第4話 YUNAの顔
翌日、夕奈はひとりで品川のビルに入った。昨日と同じ受付、入館ゲート、来訪者用のカード。ただ、隣に母はいない。ここから先は、自分で入る場所だった。ゲートにカードをかざすと、短い電子音が鳴る。通っていい、と機械に言われた気がした。
エレベーターの鏡に映った自分は、昨日より少しだけ仕事に来た人間の顔をしていた。白いブラウスに、黒のパンツ。スニーカーではなく、歩きやすい黒い靴。髪も、いつもより丁寧に結んできた。鏡の中にいるのは、画面の名前ではなく沢渡夕奈だった。指定階で降りると、三好玲奈が会議室の前で待っていた。
「おはようございます、沢渡さん」
「おはようございます。よろしくお願いします」
「今日は活動用の資料確認と、初配信に向けた準備が中心です。契約の細かい話より、実際に表へ出るための確認になります」
表へ出る。その言葉だけが夕奈の中に強く残った。
案内された会議室は、昨日より小さかった。長いテーブルではなく、モニターに向かって座るための席が二つ並んでいる。机の上には資料の束と、確認用のタブレット、それからノートパソコンが置かれていた。
モニターの横には、小さなカメラとマイクも置かれている。夕奈がそれを見ていると、玲奈が言った。
「後半でアバターの動作確認もします。表情、口の動き、音声の入り方、ゲーム画面との重なりを見ます」
「今日、もう動かすんですか」
「はい。初配信当日に初めて触ると、必ず慌てます」
ゲームなら、初めての武器を本番で使うことはしない。夕奈は背筋を伸ばした。夕奈が席に着くと、玲奈はノートパソコンを開いた。
「まず、YUNAのアバター資料から確認します」
画面が切り替わり、ひとりの女の子が現れた。夕奈は思わず居住まいを正した。
明るい栗色の髪。肩のあたりで軽く跳ねる毛先。白と青を基調にした衣装。動くと揺れそうな細いリボン。ゲームの近未来感に合わせたジャケットは、かわいさだけでなく、少しスポーティーにも見える。
大きすぎない瞳と、笑うとわずかに上がる口元。新人らしい柔らかさはあるのに、弱そうには見えない。よくできていると思ったことが、夕奈には悔しかった。
「こちらが通常立ち絵です。配信画面、告知画像、公式サイトのプロフィールに使用します」
玲奈が淡々と説明する。画面のYUNAは、夕奈の知らないところで、もうまっすぐ前を見ていた。
「表情差分もあります。笑顔、驚き、困り顔、真剣な表情。初配信や雑談枠では、基本的にこの範囲で使います」
次々と表情が表示される。笑っているYUNA、少し照れているYUNA、焦って眉を下げているYUNA、真剣に画面を見つめているYUNA。どれも、嘘っぽくはなかった。作り物なのに、ちゃんと表情がある。見ている人が、すぐに覚えられる顔だった。夕奈は画面から目を離せなかった。
「……かわいいですね」
そう言ってから、自分の声が思ったより小さいことに気づいた。玲奈は頷いた。
「社内でも反応は良いです。新人公式契約プレイヤーとして、最初に知ってもらいやすいデザインになっています」
悪いことではない。誰かに知ってもらうには、名前も、見た目も、プロフィールも、配信画面も必要だ。ゲームがうまいだけでは、最初から見つけてもらえるわけではない。
頭では分かっているのに、喉の奥が少し詰まった。夕奈は、自分の手元を見た。コントローラーを握っていない手は、膝の上で少し硬くなっていた。
「次に、プロフィール文です」
玲奈が資料をめくる。モニターに文章が表示された。
YUNA。
ネクスフィアプロモーション所属、NOVA-3の新人公式契約プレイヤー。デルタフィールドでは、終盤判断とチームの立て直しを得意とする。負けず嫌いで、最後まで勝ち筋を探すプレイスタイル。好きなものはランクマッチ、甘いカフェラテ、青系のスキン。目標は、NOVA-3の一員として結果を残すこと。
夕奈は、その文章をゆっくり読んだ。間違ってはいない。終盤判断で勝ちたい。甘いカフェラテも好きだし、青系のスキンを選びがちなのも本当だった。でも、文章の中の自分は、夕奈が思っている自分よりずっと整っていた。見やすく、応援しやすく、説明しやすい人間になっている。
「修正したい箇所があれば、言ってください」
玲奈が言った。夕奈はもう一度、プロフィール文を見る。新人、負けず嫌い、好きなもの、目標。どの言葉も嫌いではない。けれど、そのどれもが、夕奈の中にある一番強い気持ちとは少し違っていた。認められたい。新人だからでも、かわいいからでもなく、勝てる選手としてそこにいていいと言われたい。
画面のYUNAは、夕奈より先に、応援される準備を終えていた。
「個人情報は、ここまでなんですね」
夕奈は、思わず言った。玲奈は画面を見てから、頷いた。
「はい。活動に必要のない情報は載せません。学業や出身地、住んでいる場所に近い話は、公開プロフィールには入れない方針です」
夕奈は、少しだけ息を吐いた。言われてみれば当然だった。けれど、昨日からずっと、契約書にも予定表にも自分の生活が並べられていたせいで、何が外に出る情報で、何が会社の中だけの情報なのか、少し分からなくなっていた。
「大学のことは、言わないんですね」
「言いません。活動計画を組むために会社は把握していますが、視聴者に知らせる必要はありません」
「話した方が、応援されやすいとかは……」
「あると思います」
玲奈はすぐに否定しなかった。
「でも、使いやすい情報ほど、あとで本人を縛ります。沢渡さんが配信で話したくないことは、話さなくて構いません。質問が来た場合の返し方も、初配信前に確認します」
「返し方まで決めるんですか」
「守るためです。何でも正直に答えることが、誠実とは限りません」
夕奈は少し遅れて頷いた。予定や規定、会社の名前だけでなく、沢渡夕奈を表に出しすぎないための線も、玲奈は引いていた。
玲奈は資料を進めた。
「こちらが、YUNA個人としての初配信の流れです」
モニターに、簡単な進行表が映った。
待機画面、開始挨拶、自己紹介、デルタフィールド歴、NOVA-3での役割、今後の活動予定、短いランクマッチのアーカイブ紹介、コメント対応、終了挨拶。
「個人の初配信なんですね」
「はい。まずは、YUNAという名前と声を覚えてもらいます。ただし、NOVA-3としての本番は三人揃ったお披露目配信です」
玲奈は予定表の下の方を指した。
「個別配信は入口です。三人それぞれを知ってもらったあとで、NOVA-3として合同紹介配信を行います。チーム名で売り出す以上、そこは外せません」
まだ三人で顔を合わせてもいないYUNA、HAL、KOHEIが、予定表ではすでに同じ枠に入っていた。
「初配信で、ゲームもするんですか」
「短い実演は入れる予定です。ただし、初回は視聴者にYUNAを覚えてもらうことが優先です。プレイで魅せる回は、次以降に作ります」
待機画面のデザインが表示された。青と白の背景に、NOVA-3のロゴ。画面の右側にはYUNAの立ち絵。下にはコメント欄用の余白がある。配信開始前に流す短いBGMの候補も再生された。
軽く明るい曲で、初めて来た人も入りやすい。YUNAは見やすく、応援したくなる顔で、公式契約プレイヤーとして並んでも目を引く。夕奈一人では作れない入口を、会社の人たちが形にしてくれていた。まだ何も勝っていない自分より先に、YUNAは誰かに見られる準備を終えている。
そこへ、会議室の扉が軽くノックされた。
「失礼します」
入ってきたのは、配信担当のスタッフだった。玲奈より少し柔らかい雰囲気の女性で、手には小さな機材ケースを持っている。
「沢渡さん、今日はよろしくお願いします。アバターの動作確認だけ、先に見させてもらいますね」
「よろしくお願いします」
夕奈は慌てて頭を下げた。スタッフはカメラとマイクを接続し、確認用のソフトを立ち上げた。画面の中に、さっきまで資料として表示されていたYUNAが現れる。立ち絵ではない。動くYUNAだった。
「では、正面を見てください。軽く笑ってみましょう」
夕奈は言われた通りに笑おうとした。うまく笑えた気はしなかった。けれど画面の中のYUNAは、少し遅れて口元を上げた。
夕奈の動きに合わせて目が細くなり、髪の先とリボンが揺れる。自分が動かした、自分ではない顔が笑っていた。
「口の動きも見ます。何か短く話してみてください」
「えっと……沢渡夕奈です」
言ってから、スタッフと玲奈が同時にこちらを見た。夕奈はすぐに気づいた。
「あ、違う。YUNAです」
スタッフは責めるようには笑わなかった。
「大丈夫です。今のための確認です。本番前に慣れておきましょう」
玲奈も静かに言った。
「画面に出るときはYUNAです。ただし、沢渡さんが消えるわけではありません。そこを混同しないためにも、練習します」
本名を名乗ることが、いきなり間違いになる。その感覚に、胸の奥が熱くなった。
「もう一度、お願いします」
スタッフが言う。夕奈は小さく息を吸った。
「YUNAです。よろしくお願いします」
画面の中のYUNAが、夕奈の声に合わせて口を動かした。少し遅れて、笑った。その動きはかわいくて、よくできていた。けれど夕奈は、その笑顔の奥に自分がちゃんといるのか、まだ確かめきれなかった。
「次に、初配信の開始挨拶を確認します」
玲奈が資料を見た。
「採用予定の挨拶はこちらです」
モニターに短い文が表示された。
こんゆな。NOVA-3のYUNAです。今日も一試合ずつ、ちゃんと勝ちにいきます。
夕奈は文字を見た瞬間、少しだけ固まった。
「こんゆな、ですか」
「はい。挨拶として覚えてもらいやすいです。コメント欄にも定着しやすいと思います」
「私が言うんですね」
「YUNAが言います」
玲奈はさらりと言った。夕奈は一度、口の中でその言葉を転がした。こんゆな。普段の自分なら、絶対に言わない。でも、配信者としてのYUNAなら、たぶん言う。夕奈はマイクの前で、画面の文を読んだ。
「こんゆな。NOVA-3のYUNAです。今日も一試合ずつ、ちゃんと勝ちにいきます」
自分の声が会議室に浮いた。恥ずかしい。それでも「一試合ずつ、ちゃんと勝ちにいく」だけは自分の言葉に近かった。
「少し硬いですね」
玲奈が言った。夕奈は肩を縮めた。
「すみません」
「謝る必要はありません。硬くても、最初はそれがYUNAの味になります。ただ、焦って早口にならないようにしてください。コメント欄は、話している本人が思うより遅れて反応します」
配信担当のスタッフも頷いた。
「あと、困った質問が来たときの返しも確認しておきましょう。たとえば、大学名を聞かれた場合」
夕奈は一瞬、答えに詰まった。言わないことは分かっている。だが本番でコメントに流れたら、無視するのか、笑って流すのかまでは分からない。
玲奈が例を出した。
「その質問には答えられません、だけだと少し強く聞こえる場合があります。なので、こう返してください」
玲奈は画面に文を打った。学校や住んでいる場所に近い話は出せないんです。ごめんなさい。その代わり、デルタフィールドの話ならたくさんできます。夕奈はその文を読んだ。
「こういう感じで、話題を戻します」
「戻すんですね」
「はい。断るだけではなく、配信の中で話せる場所に戻します。視聴者を敵にしないためでもありますし、沢渡さん自身を守るためでもあります」
夕奈は頷いた。
「終了挨拶も一度だけ確認します」
玲奈が続けた。見に来てくれてありがとうございました。次は、もっといい判断を見せます。おつゆなでした。夕奈は今度は少しだけ笑ってしまった。
「おつゆな」
「はい」
「……慣れるまで、時間かかりそうです」
「初配信までに慣れれば大丈夫です」
玲奈の返事はいつも通りだった。配信担当のスタッフが、確認画面を止めた。
「動作は問題ありません。口の動きも大きな遅れはありません。表情切り替えだけ、緊張すると硬くなるかもしれないので、初配信前にもう一度確認しましょう」
「分かりました」
さっきまで資料の中にいたYUNAが、もう夕奈の声で動いている。玲奈が画面を初配信用資料に戻した。
「ここまでで、気になる点はありますか」
夕奈は迷った。資料も動作確認も問題はない。うまく説明できないかもしれないが、ここで黙れば、この先も黙ることになる。夕奈は手元の資料を見つめたまま、口を開いた。
「私は、キャラとして見られるんですか」
会議室が静かになった。夕奈は玲奈の答えを待った。玲奈はすぐに答えなかった。画面の中のYUNAが、笑顔のままこちらを見ている。
やがて玲奈は、落ち着いた声で言った。
「最初は、そう見られることもあります」
夕奈は小さく息を止めた。
「かわいい新人。会社が用意した新しい子。NOVA-3のYUNA。そういう見られ方をする人もいると思います」
玲奈は続けた。
「だからこそ、プレイで覚えてもらう必要があります」
夕奈は顔を上げた。玲奈は画面のYUNAではなく、夕奈を見ていた。
「アバターも、プロフィールも、配信画面も、最初に見つけてもらうためのものです。ですが、そこから先に残るかどうかは、沢渡さんのプレイと、活動の積み重ねで決まります」
「ただし」
玲奈は資料を一枚めくった。そこには、夕奈の過去のランク成績と、選考時のプレイ評価がまとめられていた。終盤判断。位置取り。味方の状態確認。劣勢時の立て直し。短く書かれた評価欄の中に、自分のプレイがあった。
「会社は、キャラクターだけで沢渡さんを採用したわけではありません」
夕奈の胸の奥が、少しだけ動いた。
「選考時のプレイを見ています。判断の速さ、味方に合わせる力、終盤で焦らないところ。もちろん、現時点で足りない部分もあります。発信力も、安定感も、まだこれからです」
玲奈は甘く言わないが、夕奈のプレイを見ていた。
「YUNAという顔は、会社が用意します。ですが、その名前に何を残すかは、沢渡さんがこれから作るものです」
夕奈は膝の上で手を握った。
「……プレイで、覚えてもらいたいです」
声に出すと、その気持ちは思ったより単純だった。
「新人だからじゃなくて、ちゃんと勝てる人として見られたいです」
玲奈は頷いた。
「その方針でいきましょう。だから、その顔を嫌わず、使ってください」
玲奈は資料の最後に進んだ。
「初配信の自己紹介文については、少し調整しましょう。好きなものや新人らしさは残してもいいですが、プレイ面の目標をもう少し前に出します」
「目標、ですか」
「はい。沢渡さん自身の言葉で言える形にした方がいいです」
玲奈はメモ用の画面を開いた。
「たとえば、どんな選手として覚えられたいですか」
夕奈はすぐには答えられなかった。火力ならHALの方が分かりやすいだろう。場を回す力なら、KOHEIの方が自然に見えるかもしれない。夕奈には、派手な一発があるわけではない。それでも、自分がやりたいことはあった。負けそうな終盤で三人を同じ方向に向け、逃げ道ではなく勝ち筋を選ぶ。撃てる人を勝てるタイミングまで待たせ、その瞬間には自分も前へ出る。
「最後に、勝つ道を選べる選手に」
言ってから、少し大きすぎるかもしれないと思った。けれど玲奈は笑わなかった。
「いいと思います」
「本当ですか」
「はい。少し整えれば、自己紹介にも使えます」
玲奈が画面に文字を打つ。最後に勝つ道を選ぶプレイヤーを目指します。まだそんな選手ではない。だが「勝つ道を選ぶプレイヤー」なら、自分がそこへ追いつけばいい。打ち合わせが終わる頃には、窓の外の光が少し傾いていた。玲奈は修正した資料を保存し、ノートパソコンを閉じた。
「本日の確認は以上です。アバター資料と初配信用の進行表は、持ち帰り確認用として社内アプリにも共有します。外部への転送や公開はしないでください」
「分かりました」
「明後日は機材と配信ソフトの確認があります。ご自宅の回線、マイク音量、待機画面、終了画面、配信遅延の設定まで見ます」
「家でも確認するんですね」
「はい。会社の会議室で動いても、実際に配信する部屋で問題が出ることがあります」
夕奈は引っ越したばかりの部屋を思い出した。白い壁と机、まだ硬いワークチェア。あの場所にマイクと画面とYUNAが入り、自分の部屋が仕事の場所へ変わっていく。
「その前に、明日、NOVA-3の顔合わせがあります。そこでHALさん、KOHEIさんとも初めて会っていただきます」
その二つの名前を聞いた瞬間、夕奈の背筋がまた少し伸びた。活動名は知っていても、声も顔も知らないHALとKOHEI。
「緊張しますか」
玲奈に聞かれて、夕奈は少し困った。
「します。でも、たぶん緊張してる場合じゃないですよね」
「緊張はしても構いません。活動に支障が出なければ」
「厳しいですね」
「担当なので」
玲奈は少しだけ表情を緩めた。その小さな変化に、夕奈も肩の力が抜けた。会議室を出る前に、夕奈は閉じたモニターを一度振り返った。笑顔も衣装も挨拶も、もう用意されている。
ビルを出ると、品川の空は夕方に近づいていた。人の流れは相変わらず速い。誰も、夕奈が今日どんな顔を見たのか知らない。誰も、YUNAという名前の中に、どれだけの準備が詰まっているのか知らない。駅へ向かう途中、社内アプリに並んだデザイン一式と進行表を開く。画面のYUNAは、誰かに届くように笑っていた。
会社が作ったYUNAに、自分が置いていかれるわけにはいかない。夕奈はスマホを閉じ、止めていた足を品川駅へ向けた。




