第2話 会社に用意された部屋
その会議室に入る前日、沢渡夕奈は西大井駅のホームに立っていた。東京に来たのだと、もっとはっきり分かると思っていた。
高いビル群。人の波。巨大な広告画面。そういうものが駅を出た瞬間に押し寄せてきて、自分がもう戻れない場所まで来たのだと、嫌でも思い知らされるのだと勝手に想像していた。
けれど、西大井の駅前は、夕奈が思っていた東京よりずっと静かだった。
改札を出ると、コンビニがあって、スーパーがあって、仕事帰りらしい人たちが足早に歩いている。ベビーカーを押す母親が横断歩道の前で立ち止まり、制服姿の高校生が自転車を引いて通りすぎる。遠くに見えるマンションの窓には、夕方の光が白く反射していた。
東京なのに、生活の匂いがした。もっと派手なら怖がればよかったし、もっと冷たければ負けないと思えた。目の前の街は、これからここで暮らす人間の顔をしていた。
キャリーケースの取っ手を握り直す。中には、最低限の服とノートパソコン、使い慣れたコントローラー、大学の履修資料が入っている。地方から持ってきた荷物は驚くほど少なく、心もとなかった。
スマホの地図を見ながら、夕奈は駅前の道を歩いた。地図の青い点は、会社から送られてきた住所に向かって少しずつ動いている。
ネクスフィアプロモーションジャパン指定物件。案内メールには、そう書かれていた。家賃補助あり。家具家電付き。ネット回線手配済み。活動用機材は後日配送。
自分一人で部屋を探し、契約し、家具をそろえ、回線を引くには、どれだけ時間がかかったか分からない。大学も配信も練習もある。ありがたい。
地図に従って歩いていくと、表通りから少し入った場所に目的のマンションがあった。新築ではないが、外壁はきれいに塗られていて、エントランスには小さな宅配ボックスが並んでいる。オートロックの横に、防犯カメラが一台、静かにこちらを見ていた。
夕奈はメールに書かれていた暗証番号を入力した。
電子音が鳴り、扉が開く。知らない建物に入ったはずなのに、すでに誰かが用意した道の上を歩いているような感覚がした。
エレベーターの鏡に、自分の顔が映った。
移動で少し乱れた前髪。肩にかけたトートバッグ。履き慣れたスニーカー。東京に来た人間というより、どこかの遠征帰りのように見えた。
夕奈は鏡の中の自分に、小さく息を吐いた。
「しっかりせな」
標準語で話す練習はしてきた。面接でも会社とのやり取りでも、できるだけ崩さないようにしている。けれど、誰もいないエレベーターでまで気を張る理由はなかった。
指定された階で降りる。
廊下は静かだった。遠くで換気扇の低い音がしている。夕奈は鍵番号を確認し、受け取っていた封筒からカードキーを取り出した。
ドアを開けると、まだ誰も住んでいない部屋の匂いがした。
白い壁。小さなキッチン。奥にベッド。折りたたみ式のローテーブルと、黒いワークチェア。カーテンはもう取り付けられている。冷蔵庫も、洗濯機も、電子レンジもある。
きれいな1Kだった。
狭いと言えば狭い。けれど、夕奈が一人で暮らすには十分すぎる。窓を開けると、隣の建物の壁と、少しだけ空が見えた。遠くから電車の音が届く。
夕奈はキャリーケースを部屋の隅に置いた。音が思ったより大きく響いて、少し驚く。今日から、ここが自分の部屋になる。胸の奥がふっと軽くなった。
誰にも起こされずに眠れる。深夜に練習しても、家族に気を使わなくていい。配信の声量を気にしながら部屋の壁を見なくていい。負けたあと、すぐ布団に倒れ込んでもいい。
自分の部屋。そう心の中で繰り返したとき、テーブルの上の茶色い封筒が目に入った。
封筒の表には、ネクスフィアプロモーションジャパンのロゴが印刷されていた。夕奈は手を伸ばして、中身を取り出した。
入居案内。備品一覧。通信機器の設定用紙。社内連絡アプリの初期設定手順。活動開始前チェックリスト。明日のオリエンテーション案内。
それから、配信用機材の受け取り予定表。
ベッドの位置、机の位置、回線速度。機材の受け取り、初回配信前の確認事項、提出期限、緊急時の報告先。部屋の説明が、途中から仕事の説明になっていく。
夕奈は紙を一枚ずつテーブルに並べた。
部屋の中に、自分の持ってきたものはまだほとんどない。キャリーケースとトートバッグと、履いてきた靴くらいだ。けれど会社から届いた書類だけは、最初からこの部屋に揃っていた。
夕奈は、並べた紙を見下ろした。
「……部屋まで、会社に用意されてるんや」
声に出したら、その違和感だけが部屋に残った。
ここで朝起き、大学へ行き、練習し、負けたり勝ったりするのは自分だ。それなのに、机も椅子も回線も、明日の予定まで、ここへ着く前から決まっていた。
夕奈はワークチェアに座った。
座面はまだ硬い。背もたれに体を預けると、少しだけきしんだ。机の上には、自分で選んだものがまだ何もない。ここにパソコンを置き、モニターを置き、マイクを置く。画面の向こうに、まだ見たことのない視聴者が来る。
そのとき自分は、沢渡夕奈ではなく、YUNAと呼ばれる。名前はもう決まっている。
プレイヤーネームも、表示名も、配信用のアカウントも、会社側で準備が進んでいると聞いていた。
夕奈はトートバッグからコントローラーを取り出した。
黒い本体の角は擦れている。何度も握り、負け、投げ出しそうになっても手放せなかった。これだけは、自分で持ってきたものだ。
勝った日も、負けた日も、指の跡が残るほど握ってきた。大会に出ると決めたのも、夜中まで練習を続けたのも、面接へ応募したのも、自分だった。
夕奈はそれを机の上に置いた。
白いテーブルの上で、コントローラーだけが浮いて見えた。会社の書類と、使い古した自分の道具が並んでいる。
夕奈はスマホを開いた。母からメッセージが来ていた。
『着いた?』
短い文だった。
夕奈は少し迷ってから、部屋の写真を一枚撮って送った。白い壁とベッドとテーブルだけの、何の面白みもない写真だ。
『着いた。部屋きれい』
すぐに既読がついた。
『ご飯食べなさい。明日ちゃんと話聞くんやで』
夕奈は画面を見ながら、少し笑った。母は明日、契約説明のために品川まで来る。ゲームのルールも、公式契約プレイヤーという言葉も、半分ほどしか分かっていない。それでも夕奈の本気は知っているから、何度も言った。
大学だけは、ちゃんと続けなさい。夕奈は返事を打ちかけて、消した。
明日、直接言えばいい。辞めない。休学もしない。ちゃんと通う。言った以上は、本当にやらなければならない。
ゲームの仕事。大学の授業。配信で見られる自分。まだ始まってもいない予定が、明日の向こうで重なっていた。夕奈は近くのコンビニで買ってきたおにぎりとサラダを袋から出した。
白いテーブルに、コンビニの袋がこすれる音だけがする。テレビもつけていない。実家なら、この時間は台所から水の音がして、母が何かを片づけていて、夕奈がゲームの話をしても半分くらいしか通じなかった。
今は、誰にも何も聞かれない。それが自由なのか寂しいのか、夕奈にはまだ分からなかった。包装を開けながら、窓の外を見る。
隣の建物の窓に、誰かの部屋の明かりがついていた。洗濯物が揺れている。どこかの家から、電子レンジの終了音のようなものが微かに聞こえた。
会社からの通知音が、スマホを震わせた。夕奈はおにぎりを置いて、画面を見た。
社内連絡アプリの初期設定が完了している。まだ誰ともやり取りをしていないアプリに、最初の予定が届いていた。
『明日十時。ネクスフィアプロモーションジャパン本社会議室。契約説明および活動開始前オリエンテーション』
その下に、地図のリンクと、受付での手続き案内が続いている。夕奈は通知を閉じ、テーブルの端に置いたカードキーを手に取った。
小さなプラスチックの板は、拍子抜けするほど軽い。これがなければ、この部屋には入れない。
机へ戻すと、使い古したコントローラーに当たり、乾いた音がした。夕奈はそちらだけを持ち上げ、いつもの位置に親指を置いた。




