第四章 03
かつて、決別することになってしまった少女が、こちらを柔らかい眼差しで見つめている。喉に何かが引っ掛かったように直毘は声が出せない。隣に立つ雪那が一歩足を踏み出す。
「天照か。なにか用か?」
淡い視線が横に流れ、曖昧に笑った。
「ううん。ごめんね、邪魔しちゃって」
じゃあね、それだけ言って、天照朔は校門を抜けていった。
後姿を見ながら直毘は口元を押さえた。吐き気がした。
「どうした? いや、言わなくていい。やはり女と相対するのは辛いか」
違う。
「気にすんな。ただの、あれだ、立ち眩みだ」
直毘は足を踏み込む。身体は動く。ただ、頭だけが混乱している。一か月も同じ教室にいて気づかなかった事実が、どうしようもなく苛立たせた。
昇降口まで会話はなかった。沈黙がありがたかった。同時に、これをいつか明かせる日が来ることを想像できない。雪那が何か言いたげな顔で体育館へ向かい、直毘は教室へ行く。
席に着くと、月読が机に板チョコをことりと置いた。
「……なんだこれ」
「ん、昨日のお礼だよん。久々利が出したんだー」
「当然のように久々利にたかるなよ。まあもらうけど」
板チョコを剥くかカバンに仕舞うか悩んでいると、月読が小さい声で呼ぶ。
「ねえ、なおびー」
「なんだー?」
「恋でもした?」
「一番俺から縁遠い話が来たな」
月読を見ると、身体をこちらにずらして全身で見つめていた。切れ長の目が心でも透かすように直毘を捉える。
「……ごめ、詮索しすぎだー。いまの忘れて」
「恋愛話はよそでやってくれ。あれだ、分かるだろ?」
「りょーかい。ホントごめん」
ぱちん、と大げさすぎるほど手を合わせて真面目に頭を下げる月読が、少しおかしかった。
「そこまでやんなよ。なんか俺が触れ難い男みたいだろうが」
「え? ちがくなくない?」
顔を上げて目をぱちくりした月読の一言がダイレクトに胸に刺さる。心当たりしかなかった。
「そだな。すまん、反省するわ」
「料理一回で手を打とうかなー」
「はったおすぞ損得女め」
「やーん、なおびーがいじめるぅー」
月読が自分で身体を抱いてしなを作る。久々利がいないことが残念だ。さっさと朝練終わらせて来い。ふたりでこいつをぼっこぼこにしたい。
左から影が差す。視界にツインテールが揺れた。
「眞守くん、昨日は……ごめんなさい」
告白した少女――神薙が直毘の前で深く頭を下げる。
「待て、なんで謝るんだ? 特になにか……いや、危害を加えられた覚えがないんだが」
「でも、昨日センセーから聞いたから」
「ああ、それな。気にすんな。もう終わっただろそれ」
顔を上げた神薙が困惑した顔で頬を掻く。
「えーっと、普通こういうとき、ちょっとは怒るんじゃないかな?」
「悪くない奴に怒ってどうすんだよ……。あれだ、アメちゃんいるか?」
「もらおっかな」
ほれ、とポケットに右手を突っ込んで、神薙が両手で作った器の中に落とす。瞬間、月読がそれを横合いから奪い取った。
横目で月読を見る。彼女はふふん、と意地悪な笑みを浮かべていた。
「……なにやっちゃってんのお前?」
「え? 空気重いじゃん? だから?」
「意味分かんねー」
もう一回ポケットに手を突っ込む。残念ながら在庫が尽きた。仕方あるまい。左手に持ったままの板チョコを神薙の器に置いた。
「アメからチョコに進化したよ?」
「悪いな。月読のせいで無くなった。文句はこの業突張りモンスターに言ってくれ」
「うん、ありがとね」
踵を返してぱたぱたと神薙が席に戻る。月読が顔を近づけてきた。やめろ。近いんだよお前は。
「もったいない子ふったねー」
「さっき張った防衛線をすぐに踏んでくるなお前」
「だめだった?」
「終わった話だな」
のそりと背もたれに深く寄り掛かる。時計を見ると、HR開始まで時間があった。目が勝手に六澤――天照を探そうとする。教室の彼女は、かつてと同じように男子生徒と仲良く話していた。そして、異なる温度で女子生徒と関わっている。
直毘は右手で視界を覆った。
前より、彼女は明確に自身の立ち位置を固めている。その履歴が遅れて直毘の頭に理解を落とし込む。それが、どうしようもなく苦痛だった。
生徒たちが集まっていき、にわかに教室の喧騒が広がっていく。
予鈴。HR、そして授業が始まる。
授業をひとつ終えるたび、身体にたとえようのない疲れが滲んでいく。休憩中に貼り付けた仮面は、きっと道化染みていただろう。
昼休憩の段になって、直毘は弁当箱を出すこともせず立ち上がって、ふらふらと廊下へ向かった。月読に声を投げられるも、トイレだ嘘をついて教室を出た。
逃げるように歩いて辿り着いた先は、いつだったか月読に追及された校舎裏の影が差したベンチだった。
「ほんっとに成長しねえな俺は……」
嗚咽するように言って、直毘は両手で顔を隠してベンチに座り込んだ。
梢が揺れ、葉がこすれる音。風が運ぶほんのりと鼻を掠める草花の匂い。遠くから靴底を鳴らす足音が近づいてくる。
「なーにしてんだかなあ直毘くん」
眼前で止まった気配が、爽やかな声を発した。はっ、と笑って顔を上げると、金髪が視界に入る。
「黄昏ごっこだ。かっこいいだろ?」
「いいね。採用だ。今度俺もやるよ」
隣に座った久々利が人懐っこい笑みを向け、布袋を押し付けてきた。
「ほら、忘れ物」
置いてきた弁当箱だった。
「……お前、俺トイレって言わなかったか?」
「いやー、今日の直毘はそのまま遊びに行く気がしたんだ。いやもう正解だったね」
「うわー、コミュ力お化けだなお前。いっそ怖いわ。超怖い」
「最近俺の扱いひどいよな? 絶対ひどいよね?」
「文句は月読に言え。大体あいつが原因で発端だ」
やっぱあいつかぁ、と久々利が低い苛立ち声をあげた。こいつの月読憎しはどこまで増していくのか。
「で、なんの用だ?」
「ん? 男同士ってあんまないだろ。たまにはいいじゃん」
「それもそだな」
自分の弁当箱を開けた久々利が何気なく言う。
「直毘はさ、将来なにになりたい?」
「さてな、考えたこともねえよ。お前は?」
「昔はNBAの選手になりたかったな」
「いまは?」
「国家公務員、とか?」
「なんで疑問形なんだよ。あと範囲広すぎねえかそれ」
「言い換えるよ。分からない」
「俺とたいして変わらんな」
「そうさ。変わらない」
そか、と息するように言って、直毘は弁当袋を開いて蓋を外した。
「直毘は楽だな」
「あん?」
「返ってくる言葉が楽なんだよ。惰性で話してても会話できるだろ?」
「口が乱暴ですまんね。でも今後も全力で盾になってもらう」
「女の子から?」
「……そだな」
「では直毘くんを連れて来いという話は俺が断っておこう。合コンに誘われるってのも考え物だね」
「待て、冤罪の件もあるのになんでそんな話になった。いや、聞きたくない」
「外面のいい直毘くんは、料理ができる話題が広がってそりゃもう神格化されてるんだ。冬月の言葉は偉大だね」
「雪那ぁ……! あいつの口を今すぐ塞ぎたくなってきた……!」
「どう? 少しは寮のペアに悩まされる人の気分が分かった?」
「いま分かった。すごく分かった。いますぐ戻って殴りたい」
「今度バッセン行こう。あれ結構いいんだ。特に来たボールに憎らしいものを重ねるとさいっこーな気分になれるんだ」
「相変わらず報復方法がちっちぇんだよなぁお前」
「どうせ直毘も家事とかだろ?」
「……さて、どうだったかな」
さすがに雪那にすべてぶちまけたとは言えない。そう考えると彼女に怒るのはさすがに酷……ではないな。怒っていいはずだ。おかず一品抜くか。
ちっちぇえな。人のこと言えねえ……。




