第3話 ゲストカード
翌朝、夕奈は品川駅の改札前で母と合流した。
平日の朝の品川は、西大井とはまるで違っていた。スーツ姿の人たちが、改札から流れ出てくる。キャリーケースを引く人、イヤホンをつけたまま早足で歩く人、スマホを見ながら短く誰かと話す人。誰も立ち止まらない。街そのものが、足音で動いているようだった。
夕奈は人の流れの端に立ち、少し背伸びをして母を探した。
母は駅の柱のそばにいた。黒い手提げ鞄を持ち、改札の方を見ている。夕奈と目が合うと、ほっとしたように片手を上げた。
「ちゃんと寝られた?」
最初に聞かれたのは、それだった。夕奈は少しだけ笑った。
「寝た。ちょっとだけ」
「ちょっとだけは、寝たうちに入らへん」
「緊張してただけやから」
母は夕奈の顔をじっと見た。寝不足も、無理をしていることも、たぶん隠せていない。それでも、母はすぐには何も言わなかった。
「行こか。遅れたらあかんし」
夕奈は頷き、母と並んで歩き出した。
ネクスフィアの本社ビルは、駅から少し歩いた場所にあった。ネクスフィアプロモーションジャパンの本社フロアも、その建物の中に入っている。
ガラス張りの入口。高い天井。受付の奥では、ネクスフィアの大型広告が壁一面に流れている。人気タイトルのキャラクターが、光の中で次々と切り替わっていく。子どもの頃から見てきたゲームのロゴもあった。大会配信で何度も見たタイトル名もあった。
ゲームの会社だ。夕奈は一瞬、足を止めそうになった。
けれど入口を抜けると、そこにあったのは夢の場所だけではなかった。受付、入館ゲート、来訪者用の端末、予約名の確認。明るい広告のすぐ下で、会社としての手続きが静かに動いている。
受付で名前を伝えると、夕奈と母に一枚ずつカードが渡された。白いゲストカードだった。
首から下げるための紐がついている。カードには、来訪者用の番号と、今日の日付だけが印字されていた。
夕奈はそれを受け取り、指先に力を入れた。昨日は部屋のカードキー、今日は会社のゲストカード。どちらも軽いが、その一枚がなければ入れない場所がある。
受付横のゲートにカードをかざすと、短い電子音が鳴った。母が周囲を見た。
「すごい会社やね」
「うん」
夕奈はそれ以上、うまく返せなかった。
エレベーターで指定された階へ上がる。廊下には、ゲームのキービジュアルやイベント告知のポスターが整然と並んでいた。どれも華やかで、人の目を引くように作られている。
その一枚一枚の前を通るたびに、夕奈は少し息を浅くした。自分は、見ている側から、見られる側へ行く。会議室の前には、今日の予定名が表示されていた。
契約説明および活動開始前オリエンテーション。その文字は、ゲームの画面よりずっと固かった。
「沢渡様ですね」
声をかけてきたのは、三好玲奈だった。昨日の連絡アプリで名前だけは見ていた。実際に会うのは初めてだ。
きちんと結ばれた髪。無駄のないスーツ。柔らかすぎない表情。冷たいわけではない。初対面の夕奈へ大きく笑いかけることもなく、まっすぐ目を合わせた。
「本日から担当します、三好玲奈です。よろしくお願いいたします」
「沢渡夕奈です。よろしくお願いします」
夕奈が頭を下げると、母も続いた。
「母です。今日はよろしくお願いします」
「こちらこそ、お時間をいただきありがとうございます」
玲奈は母にも丁寧に頭を下げ、会議室へ案内した。
中には長いテーブルと、人数分の椅子が用意されていた。テーブルの上には、資料の束と水のペットボトル、署名用のペンが並んでいる。
夕奈は椅子に座った瞬間、資料の厚さを見た。ゲームの仕事だと思っていた。
もちろん、ゲームをする仕事だ。配信もする。イベントにも出る。大会にも出る。画面の向こうで、誰かに見られる。
けれど最初に置かれていたのは、コントローラーでもヘッドセットでもなく、契約書類だった。
玲奈が資料を開いた。
「まず、契約先についてご説明します。沢渡さんの契約先は、ネクスフィア本体ではなく、ネクスフィアプロモーションジャパンです。国内向けの販促、配信、イベント、公式契約プレイヤーの活動管理を担当する会社になります」
夕奈は頷いた。
面接のときにも聞いていたはずだった。けれど、こうして書面の上で見ると重さが違った。
ネクスフィア。その名前だけなら、子どもの頃から知っている。
でも、夕奈がこれから関わるのは、ゲームを作る本体そのものではない。ゲームを届けるために動く会社だ。配信。イベント。告知。ファン対応。数字。予定表。
「契約形態は、社員としての雇用ではなく、業務委託契約です。ただし、自由な個人配信者ではなく、公式契約プレイヤーとして会社の規定と活動計画に従っていただきます」
玲奈の声は淡々としていた。脅さず、甘い言葉にもしない。
「最低配信時間は、週五日、一日三時間。週十五時間が基準です。大会前やイベント前は変動します。学業との調整は行いますが、活動予定を守ることも契約の一部になります」
夕奈は資料を目で追った。週五日、一日三時間。週十五時間。数字だけなら、できると思った。
これまでも、もっと長くゲームをしてきた日はある。ランクを回すために夜更かししたことも、負けたまま終われなくて朝方まで続けたこともある。
だが、それは自分で勝手にやっていた時間だ。これからは、同じ時間が仕事になり、見られる。
調子が悪い日も、課題が終わっていない日も、眠い日も、配信予定は予定として残る。
夕奈の視線が、資料の端にあるスケジュール例で止まった。
配信枠はほかの予定と重なる日もあるが、資料には、その日の主な予定だけが記されていた。
月曜、授業。
火曜、配信。
水曜、チーム練習。
木曜、配信。
金曜、公式番組と打ち合わせ。
土曜、イベント。
日曜、チーム練習。
例と書かれている。でも、夕奈にはそれが、未来の自分の一週間に見えた。大学の予定と、会社の予定と、ゲームの予定が、同じ紙の上に並んでいる。
そのことが、思っていたよりも重かった。母が資料から顔を上げた。
「配信いうのは、毎週これだけ必ずせなあかんのですか」
「最低基準です。体調不良や学業上の事情がある場合は調整します。ただ、公式契約プレイヤーとして活動する以上、継続的に見られる場に出ることも仕事になります」
母はすぐには返事をしなかった。夕奈は横顔を見た。
母はゲームの強さを数字で測れない。ランクの価値も、公式スクリムの意味も、夕奈ほどには分からない。けれど、無理をして生活が崩れることだけは分かる。
その目だった。玲奈が続ける。
「沢渡さんは大学に在籍されています。会社としても、学業との両立を前提に活動計画を組みます。ただし、両立にはご本人の管理が必要になります」
その言葉で、母が夕奈を見た。逃げられないと思った。契約書よりも、配信時間よりも、その視線の方が胸に刺さった。
「夕奈」
「うん」
「大学は、続けるんやろうな」
静かな声に、会議室の空気が変わった。反対でも、ゲームをやめろという言葉でもない。
母は、夕奈がここまで来たことを止めなかった。面接の話も聞いてくれた。東京の部屋のことも、契約説明の日程も、全部一緒に確認してくれた。
でも、それは全部、夕奈が自分を壊さないという前提の上にあった。
夕奈は手元の資料を見た。公式契約プレイヤー、最低配信時間、イベント。大学、授業、課題、出席。全部が同じ紙の上に乗っている。
できるかどうかは、分からない。けれど、ここで分からないと言ったら、昨日の部屋も、今日のゲストカードも、自分のものではなくなってしまう気がした。
夕奈は顔を上げた。
「辞めへん。休学もしない。ちゃんと通う」
声が震え、標準語にもできなかった。それでも言い直さない。母に、自分にする約束だった。
母は夕奈をしばらく見てから、小さく頷いた。
「それなら、ええ」
許されたわけではない。ただ、逃げ道が一つ減った。玲奈は二人のやり取りを遮らなかった。少し間を置いてから、資料の次のページを開く。
「活動名については、面接時の確認どおり、YUNAで進めます。チャンネル、プロフィール、初回告知素材などは準備中です。詳細は明日の説明でお見せします」
「それから、三人で活動するチーム名は、NOVA-3です。こちらも明日の資料で詳しく説明します」
玲奈が資料を切り替える。画面に、名前が表示された。
NOVA-3。
初めて聞き、初めて見る名前だった。自分たちで選んだ名前ではない。それでも明日には、その名前の下で動く三人の一人になる。
続いて、活動名が表示された。
YUNA。
アルファベット四文字。
見慣れているはずの名前だった。ランクマッチでも、その名前で何度も戦ってきた。
けれど会社の資料に載ると、少しだけ違って見えた。
自分の名前なのに、もう誰かの手で仕事用に整えられている。続きは、明日向き合うことになる。
玲奈は、禁止事項や報告義務、収益分配の大枠を説明した。夕奈はメモを取ったが、全部をその場で飲み込めたわけではない。
一つだけ分かった。ゲームがうまく、勝てばいいだけではない。配信で話す一言も、SNSに書く一文も仕事になる。
夕奈はペンを握り直した。紙の上で、自分の名前を書く欄が待っている。沢渡夕奈。
YUNAではなく、本名を書く場所だった。不思議だった。画面の中ではYUNAになる。
けれど契約書に責任を負うのは、沢渡夕奈だ。玲奈が確認した。
「ここまでで、署名に進んでもよろしいですか」
夕奈は母を見た。母は何も言わずに頷いた。止めない。
でも、見ている。その視線を受けながら、夕奈はペン先を紙に下ろした。沢渡夕奈。一文字ずつ書いた。沢。渡。夕。奈。
いつも大学の提出物に書く名前と同じはずなのに、今日は別の名前みたいだった。
書き終えたあと、夕奈はすぐにペンを離せなかった。その四文字が、紙の上で黒く乾いていく。YUNAとして画面に出る。
でも、その裏で予定を守るのも、体調を崩したら連絡するのも、大学の出席を落とさないようにするのも、全部この名前の人間だ。
沢渡夕奈。逃げられない名前だった。母も、入居前に提出していた身元保証書の原本確認に署名した。
玲奈が書類を受け取り、一枚ずつ確認する。
「ありがとうございます。これで、活動開始に向けた手続きは進められます」
夕奈の気持ちが追いつく前に、予定表は進む。それでも、ペンを置いたのは自分だった。
会議室を出ると、廊下のポスターがまた目に入った。
大会で笑う選手たち。新作ゲームの告知。配信イベントの明るいロゴ。どれも楽しそうに見える。見ている人に、そう思わせるために作られている。
夕奈は、自分もあちら側に立つのだと思った。楽しく見える場所に。けれど、その裏にある書類の重さを、今日知ってしまった。
受付まで戻ると、玲奈が立ち止まった。
「沢渡さん」
「はい」
「明日は、YUNAとしての活動資料を確認します。アバター、プロフィール、初回配信の流れです」
YUNA。
その名前を聞いた瞬間、夕奈は少しだけ息を詰めた。
「分かりました」
「今日はよく休んでください。ここから先は、予定が詰まっていきます」
玲奈は淡々と言った。優しい言葉ではない。でも、嘘でもなかった。
夕奈は頭を下げた。
「よろしくお願いします」
母も礼を言い、二人で受付へ向かった。
ゲートの前で、夕奈は首から下げていたゲストカードを外した。受付に返すと、係の人が丁寧に受け取る。
来訪者用のカード。今日だけ、この場所に入るためのもの。夕奈の手から離れると、それはすぐに受付の箱の中へ戻された。
会議室に入るためのカードは返した。けれど、鞄の中には契約書の控えと、活動開始前の予定表が残っている。
ビルの外に出ると、品川の空は昼の光で白く明るかった。駅へ向かう人の流れは、朝より少しだけゆるんでいる。それでも街は止まらない。
母が隣で言った。
「ご飯、ちゃんと食べよか」
「うん」
夕奈は頷いた。
母も夕奈も、今すぐ仕事の話を続ける気にはなれなかった。
紙の束は、昨日持ってきたコントローラーより、ずっと重く肩に残る。夕奈は鞄の紐を一度持ち直し、母と駅へ歩き出した。




