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第一章 01

 直毘は親元を離れ弟とマンションで二人暮らしをしている。それも今日で終わりだ。


 寒さもまだ残る三月も下旬。明後日には始業式という今日、直毘は寮へ入ることになる。予定されている寮の間取りは2LDK。あの奇怪な女性である冬月雪那と同居となる。


 最低限の荷物だけリュックに背負い、直毘は玄関でスニーカーを履いて振り返る。目に入れても痛くない可愛い弟が、こちらを小動物のように眺めていた。


「お兄ちゃん、もう行っちゃうの?」


「悪いな。早めに荷物の仕分けをしておきたくてな」


 そっか、と言って伸ばしかけた手を下ろした伊豆乃がTシャツの裾を握る。弟の胸中を思うと家から離れられなくなりそうで、それでも何かをしたくて頭に手を置いた。


「定期的に帰って来るさ。なにかあれば連絡してくれていい。家事は教えたから、ひとりでできるか?」


「うん、大丈夫」


 今生の別れではないのに、ずっと一緒に暮らしてきた期間に比例するように、言葉が溢れそうになる。ぐっと堪えようとして、でも心配が口からまろびでる。


「配信、ひとりで準備できるか?」


「うん、最近はお兄ちゃんより詳しいでしょ?」


「アンチとやらは気にするなよ?」


「一年でスルーすることをちゃんと覚えたよ」


「個人情報はしっかり守るんだぞ?」


「なんだかぼくの方が心配になってきたよ」


 うっ、と喉がつまる。直毘もこれから異次元の世界へ向かう。苦手な女性との寮生活。弟が心配するのも無理はない。


「大丈夫だ、一緒になるやつは、なんというか、武士だ。だから女じゃない」


「言ってる意味が分からないけど、お兄ちゃんが大丈夫なら良かった」


 天使の笑みを伊豆乃がたたえる。これ以上話すと離れがたくなる。


「じゃあ、もう行くな。戸締りはしっかりな。不審人物は絶対に入れないように。オートロックだけど、油断しないようにな」


「うん、大丈夫。お兄ちゃんも気をつけてね」


 尾を引かれながらも直毘はドアを開いて玄関を出る。その足でエレベータに乗り、街路に出た。


 三月の朝はまだ寒く、防寒着を着ていても隙間から入る風が肌に痛い。往来の多い道を進んで駅へ向かう。女学生とすれ違うたび、心が軋む音をたてる。それを必死に殺して直毘は歩く。


 駅に入って改札を抜け、電車に乗った。都心部へ向かう路線だから、朝だというのに人が多い。なるべく女性がいない位置取りをしたかったが、身動きが取れずにどこぞの女子高生の隣に立つ。


 悪寒が足元から背筋を登る。


「あいつキショくてさー。ちらちら胸見てんの。バレバレだっつーの」


「分かるぅ! あれ分からないと思ってんのかなぁ?」


 女子高生たちの会話が臓腑をえぐる。身に覚えがあるわけではない。ただ甲高い声が恐怖を呼び起こすだけだ。


 吐き気がする。奥歯を噛んでじっとこらえた。


「あ、見て見てこれ。かわいくな~い?」


「あははぁ、ホントだぁ。それ送って」


 何気ないやり取り、下らない会話の応酬。それが近い年代の女子を通しただけで身体を震わせる。なにも問題はない。ただの人だ。なんの関係もない他人。心の底で何度も唱える。


 電車が止まり、女子高生らが下りていく。思わずほっと息を吐きだした。首筋に流れる汗が、車内の冷房にあたって異様に冷たい。


 こんな有様でやっていけるのか。


 浮かんだ問いが重く胃に圧し掛かる。直毘だって、好きで女嫌いになった訳ではない。昔は親友と呼べる存在だっていた。それがただ裏返っただけだ。電車の中だというのに泣きたくなる。


 荒くなった呼吸を落ち着けて、直毘は無心に車内案内表示を睨む。早く目的の駅に着けばいい。


 やがて、直毘は電車を降りた。改札口は学生らしき姿で埋まっていた。たぶん同じ学校の者らがたくさんいるだろう。あるいは、同じように今日ここに来た者たちも。


 直毘は思考を止めてただ歩いた。人ごみの間隙を抜け、改札を通って駅を出る。外の空気が顔に叩きつけられ、ようやく落ちかけた気分が戻りそうだった。


 人波に乗って駅前を離れていく。外気が肺を少しだけ冷やしていく。


 春の道を足早に進む。要所にある桜の木は、ちょうど満開の花を咲かせていた。艶やかに匂い立つ花弁が降る。万燭を灯すかのように、一枚一枚が白く輝いている。


 気づけば足が止まっていた。ただの桜が、固まった心をほぐすように暖かく見えた。


 口元を少しだけ緩めて直毘は一歩踏み出す。


 なに、気負うことはない。一緒になるのはあの令和の武士だ。心が潰れることはきっとない。


 突然、裾を引かれる。何事かと思ってふり向くと、背後に日本人形が立っていた。


「直毘、ちょうどいい。迷った」


 以前とほとんど同じ格好の冬月雪那だ。違いと言えば、白のキャスケットを被っているくらいか。父親も苦労しているのだろう。


「ここを直線だぞ? それで迷うのか?」


「見てくれ。このスマホ、画面を見てもどこに行ったらよいのか分からない。欠陥品ではないか?」


「お前の方向感覚が致命的なだけだ。文明の利器に文句を言うな」


 画面を顔面に押し付けるように雪那がスマホを向けてくる。よく見れば人気の最新機種だ。この女にはもったいない。メーカーの人間はきっと泣いている。


「なるほど、やはり技術の進歩とは凄まじいものだ。私はまだこのスマホを扱うに足る人間にはなっていないということか」


「スマホの扱いに資格はないぞ」


「なに? この奇怪な物体をみな手足のように扱っているが、修練の結果ではなかったのか?」


「なに物体扱いしてんだよ。使ってりゃ慣れるだろ。交友関係で使ったりするだろ」


 ふっ、と雪那が不敵な笑みを浮かべた。


「一週間前、父に買ってもらったばかりだ」


「お前本当に明後日から女子高生になるのか?」


「正確に言いなおそう。本当は不要だったのだが、買い与えられた」


「もっとひどくなったな……」


 スマホを不要と断ずる高校生がいたら見てみたい。眼前にいるのが嘆かわしい。産まれる時代を数世紀ほど間違えてしまったらしい。


 雪那が不審げに眉をひそめる。


「中学時代、私は天然だと言われていた。天然理心流は学んでいないのだが」


「後半は分からんが、前半は的を射ているとは思う」


「どういう意味だ?」


「マイペースって意味だ」


「なるほど、それは私に合っている。直毘も私を天然と呼んでもよい」


「それは絶対に他の奴に言うな」


「駄目なのか?」


「自分のことを天然って言うのはいまこの瞬間までにしとけ」


「む、そうか。よく分からないが、お前がそういうのならやめておこう」


 随分と信頼されたものだ。理由が分からないが、気にする必要もない。


「じゃ、行くぞ。ちゃんと付いて来いよ?」


「よろしく頼む。不審者がいれば私に任せろ。木刀は背に仕込んでいる」


 武士め……。


「頼むから木刀を表に出すな。あと絶対振るな」


「なるほど、こう見えても素手でも戦える」


「戦うなって言ってんだよ」


 再び裾を掴まれ、足が止まる。雪那が首を傾げていた。


「なぜだ?」


「警察のご厄介になりたくないんだよ。入学直前に警察沙汰になったなんて噂が校内で広まりたくはないだろ?」


「日常茶飯事だろう?」


 どこの常識だそれは。


 これは本格的に常識をすり合わせる必要がありそうだ。寮に着き、届いている荷物を整理したら必ず会話の時間を持とう。


「不審者がいたら俺が追い払う。そんときはお前は逃げとけ」


「なに? 武術を習っていない体捌きに見えるが、直毘は戦えるのか?」


「世の中戦うだけがすべてじゃないんだ。まずは手を離してくれ。これだと一生寮に着かない」


「それは困る。迷って着かなかったと父にバレてしまえば、なにを言われるか分からない」


 ぱっと離した雪那の手が腰へ向かう。見なかったことにした。幸い、彼女はブツの位置を直しただけで表には出さなかった。


 どうにも気が休まらない。なぜ会って数分でここまで疲れるのか。


 益体の無い思考を止めて足を踏み出す。雪那が横に並ぶ。フードの隙間からブツが見え隠れしている。これがバレたら何罪になるのだろう。


「直毘、料理はできるか?」


「一通りは」


「そうか、なら日々交代で良さそうだ」


「料理できるのか?」


「道場の皆は泣きながら食べてくれた」


 どっちの意味だ。


「何が得意だ?」


「あの日はハンバーグを作った。どうにも黒くなっていたが、みなは褒めちぎってくれた。形が良いとか、色に趣きがあるとか。だが、なぜか作った私は食べさせてもらえなかった。美味しすぎるから自分たちで全部食べたいと言われてな。そこまで言われては、私としても気分が良かった」


 最悪だ。こいつに台所を任せる訳にはいかない。どうして道場の全員がこいつにまともな感想を言わない。知らなかったらとんでもないものを食べさせられていた。


「お前の料理は特別なんだろ。料理は俺に任せろ。いや、俺にやらせてくれ」


「む? 毎日は大変だろう。ここの寮は食事が出ないと聞いている。私とて女の端くれ、料理くらいしよう」


 やめてくれ。


「特別な料理人は、あれだ、特別な日に作るんだよ、きっと、たぶん。だから日々の食事は俺がやるよ」


「そうか? 分かった、お前に任せよう。なに、他の家事も私は完璧だ。頼りにしてほしい」


「……洗濯は?」


「洗濯機に入れるだけだ。もちろん、洗剤と柔軟剤は忘れないとも。特に干すのは得意だ。皺がある生地をぴんと伸ばすのはとても気持ちのいいものだ」


 よし、洗濯はいける。


「掃除は?」


「寮には掃除機があると聞いている。雑巾での掃除が好みだが、文明の利器には触れていこうと思う」


 掃除機は壊すかもしれない。今日中には確認しておこう。あとスマホも要注意だ。操作は教えておこう。


「直毘、私もひとつ聞きたい」


「……なんだ?」


「父に何度も言われていることがある。男は狼だと。だから気をつけろとうるさかった。どういう意味だ? 狼くらいならば私は勝てると思う」


「……学校の先生に聞くといいんじゃないか? たぶん、体育の先生とかが詳しいと思う」


「そうか、やはり専門家に聞くのが一番良いか。助かった。長年の謎がいよいよ解けそうだ」


 なぜ年単位で分からない。なぜちゃんと教えなかった父親よ。


 ああそうだ、と雪那が思い出したように言う。猛烈に聞きたくない。


「風呂は先がいいか? それとも後か? あるいは一緒か?」


 なぜこいつを外に放り投げた。せめて情操教育のひとつくらいはしてから送り出せ。親の責任を放棄するな。


 いや、違う。きっと一生懸命だったのだ。見ろ、雪那の服装を。どうせ父親が奮闘しなければ和服で来たに違いない。木刀を隠し持ってくる女だ。この服を着させるだけでどれだけの苦労が必要だったか。考えるだけで涙が出てくる。


 会うことができなかった男に娘を託すのは勇気が必要だっただろう。裏で母が会ったと聞いてはいるが、娘を持つ親にとってはきっと苦渋の決断だったはずだ。


「後か先かはどっちでもいい。ただ一緒に入るのは無しだ」


「む? そうか、やはりひとりの時間は必要だ。私もよく風呂に入りながら瞑想をしている」


 行動理由がまったく分からない。だが、なぜだと問われるよりはずっといい。直毘は雪那の理解を諦めた。


 寮らしき建物が見えてくる。白とグレーの比較的新しいアパートだ。直毘はスマホを取り出して間違いないか確認する。隣から雪那が画面を覗き込み、なぜか感嘆の息を漏らしていたが、聞かなかったことにしておいた。


 朝早く来たのが正解だったか、学生の姿は見えない。


 入口の前で直毘は立ち止まる。妙に鼓動が早かった。自然と目が細くなっていく。


 さっ、と雪那が直毘の前に立ち、髪をなびかせ振り返る。彼女の輪郭がなぜか輝いて見えた。


「改めて直毘、よろしく頼む」



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