第28話 数字の報告書
履修登録の締切まで、あと三日。
沢渡夕奈は品川駅へ向かう電車の中で、スマートフォンの画面を何度も上下させていた。必修科目は外せない。選択科目を配信の多い曜日から外すと、午前と夕方に授業が分かれ、一日中大学にいることになる。
結成から一年。NOVA-3は二年目の春を迎えていた。
一年前は、会社から送られてくる予定を確認するだけで精いっぱいだった。今は大学の時間割、配信、チーム練習、NOVA3Radio、会社での打ち合わせを、同じ画面の中で組み合わせなければならない。
午前は新年度最初の講義。午後は品川で月次活動報告。夜はそのまま、社内設備から三人でパーティーランク配信を行う。
夕奈が一限目の講義を時間割に追加したところで、相沢千紘からメッセージが届いた。
『グループ課題の打ち合わせ、来週の水曜か木曜空いてる?』
夕奈はすぐには返せなかった。
大学の予定だけなら、どちらも空いている。会社の活動予定表を開くと、水曜には個人ランク配信、木曜には三人の練習が入っていた。
木曜の練習開始は二十一時だった。大学から西大井へ戻る時間を考えても、夕方までなら参加できる。
『木曜の四限後なら大丈夫です』
返信してから、念のため社内アプリの予定をもう一度確認する。
カレンダーの木曜欄に「課題打ち合わせ」「西大井へ移動」「チーム練習」の三件が並んだ。母に大学を辞めないと約束してから一年、保存ボタンを押す前の確認は癖になっていた。
品川駅に着くと、夕奈は履修登録の画面を閉じた。代わりに、社内アプリに届いている月次活動報告を開く。同時視聴者数。
視聴維持率。切り抜き再生数。商品ページへの移動数。
先月まで、勝敗や順位の下に並ぶ補足のように見えていた項目が、今回は報告書の最初に置かれていた。
◇
会議室には、夕奈より先に遥真と航平が来ていた。
遥真はモニターに映されたグラフを見ている。航平は紙の報告書を手にしていたが、いつものように余白に何かを書き込むことはせず、最初のページを眺めていた。
「お疲れさまです」
「お疲れ」
遥真が短く返す。航平は夕奈の鞄からのぞいている履修資料に気づいた。
「大学から直行ですか」
「はい。今日は履修登録もあって」
「四月は、学生だけ予定表の難易度が上がりますね。俺は一年中、予定表に負けていますけど」
「早坂さんは、提出期限を守ってください」
書類を持って入ってきた玲奈が言うと、航平は報告書を机に戻した。
「今月分は出しました」
「昨日の二十三時五十八分に届きました」
「期限内です」
「次回は、送信に失敗しても間に合う時間にしてください」
航平は反論せず、椅子に座り直した。玲奈は三人が揃ったことを確認し、モニターに報告書を表示する。
「NOVA-3の活動数字は、先月も全体的に伸びています」
最初に映ったのは、先月の公式スクリムを振り返った配信の同時視聴者数だった。
五試合目の録画を流した区間。倉庫の脇へ回った遥真が、最後の敵を倒した瞬間に線が最も高くなっている。
勝利画面までは高い。しかし、録画を止めて三人が話し始めたところから、線は緩やかに下がり始めていた。
「分かりやすいですね」
航平が言った。
「俺たちが一番真面目になる時間に、みんな帰ってます」
普段なら、続けて自分の胃や人気のなさを笑いにしたはずだった。けれど航平はそこで口を閉じ、モニターを見続けた。手元の報告書には、昨夜ぎりぎりに足したらしい修正液の跡がある。白い盛り上がりを爪で押し、航平はすぐに手を離した。
グラフでは、遥真が敵を倒した場面に印がつき、夕奈が正面の撃ち合いを切り上げて倉庫の脇へ回ると決めた瞬間にも小さな山がある。航平が反対側の通路を見続け、二人が攻める時間を作った場面には何もなかった。画面を動かした操作も、二人へ声を掛けた時刻も、一本の線にはならない。
夕奈が航平を見ると、彼は視線に気づいたらしく、少しだけ口元を上げた。
「数字に胃の耐久値が入っていないのは、集計方法の不備だと思います」
「次の契約更新までに、評価項目に追加できるか確認します」
玲奈の返事が真面目だったため、航平は小さく笑った。
「本当に申請されると困ります」
会議室の空気は少し緩んだ。航平は笑ったまま、報告書の何も書かれていない余白を親指でこすった。紙に薄い灰色の跡がついたが、グラフの線は変わらない。
「早坂さん」
玲奈が呼ぶ。
「はい」
「見えない仕事が、ない仕事になるわけではありません」
「数字の報告書で言われると、慰めに聞こえますね」
航平の返しは笑っていたが、玲奈は笑わなかった。
「では、見せ方を考えてください。私が評価欄へ一行足して終える話ではありません」
玲奈は次の資料へ進んだ。
「切り抜きから、NOVA-3の公式ページへ移動する人も増えています。特にHALさんの撃破場面を入口にした動画からの流入が多いです」
遥真は、自分の名前が出ても表情を変えなかった。
「ただし、動画を見た人が配信へ来ても、試合後まで残っているとは限りません」
報告書では、試合結果のあとに、何人が来て、どこで配信を閉じ、次に何を押したかまで数字が続いていた。
「振り返りを短くした方がいいということですか」
夕奈が尋ねると、玲奈は三人の話に入ってから下がる線を示した。
「反省会をやめろとは言いません。ただ、皆さんだけに通じる言葉を三十分聞かせても、試合を初めて見る人には残りません」
「では、短くすればいいんですか」
「私から秒数を決めるつもりはありません」
玲奈はそこで説明を止めた。
「分かる形……」
夕奈は過去の配信を思い出した。
三人だけなら、「あそこが遅かった」「戻れた」「左が空いていた」で通じる。だが、試合を初めて見る人には、何の話をしているのか分からないまま会話が進んでしまう。
「一試合につき、一個なら話せますかね」
航平が言った。提案の形なのに、夕奈ではなくグラフへ向けた声だった。
自分の映っていない時間を、自分で短くしようとしている。夕奈にはそう聞こえた。
「一個を誰が選ぶんですか」
「そこからですか」
「ハルが倒した場面を選べば分かりやすいです。でも、それだけなら、今の切り抜きと同じです」
航平は紙を裏返し、『一個』と書いた。
「では、俺の画面を見せます?」
軽く言ったあと、自分で困ったように笑った。
「見せたいんですか」
夕奈が聞くと、その笑いが先に消えた。
「見せなければ伝わらないと言われたので。見せたいかどうかは、そのあと考えます」
玲奈は答えを足さず、グラフを閉じた。暗くなったモニターに、椅子の離れた三人が薄く映った。
「敵が来ない方向を見てる時間が長いので、かなり地味ですよ」
「結果だけ見せることにはなりませんか」
夕奈は尋ねた。
短くすれば見やすい。けれど、敵を倒した瞬間だけを見せてしまえば、大学で見た切り抜きと同じになる。
三人が勝つまでに何を考えたのかが、また消えてしまう。
「撃ったところだけじゃなくて、その前も見せたい」
遥真が言った。夕奈が見ると、遥真はグラフへ目を向けたままだった。
「俺だけで勝ってるわけじゃないから」
玲奈が三人を見渡す。
「勝ったことは入口です。入口の先で何を見せるかは、まだ決まっていません」
◇
夜になり、三人は会議室から同じフロアの配信室へ移った。
防音された室内には三台のPCが並び、スタッフがゲーム画面と音声を確認している。この日は三人の視点を切り替えられるよう、航平の画面も個別に収録されることになっていた。
一試合目は九位だった。
夕奈が終盤の戦闘を開くと、遥真はその少し前を指した。航平はさらに前、何も起きていない移動中へ戻した。
「一個ですよ」
「だから、どこを一個にするかです」
夕奈は録画を閉じた。「一試合目は、ここまでにします」とマイクへ告げ、次のマッチングを始めた。
二試合目。
中盤の工業区画で戦闘を始めたNOVA-3は、遥真が正面から敵の注意を引いている間に、夕奈と航平が右側の建物へ回った。
敵は遥真を押し返そうとして、二人が入った通路への警戒が遅れた。
夕奈が一人を割り、遥真が正面から落とす。航平は背後の別部隊に気づき、残り二人を追おうとした夕奈を止めた。
NOVA-3は一人だけ倒し、建物を抜けてエリア内へ移動した。
その後、別の戦闘に巻き込まれて六位で終わった。
結果画面が消れると、夕奈は調整卓のスタッフへ「KOHEI視点を出してください」と頼んだ。
「会議では、案として出したつもりです」
航平の声が隣から届いたときには、もう画面が切り替わり始めていた。
「嫌なら戻します」
「もう出てます」
航平は笑わなかった。
映っているのは、工業区画の裏口と、ほとんど動かない照準だった。画面外では遥真の射撃音と夕奈の報告が続いている。航平の視点だけを見れば、何もしていない時間に見えた。
「ここです」
航平が言う。自分で選んだ場面ではないせいか、声だけが一歩遠かった。
「何も来てませんが、来るかもしれないので見ています」
「今の言い方だと、本当に何もしてないみたいです」
夕奈が返すと、遥真が音声を聞いていた。
「このあと、足音」
数秒後、画面の端を別部隊の一人が横切った。航平は撃たず、赤い印だけを置く。夕奈の『追いません』が入り、三人の視点が一斉に出口へ向く。
「俺が見つけたから止まった、とは言えません。二人も銃声は聞いていたので」
「でも、私が追わないと言えたのは、その印があったからです」
「正面は撃てた。でも、奥まで行ったら戻れなかった」
遥真は航平の画面を見ながら言った。
夕奈はコメント欄を見た。
『結局、HALが一人落としたところが大事?』
『右へ回った二人の方じゃないの』
『後ろの部隊、画面に映ってなかった』
『一人倒して逃げただけに見えたけど』
一つの画面を見せても、コメント欄では別々の場面が選ばれた。同時視聴者数は試合終了直後から少し下がった。夕奈は数字を開きかけたが、航平の何も起きていない裏口がまだ映っていたので閉じた。
『KOHEIが止めてた後ろも見たい』
そのコメントが流れたとき、航平はすぐには返事をしなかった。
「ありがとうございます」
一拍遅れて、航平が言った。
「でも、次から勝手に出さないでくださいね」
配信だけを聞けば、いつもの軽口に聞こえただろう。航平はカメラではなく、夕奈を見ていた。
「ごめんなさい」
『仲悪い?』が一つ流れた。夕奈は拾わなかった。
航平は、報告書の余白をこすっていた親指を止めた。
「次も俺の後ろだけ映して、何も来なかったらどうしましょうね」
航平は笑った。コメント欄に『それも仕事では』と『敵が来たときだけでいい』が並ぶ。
夕奈は、どちらにも印をつけなかった。
三試合目のあと、夕奈は先に航平へ聞いた。
「どこを出しますか」
「今日は俺の画面じゃなくていいです」
その言い方を了承と取っていいのか、夕奈には分からなかった。遥真は回復を残した場面を選び、夕奈は建物へ入った判断を選んだ。『一個』は二つのまま、次のマッチの待機時間を使い切った。
四試合目は録画を開かず、次へ進んだ。『さっきのKOHEI視点は?』というコメントに、航平は「配信後に残します」とだけ返した。
午前の講義と月次報告に続くこの日は、三時間、全六試合で配信を終えた。一項目に絞れた試合、選び切れなかった試合、何も見せず次へ進んだ試合が混じった。同時視聴者数の変化は、翌日の集計まで分からない。
配信中に伏せていたスマートフォンを返すと、千紘から資料の写真が届いていた。木曜の打ち合わせで使うページらしい。『履修、結局どれにした?』という文も続いている。
夕奈は返信欄を開いた。時間割の木曜には大学、移動、練習が隙間なく並んでいる。『あとで送る』と打ち、送信前に消した。あとで、がいつか自分でも分からなかった。
「夕奈さん、帰ります?」
航平に呼ばれ、夕奈はスマートフォンを伏せ直した。
「録画を見てからです」
遥真が振り向いた。
「全部?」
「全部は……今日は無理です」
口にしてから、負けたような気分になった。
「工業区画は、俺が選びます」
航平が言った。夕奈は頷いた。許されたとは思わなかった。航平は自分の視点ではなく、三人を上から追った全体映像だけを残して、ほかのタブを閉じた。
◇
配信終了後も、三人は品川の配信室に残った。詳しい録画確認は、ここから先だ。夕奈が工業区画の映像を開こうとしたところで、玲奈が部屋へ戻ってきた。
「始める前に、もう一件あります」
玲奈が別の資料をモニターに表示する。最初に見えたのは、青と白の衣装だった。
デルタフィールドのキャラクターモデルが、見覚えのある栗色の髪と、YUNAのアバターに似た顔を持っている。
袖や装備は戦闘用に調整されている。それでも、その笑い方まで夕奈が配信で使っているYUNAに似ていた。
「次の販促企画です」
玲奈は言った。
「YUNAのアバターデザインを基にした、限定スキンを予定しています。発売前に、沢渡さん本人にも最終確認をしてもらいます」
画面のキャラクターがゆっくり一回転し、YUNAと同じ笑顔を正面へ向けて止まった。
航平が、自分の画面に残っていた工業区画の全体映像を止めようとした。
「航平さん、それも見ます」
「スキンより先ですか」
「先です」
航平は停止ボタンから手を離した。




