが残る。
マイクの黒い網に、自分の息が小さく当たった。隣で航平が紙を押さえている。遥真は画面ではなく、夕奈の横顔を見ていた。
夕奈はマイクから顔を離さなかった。
「ここからは、運営が確認した内容ではなく、私たちが試合の中で、どう考えて動いたかの話をします」
コメント欄の流れが少し遅くなった。
「私たちは、勝つために戦っています。でも、それだけじゃありません」
夕奈は一度言葉を切った。
「普通に遊んでいる人の試合が壊されるのを、見なかったことにはしたくないです」
言い終えた瞬間、胸の奥が強く鳴った。
「私たちが、相手を決めつけることはできません」
そこで一度、言葉が止まった。進行表には続きがない。
「だから、見たものを残して、あとはお願いしました」
画面の中のYUNAはいつもどおり、まっすぐ前を向いている。夕奈の手だけが、紙の端を少し湿らせていた。
「試合の中では、三人で戻ることを選びました。倒せる敵を追わずに味方を起こして、別の部隊へ向かう道を止めました。次に同じことが起きても、私たちは同じように動きます」
航平が、夕奈の言葉を受けた。
「記録を取るために、わざと撃たれに行くのはもうやりません。そこは俺が一度間違えました」
コメント欄に驚きの反応が流れる。
「また怪しいことがあっても、俺たちは試合をします。追いかけ回すのは、もう違うと思ってます」
航平は冗談を入れなかった。夕奈は、最後に遥真を見た。進行表には、遥真の発言は用意されていない。
遥真は少しだけマイクへ近づいた。
「ちゃんと戦える場所じゃないと、勝っても意味がない」
コメント欄が一気に流れ始める。
『言ってくれてありがとう』
『HALの言葉重い』
『代表みたいに言うな』
『KOHEIが間違えたって言ったの偉い』
『運営の仕事に口出すな』
夕奈は一つずつ読まなかった。
「この件について、私たちからお話しできるのは以上です」
夕奈は進行表へ視線を戻した。
「それでは、次のお便りにいきます。深夜でも買える夜食について――」
「急に生活感が戻りましたね」
航平が言った。
「必要な情報です」
「夕奈さんの場合、夜食より提出期限を先に確認した方がいいですけど」
「ファイル名は直しました」
「提出後に?」
「提出前です」
「それなら今日は勝ちです」
遥真が口を挟んだ。
「何を食べるの」
夕奈は少し笑った。番組は続いた。
◇
午後八時十八分。配信終了の画面に切り替わると、会議室に機材のファン音が戻ってきた。夕奈はマイクから離れ、椅子の背に体を預けた。
玲奈は配信スタッフと短く確認を交わしてから、三人の席へ来た。
「お疲れさまでした」
「すみません。少し長くなりました」
夕奈が言うと、玲奈は進行表を見た。
「予定より三分二十秒長いです」
「細かいですね」
航平が言った。
「担当なので」
玲奈は進行表の三分二十秒の横へ印をつけ、夕奈を見た。
「今のところ、訂正を出す話は来ていません。明日の朝、切り抜かれた題名まで同じとは限りませんけど」
玲奈は進行表を閉じた。その指が表紙の上で少し止まった。
「私も、これが一番よかったとは言い切れません」
夕奈が顔を上げる。
「でも、何も言わなかった方がよかったとも、今は思っていません」
航平が配信後のコメント記録を確認している。
「表示名の特定を始めているコメントは、モデレーターが止めています。個人情報を探そうとしている投稿も記録済みです」
「ありがとう」
「俺じゃなくて、番組モデレーターの仕事です。そこは分けて褒めてください」
航平は自分の端末を閉じた。三人は同じタイミングで席を立った。
遥真が夕奈の机に残っていた進行表を見た。灰色の枠の下に、夕奈の字で書き足した文章が残っている。
「言えてた」
遥真が言った。
「途中で止まりましたけど」
「待ってた」
「何を?」
「お前が言うのを」
夕奈は進行表を裏返した。「今、合わせて」と書いた文字が机に伏せられる。
「……ありがとう」
遥真は裏返った進行表の角を、夕奈の側へ押し戻した。
片づけを始めたところで、航平の端末が震えた。ほぼ同時に夕奈の鞄の中でも短い音がした。カイトが新しい配信枠を公開していた。
サムネイルには、真剣な表情のYUNAが大きく使われている。
その横には、夕奈が配信で言った文章の一部だけが、太い文字で抜き出されていた。
『普通に遊んでいる人の試合が壊されるのを、見なかったことにはしたくない』
題名は『NOVA-3、一般プレイヤーの代表面?』。
航平は「代表面」とだけ読み上げ、配信枠を開いた。開始表示はもう二十秒を過ぎていた。
待機音のあと、カイトの声が流れた。
『代表ではないと言いながら、なぜ一般プレイヤーを持ち出したのか――』
「始まってます」
「題名だけで十分じゃなかった?」
遥真が先に扉を開けた。
「最初だけ聞きます」
航平は端末を持って廊下へ出た。カイトは、なぜ一般プレイヤーを持ち出したのか、と問い、そのまま二つ目へ移ろうとした。
「航平」
夕奈が呼ぶと、航平の足が止まった。
「それ、今聞かないといけませんか」
航平は答えず、音量を一つ下げた。カイトの声はまだ聞こえる。
「夜食の話、途中でした」
夕奈が言った。
遥真はエレベーターの開くボタンを押したまま、「俺は肉まん」とだけ言った。夕奈が「さっき餃子も出ていました」と返す。航平は端末を伏せ、二人に続いて箱の中へ入った。
扉が閉じる寸前まで、カイトは何かを問い続けていた。航平の手の中では、もう言葉まで聞き取れなかった。




