第40話 三人へ戻る
翌朝、夕奈は一度閉まりかけたエレベーターの扉を、開くボタンで止めた。
廊下の向こうから歩いてきたのは遥真だった。黒いリュックを片方の肩にかけ、いつもより眠そうな顔をしている。
「ありがとう」
「おはようございます」
「おはよう」
遥真が乗り込み、狭い箱の中に二人きりになる。
昨夜は、航平が倒された場面の切り出しと、マッチIDや時刻の確認で遅くなった。一般部隊が同じ表示名の敵に倒されたキルログまで見た頃には、日付が変わっていた。
航平は会社から午前中は休むよう言われている。夕奈と遥真は、それぞれ大学へ向かうところだった。
「航平さん、大丈夫でしょうか」
「連絡は来た。起きたら資料を直すって」
「休むように言われたのに」
「たぶん、もう直してる」
夕奈にも同じ想像ができた。
一階に着き、二人でマンションを出る。朝の西大井では、通勤と通学の人が駅へ向かっていた。昨夜の画面にあった銃声も、壁の向こうを追う照準も、この道には何も残っていない。
夕奈は鞄を持ち直した。ファスナーの隙間から、大学の資料の角がはみ出している。
遥真がそこを見た。
「今日も授業?」
「一限から四限です。そのあと配信があります」
「寝た?」
「少しは」
答えると、遥真は夕奈の顔を見て、もう一度だけ時計を確認した。
駅前のコンビニへ入り、夕奈は冷蔵棚からカフェラテを取った。レジへ向かおうとすると、背後から遥真の声がした。
「それだけ?」
「大学で何か買います」
「昨日も、夕飯途中だった」
夕奈は振り返った。
「見てたんですか」
「配信前にパン置いてた。終わったときも残ってた」
映像の切り出しをしている間、夕奈の机の端には開けかけの袋が置かれていた。自分でも忘れていたものを、遥真は覚えていたらしい。
夕奈はカフェラテを持ったまま、パンの棚を見た。
「食べる時間がなかっただけです」
「今日もなくなる」
言い返そうとして、やめた。一限から四限、そのあと配信。帰宅してから買うつもりではいたが、練習前に録画を確認する可能性もある。
夕奈はパンの棚へ戻り、卵サンドを一つ取った。
「これでいいですか」
「俺に聞かれても困る」
そう言いながら、遥真は口元を緩めた。駅のホームには、朝の電車を待つ列ができていた。二人は同じ列の後ろに並ぶ。
昨夜のことは、三人の通話で確認すればいい。夕奈は電車が来る前に、一つだけ口にした。
「昨日、戻ってくれて助かりました」
遥真は前を向いたまま答えた。
「夕奈が戻れって言ったから」
「撃てたのにですか」
航平を倒した敵は遥真の射線にいた。遥真は敵を追わず、スモークの中へ戻ってきた。
考えてから、遥真が言う。
「航平を置いて撃っても、勝ちじゃないから」
「戻ってくれて、よかったです」
夕奈が言うと、遥真がこちらを見た。夕奈はなぜか、その視線を受け続けられず、ホームの案内表示へ顔を向けた。
「俺も、戻ってよかった」
電車の到着を知らせる音が鳴った。ホームへ風が入り、人の列が前へ動き始める。
二人は同じ車両に乗り、途中の駅で別れた。夕奈が降りるとき、遥真は「パン、忘れないで」と言った。
扉が閉まり、電車が動き出す。夕奈はホームに立ったまま、遠ざかる車両を見た。試合の確認ではない話を、もう少ししていたかった。
そう思った理由を考える前に、人の流れが夕奈の背中を押した。
◇
夜の配信前、航平は新しい記録手順を共有した。
画面には、マップ上の位置、ゲーム内時刻、相手の表示名を入力するための欄だけが並んでいる。以前の表より簡単だった。
「試合中はここまでです。詳細な映像確認は運営に任せます。これなら十秒もかかりません」
航平は前日の録画を閉じたまま、簡略化した表だけを共有した。
「記録のために、一人で残らないでください」
夕奈が言うと、航平のカーソルが記録欄で止まった。
「それだと、決定的な場面を逃すかもしれません」
「逃していい」
遥真が割って入った。
「航平が落ちるよりは」
航平は何も返さなかった。しばらくして、表を閉じた。
「では、逃した分は運営に働いてもらいます」
航平は笑わなかった。
「お願いします」
夕奈は、それ以上納得したかを確かめなかった。
◇
公開ランク配信の三試合目。
ラウンド3の収縮が始まる前、航平がキルログの表示名に気づいた。
「昨日の部隊にいた一人、同じマッチにいます」
「位置は?」
「北西の工業区です。さっき一般部隊を一人落としています」
NOVA-3はエリア南側の二階建て倉庫にいた。次の安全地帯へ入るなら、中央の道路を渡って東の建物を取るのが近い。
北西へ向かう理由はない。
夕奈がマップを確認している間にも、工業区から銃声が続いた。一定ではない。逃げる側が遮蔽を変えるたび、少し遅れて別の角度から弾が伸びている。
キルログに、もう一人のダウンが出た。
「一般部隊、残り一人です」
遥真が北側の窓から工業区を見る。
「追ってる。逃げ先に先回りしてる」
夕奈もサイトをのぞいた。
一般プレイヤーが倉庫の裏から西の通路へ走る。その姿が壁に隠れたあと、異常な敵部隊は迷わず通路の出口へ向きを変えた。
見えている相手を追っている動きではなかった。
昨夜、画面に出たキルログが重なる。
倒されたのは、公式マークもなく、配信運営へすぐ連絡できる立場でもない、ただランクへ入った三人だった。
自分たちは異常だと気づき、録画を玲奈と運営へ送れる。普通に遊んでいる人には、その準備がない。
「中央へ行けば、先に入れます」
航平が言った。
順位を優先するなら、その通りだった。異常な敵と一般部隊が戦っている間に離れれば、NOVA-3は安全地帯の強い建物を取れる。
夕奈は工業区から中央へ抜ける二本の道を見た。
東の道路は広い。西の通路は狭く、途中に低い壁がある。一般部隊を倒したあと、敵が次の部隊へ向かうなら、西を通る可能性が高い。
「中央には行かせません。西の通路を取ります」
「一般部隊と合わせる?」
遥真が聞く。
「合わせません。向こうも敵です」
「西へ出たところを撃ちます。倒し切ろうとしないで、広い道路へ押し返します」
「了解」
「移動します。航平さん、後ろをお願いします」
「見ます」
三人は倉庫を出た。
一般部隊の最後の一人が、工業区の外周を南へ逃げている。異常な敵はそちらへ三人で寄り、周囲の射線をほとんど見ていなかった。
NOVA-3が西の通路へ入る。
通路脇の二階建てへ入り、夕奈と遥真は二階、航平は一階へ分かれた。
「西入口へ、三人とも寄っています」
航平が通路の低い壁へクラックチャージを撃ち込んだ。小爆発を避けた先頭だけが東の道路へ飛び出し、後ろの二人は狭い通路の奥で詰まった。
「正面へ出ます」
先頭の敵が低い壁から出た瞬間、夕奈はScout-56を撃った。二発がシールドに入り、敵が足を止める。
「五十。まだ割れてません」
「奥、俺が見る」
遥真のAKが鳴った。後ろにいた一人が道路脇の車両へ下がる。三人とも一般部隊への追跡をやめ、NOVA-3へ向き直った。
「こっちを見ました」
航平のLancer-56が通路の出口へ弾を流す。敵は狭い道へ入れず、遮蔽の少ない東側へ回り始めた。
その間に、一般部隊の一人が南の建物へ滑り込む。
「逃げました」
「まだ見ないでください。こっちの戦闘です」
夕奈は照準を外さなかった。
夕奈は二階窓の端から、車両の陰に入った敵の上半身だけを見ていた。南へ逃げた一般プレイヤーは、隣の建物へ入ってキルログから消えたままだった。
敵はその建物へ向かわず、三人ともNOVA-3へ向き直る。夕奈たちから撃たれた直後なら、こちらを先に処理する判断は不自然ではない。
「残り二人、道路を渡ります」
航平は時刻を言いかけ、やめた。
「挟まれるまで六秒。二階へ戻ります」
夕奈が呼ぶ前に、一階から足音が上がってきた。航平は銃を持ったまま、入口へ滑り込む。
南の建物から、そのプレイヤーのダウン表示は出ない。NOVA-3の三人は同じ建物にいた。
「右、一人出ます」
遥真が窓から撃つ。道路を渡っていた敵のシールドが割れた。
「落とせる」
敵は車両の裏へ逃げた。遥真なら、窓から降りて追える距離だった。
夕奈が何かを言う前に、遥真は続けた。
「でも、追わない。もう一人が左」
「左、来ます」
航平が射線を通し、敵を道路の中央で止める。夕奈もScout-56を合わせた。前へ出れば三方向から撃たれる形を作り、敵を北側へ押し戻す。
異常な敵部隊は、一般部隊への追跡を続けられなくなった。
南へ逃げた一般部隊のキルログは、それ以上流れなかった。
夕奈は窓の外を見ながら言った。
「私たちを狙うだけなら、まだ分かる。でも、普通に遊んでる人の試合まで壊すのは違う」
◇
NOVA-3はその試合を八位で終えた。
順位Pは10P、1キル。戦闘を止めた時間のわりに、結果に残ったものは少ない。
配信を終えたあと、航平がリザルトを見ながら言う。
「こういう仕事、順位表には一行も載らないんですよね」
航平が記録を切り上げて戻ったことも、一般部隊が逃げる時間を作ったことも出ない。
「載りません。ただ、必要な記録は運営へ届いています」
「必要なら、もう少し目立つ欄に載せてほしいですね」
「順位表の仕様は変えられません」
「相談先を間違えました」
航平は笑った。その直後、玲奈の端末に通知が入った。
「運営から連絡です」
三人の画面に、確認内容が共有される。
複数の報告とゲーム内ログに、共通する動きが見つかった。次回の公開ランク配信では、運営側でも該当アカウント群を同時に確認するという。
「私たちは、何をすればいいですか」
夕奈が聞く。
「普段どおり勝利を目指してください。相手を調査するのは運営の仕事です」
玲奈は一度言葉を切った。
「三人で試合を続けて、帰ってきてください」
「分かりました」
夕奈が答えると、遥真が続けた。
「戻る」
航平は表を閉じ、二人が待つ通話へ戻った。
「お待たせしました」
「三分」
遥真が言う。
「数えなくていいです」
航平の返しがいつもより硬かった。夕奈が次のロビーを開く。三人の準備完了が点灯し、輸送機の画面へ切り替わった。
「東の二棟へ降ります。航平さんは左を――」
航平のキャラクターだけが、反対側へ落ち始めた。
「航平さん?」
「すみません。西だと思いました」
遥真が進路を折った。夕奈も予定していた建物を捨て、航平の降下先へピンを打ち直す。地上では、先に降りた敵がもう武器を拾っていた。




